猫
ぐぅー・・・・。朝食を抜いた僕のお腹は凄まじい音をたてた。
「おい、お腹吼えとんでー。はははっ。」
「寝坊したんで朝食べてないんです。」
「犬上さぁ、ここ来てもうすぐ1年なんやし、しっかりしーやー。」
寅さんは僕の背中を強めに叩いて言った。寅門彰<てらかどあきら>28歳。ここの獣医で僕の先輩。細いが筋肉質で長身。そこそこ顔が良くいつもニコニコしているマイペースな人だ。それに比べて僕は寝ぐせがついててちょっと時代遅れな黒縁メガネをかけた小さいもやしみたいな男だ。そんな寅さんは女性からも人気だ。実際、寅さん目当ての飼い主だっている。
ガチャ。ドアが開いて入って来たのは一人の女性だった。元気のない犬を連れている。「あっ、山田さんとマックスくん。今日はどしたん?健康チェック?」
たびたび健康チェックに来る山田さんとペットのマックスくんだ。この人も寅さん目当ての一人だ。
「寅門先生、違うんですぅ。うちのマックス、全然ご飯食べてくれないんですぅ。」
「いや食べたいんだけどさぁ、歯が痛いんだよね。こうも痛いとさぁ、食欲無くなるんだよね。」
マックスくんは必死に訴える。しかし寅さんも山田さんも理解していない。
「そうですかぁ・・・。消化不良かなぁ?犬上、どう思う?」
「・・・歯痛とか・・・ですかね?」
「おお!凄い人間もいるんだなぁ。大正解だ。」
マックスくんは僕に感心してくれた。「実は聞こえてるんだよ。」と言いたかったけど我慢して、ニッコリしておいた。
この病院で働くのは院長と寅さんと僕の3人だけだ。2人とも僕の症状については理解してくれている。しかし飼い主たちは別だ。僕がいきなり自分のペットと話しだしたら驚きを通り越して引くだろう。
「おっ。さすが原因究明のプロ。大当たりや。山田さん。これ、ここにでっかい虫歯できてますわ。」
寅さんはマックスくんの口の奥に指を突っ込んで僕と山田さんに見せながら言った。僕は確かに原因究明は得意だが治療の方はまだ助手という身分だ。
「とりあえず人間と同じように削ります。その間、犬上君の歯磨き講座でも聞いて待っといてください。ほな、頼んだでっ。」
「いっっ・・・はい。」
寅さんはさっきより強く僕の背中を叩いてマックスくんと共に治療室へ入っていった。僕は受付兼事務室へ行って犬の口部の骨格模型と歯ブラシを持って山田さんのもとへ帰った。待合室のソファーに座って正しい磨き方をレクチャーする。その間も山田さんはマックスくんを心配して気が気でなさそうだ。治療室から微かに聞こえてくる掘削作業の音が余計にそうさせるのだろう。僕はできるだけ手短に説明した。
「虫歯の部分に歯ブラシをこの様に当ててあまり力を入れずに磨いてください。ブラシと、場合によっては歯磨きみたいなものも処方しますがそれは先生に判断してもらいます。」
僕は模型と歯ブラシを使ってやって見せた。
「ありがとうございます。で、タイミングは食後でいいんですか?」
「はい。それでお願いします。」
歯磨き講座終了。少々の間、沈黙が流れる。そしたら寅さんが治療室から出てきて言った。
「2人とも、入ってください。」
僕は山田さんに続けて治療室に入ると、麻酔でグッタリしているマックスくんが診察台にいた。
「山田さん、説明するんでこっちへ。犬上、マックスくんのことちょっと見といて。」
「分かりました。」寅さんは少し奥の椅子に山田さんを案内し、向側にもう一つ椅子を置して説明を始めた。この距離から見ると、寅さんが山田さんを口説いているように見える。実際、山田さんはちょっと嬉しそうだ。さっき僕といた時とは顔つきが全然違う。
「ぉぉぃ、どうなってるんだぁ?体は動かないし、ぼうっとするよ…・もう死が近いのかなぁ?」
マックスくんが初めての麻酔に戸惑っている。こういう術後のケアもプロ級の僕はメガネを外して応えてやる。
「落ち着いてマックスくん。それは麻酔っていって、治療を痛くないようにするためのものだから時間が経てば元通りだよ。」
「へぇ、そうかぁ。って!!僕の言葉解るの?!」
昔はそうでもなかったが、最近のペットは僕が話しかけたら絶対にそう訊いてくる。そして僕も必ずこう返す。
「まあね。」
「だから僕が歯痛だってことも解ったのか。」
「うん。おもいっきり訴えてたからね。」
「そうかぁ。そんな人間初めてだよ。」
「たぶんこれからも遭うこと無いよ。」
「ははっ、そりゃあ良かった。貴重な体験しちゃったなぁ。得した気分。」
こんなことで得した気分になれるなんて、さすが犬だ。動物は人間と違って素直で純粋なのが多い。だから人間が余計に汚く見える。ペットは飼い主に似るって言うけどそれは見た目だけで、中身は全く似ていない。
そんな会話をしていると、寅さんと山田さんが話を終えてこちらへ戻って来た。
「あー、マックス!良かったねー。歯磨きしたら大丈夫だって!!」
山田さんはかなり嬉しそうに言った。麻酔が切れてきたマックスくんは山田さんの口をペロペロ舐める。
「おかげで気分最高だよ!ありがとう。先生たちも、ありがとう。」
こうして、山田さんもマックスくんも幸せオーラを振り撒いて帰っていった。
その後は健康チェックやその他諸々の動物がいくつか来て、午前の部は終了した。そしていよいよお待ちかねのランチタイム。僕はもう腹と背がくっ付いてもおかしくないほど腹ペコだった。休暇室に行くと猫が窓から差す日光に当たりながら寝そべっていた。
「おっ、ちょうど良かった。昼飯が欲しかったんだよ。」
入ってきた僕を見るなり猫は言った。僕は溜め息を吐<つ>きながら再びロッカーからカリカリまんまの大袋を取り出して皿に盛る。
「はぁ・・・。お前は楽そうでいいね。」
「まぁな。モグモグモグ・・・うめぇ。」
「人が餓死しそうだっていうのに・・・ほんっとにおいしそうに食べるよな。」
「そりゃうめぇからな。・・・やらねーぞ!」
「いるかっ!」
僕はそう言うと白衣を脱いでロッカーに直し、カバンを持って駅前のパン屋さんへ行った。小さいが店内で食べられるようになっていて、落ち着いた雰囲気が気に入っている。パンの味もなかなかで、僕のお気に入りはデカメロンだ。その名の通り直径20センチの大きなメロンパン。今日は特別腹ペコだったからポテマヨというパンも買ってみた。形は半球で中にマヨネーズでしっかり和えてあるゴロっとしたジャガイモが入っていた。おいしかったけど、塩分とカロリーは高いと思う。
さっさと食べ終えて、僕は動物病院へ戻った。さっきまで晴れていたそらに灰色の雲がかかりはじめ、その数分後にポツリとやってきた。僕が到着するのを待ってくれたみたいに動物病院に入った瞬間にゲリラ豪雨になった。
「おぅ、ご主人。この雨しばらく続くぞ。」
「帰る頃には止めばいいさ。」
「この先何回も来るぞ。」
「そりゃちょっと困るな。」
戸口で猫に出迎えられた。何故か猫の天気予想はよく当たる。猫曰わく野生のカンらしいが僕が知る限り、今のところは100パーセント当てている。
入口がガラス戸なので、外がよく見える。こんな景色を見ていると思い出す事がある。
「こんな天気やとさぁ、くろすけ事件思い出さへん?」
奥から寅さんがやってきて僕に問いかける。どうやら僕と同じ事を考えていたらしい。
くろすけ事件。それはつい1ヶ月前の2月10日のことだった。この日は1日中雨が降っていてとても寒かった。閉院時間がやってきたので、僕と寅さんが帰る支度をしようとしていると雨が一時ゲリラ豪雨になった。そんな時院長が待合室から大声でいった。
「おーい!2人とも、急いでタオル有るだけと小さいヒーター持ってきてくれ!」
僕と寅さんは指示された物を持って急いで向かった。すると院長が雨に濡れてふにゃふにゃになったダンボール箱を抱えていた。中を見ると弱った黒い猫がブルブル震えている。
「ヒーターセットして、その前にタオル敷いてくれ。」
僕と寅さんは言われた通りにすると、院長は箱から猫を抱き上げて敷いたタオルの上にのせ、別のタオルで優しく拭いた。猫は抵抗したが無力に等しく、声も小さかったので聞き取れなかった。
「ほんで院長、この子どないしたんですか?」
「ここの外に捨てられてたんだ。まったく!何考えてんだ!」
珍しく院長が本気で怒っている。確かに僕もこれは許せなかった。
「へたすりゃ死んでたかもしれませんね。」
「酷いやっちゃ。」
「おっと、気持ちよくなっちゃったか?寝てる。」
安心したのかよく見ると猫は眠りに就いていた。しかし未だに震えは止まっていない。
僕はメガネを外してその猫を見る。雄なのに女の子のようなかわいらしい顔立ちで歳は同じか少し下くらい。頭に耳が生えていて、黒い髪は左右とも外側に跳ねている。元からスマートな体格なのだろうがすごく痩せている。
「よかったね。ところで院長、この猫どうするんですか?」
「・・・考えてなかった。」
僕も、おそらく寅さんも予想通りの答えだと思った。後先考えずに動いてしまうのは院長の悪いクセだ。
「ここで飼うっちゅー事ですか?」
「それでもいいが、万が一の事があるからなぁ。」
「じゃあ誰が・・・!」
何故か2人とも僕をガン見していた。ひょっとして、いや確実に僕に押し付けようとしている。
「なんで僕を見るんですか?」
答えは火を見るのと同じくらい明らかだったけど一応訊いてみた。
「そういや犬上、今日誕生日やんなぁ。」
「そうだったか!ならプレゼントという事でどうだ?」
人の誕生日を理由に使うとは、あんたらこそ何考えてんだ!
「なんで僕ですか!!院長が家で飼えばいいじゃないですか。」
「それが・・・うちの娘は喘息持ちで、動物がだめなんだ。」
「なら仕方ないですね・・・。寅さんは独り者なんだし大丈夫でしょ!」
「いや、俺んちマンションやねんけどペット禁止やからムリやねん。」
「そんなぁ・・・。」
僕の家も小さいマンションなのだが小型犬の大きさまでならペット可であった。何とか断れそうな理由を探す。
「経済的に厳しいんですが・・・。」
「それなら援助するから大丈夫。心配はいらないよ。」
苦肉の策もあっさり破られ、いよいよもって僕が引き取る事になった。波乱の25歳だなぁ…。と感じつつ、寝ている猫をそっと抱き上げてゲージに入れた。少し触るだけでも起きる猫が起きずに爆睡しているのを見ると、随分疲れていそうな気がした。
あの日から僕猫は一緒に暮らしている。最初は本気で嫌になった事もあったけど、今ではそうは思わない。
「あんだけ悪かったのに、ようここまで丸したなぁ。犬上のそういうとこスゴいと思うわ。」
寅さんに誉められるととてもいい気分になる。心の底から思っているような感じが言葉や表情に表れている。
「本当に大変でしたよ。でも・・・。」
「でも何や?」
僕は猫を保護して良かったと思っている。そう言いたかったがなんとなく恥ずかしくなって適当にごまかした。
さっき言ったように、あの日から僕は猫のせいで超大変な1ヶ月間を過ごすハメになった。