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婚約破棄の理由は、百字以内でお書きください。嘘を書くと、文字が消えます

掲載日:2026/11/04

「ミレイユ・アルノー! 君との婚約を、この場で破棄する!」


王宮の大広間に、ルドヴィク殿下の声が響いた。


楽団の弓が止まる。ワインを注いでいた給仕の手が止まる。三百人の貴族が、いっせいにこちらを向いた。


私は、扇を閉じた。


来るなら今夜だろうと思っていた。国王陛下は、隣国の式典で王都を空けておられる。殿下は、それを待っていたのだ。三か月前から、殿下の隣にはいつも同じ男爵令嬢がいる。アネット・ベルナール嬢。小柄で、笑うと頬に丸い影ができる。今も殿下の斜め後ろで、ドレスの裾を握りしめて立っていた。


「理由を、お聞かせいただけますか」

「言うまでもない。僕は真実の愛を——」

「殿下」


静かな声が、殿下の言葉を遮った。


壇の脇から、黒い礼服の男が進み出てくる。書記局の補佐官、ノエル・ガスパール様。銀の盆を、両手で捧げ持っていた。盆の上には、白い紙が一枚と、羽根ペンが一本。この瞬間を待っていたような手際だった。


「失礼いたします。婚約の破棄は、王家の古法により、理由書をお作りいただく決まりです」

「理由書?」

「第七条です。殿下は十二歳のとき、暗唱なさいました」

「……そうだったか」

「三回、つっかえておられました」


どこかで誰かが、咳でごまかした笑いを漏らした。


ノエル様は表情ひとつ動かさず、盆を殿下の前に差し出した。


「当事者が、ご自分の手で、理由を百字以内でお書きください。この紙は、初代王妃陛下の工房で漉かれた誓紙です。嘘を書くと、文字が消えます」


ざわり、と大広間が揺れた。


誰もが、話としては知っていた。けれど、使われるところを見た者はいない。この国では、婚約の破棄そのものが、百年以上なかったのだ。


「消える? そんな子どもだましが」

「どうぞ、お試しください」


殿下は羽根ペンをひったくった。


「いいだろう。僕が書くのは真実だ。消えるはずがない」


さらさらと書く。


『真実の愛を見つけたため』


十一文字の黒い線が、白い紙に並んだ。


一拍、あった。


文字の端が、ふわりとほどけた。煙が風に溶けるように、一文字ずつ薄くなっていく。「真」が消え、「実」が消え、「愛」が消え、最後の「め」まで消えたとき、紙は元の白さに戻っていた。


誰も、声を出さなかった。


殿下は、白い紙を見つめた。それから、ノエル様を見た。


「……不良品だ」

「毎年の点検で、百年間、不具合は見つかっておりません」

「では、これならどうだ」


顔を赤くして、もう一度書く。


『ミレイユは、アネットをいじめた』


書き終える前から、薄くなりはじめた。「いじ」と書いたときには、「ミレ」のあたりがもう消えかけていた。


アネット嬢が、おずおずと口を開いた。


「あの……私、いじめられた覚えは、ありません。お茶会で、お菓子を取り分けていただいて」

「アネット、余計なことを言うな」

「すみません。でも、本当のことなので」


私は扇の陰で、唇を結んだ。笑うところではない。


三度目。


『ミレイユは、王太子妃にふさわしくない』


消えた。


今度は、広間のあちこちから、ほう、と息が漏れた。「ふさわしいわよね」と、誰かが小さく言った。拍手のような手の音が、一つ二つ、混じった。


「ならば、これだ」


殿下は、追い詰められた顔で書き殴った。


『ミレイユは、性格が悪い』


消えた。


『ミレイユは、冷たい女だ』


それも、消えた。


「先月、病気の母に薬を届けてくださったのは、ミレイユ様ですわ」


どこかの伯爵夫人が言った。


「うちの領地の橋も」

「孤児院の冬の薪も」


あちこちから、小さな声が上がる。私は扇の陰で、少し困った。そんなことは、人前で言わないでほしい。


殿下の額に、汗が浮いた。


「なぜだ。なぜ、全部消える」

「殿下」


ノエル様が、静かに言った。


「誓紙が消すのは、事実と違う文字だけです。お気持ちを書かれた場合、そのお気持ちが本当にあれば、消えません」

「気持ち……」

「はい。なお、消えた文字は、保存の際に斜めから光を当てますと、うっすら読めます」


殿下の手が、止まった。


「……消えた分も、残るのか」

「はい。『真実の愛を見つけたため』も、『冷たい女だ』も」


殿下は黙った。羽根ペンの先が、小刻みに震えている。百字の枠は、まだほとんど空いていた。


やがて、うなだれるようにして、書いた。


『ミレイユと一緒にいると、疲れる』


消えなかった。


黒いインクが、紙の上でじっと濃くなった。殿下はそれを見て、息をのんだ。自分でも本当だったと、いま初めて知ったような顔をしていた。


続きを書く。もう、手が止まらないようだった。


『ミレイユと話すと、いつも自分が間違っている気がして、息苦しい』


消えない。


『アネットは、僕が何を言っても、すごいと言ってくれる』


消えない。


殿下は、そこでペンを置いた。これ以上、書く気力もないようだった。


ノエル様が盆を引き取り、紙を目の高さに掲げた。


「古法により、立会人が理由書を朗読いたします」

「待て、それは——」

「第九条です」


ノエル様の声は、平らだった。品書きを読み上げるように。


「理由。ミレイユ様と一緒にいると、疲れる。ミレイユ様と話すと、いつも自分が間違っている気がして、息苦しい。アネット様は、殿下が何を言っても、すごいと言ってくれる。以上です」


大広間に、水を打ったような静けさが落ちた。


それから、どこかの奥方が扇の陰で、こらえきれずに吹き出した。


笑いは、連鎖した。誰も大きな声は出さない。けれど、肩が揺れ、扇が震え、三百人分の「ふっ」という息が、天井の下に溜まっていく。殿下の顔が、赤から白に、白からまた赤に変わった。


私は、笑わなかった。


笑えなかったのだ。


「では、ミレイユ様」


ノエル様が、盆をこちらに向けた。


「同意の理由を、お書きください。同じ紙の、左側の欄です。こちらも百字以内で」


私は、羽根ペンを受け取った。


軽かった。こんなに軽いものが、百年分の決まりを背負っているのか、と思った。


書くことは、決まっていた。


『殿下に未練はございません』


それが、いちばんきれいに終われる一文だった。嘘だと分かっていた。消えても、光を当てれば読めると、聞いたばかりだった。分かっていて、書いた。この大広間で、背筋を伸ばして立つには、それが必要だった。


文字が、ほどけた。


「殿」が消える。「下」が消える。


私は、手を止めなかった。最後の「ん」まで見届けた。白い紙に戻った。


大広間のあちこちで、息をのむ音がした。みんな、見ていた。消えたものを。


殿下が、顔を上げた。私を見ていた。


もう一度、ペンを持ち直した。


指が、少し、震えていた。


この人と婚約したのは、八歳のときだった。顔合わせの庭で、殿下は二歩で転んだ。膝を擦りむいて、泣くのをこらえて、「泣いてない」と言った。私はハンカチを差し出した。殿下は受け取らなかった。代わりに、ハンカチの端をつまんで、ちょっとだけ握った。


それだけのことだった。それだけのことを、十年、覚えていた。


『十年、好きでした。今日で終わりにします』


消えなかった。


黒い文字が、白い紙の上で、そこにあった。


やめてくれ、と思った。消えてくれ。消えれば、嘘になる。嘘になれば、なかったことにできる。


けれど、紙は、正直だった。


ノエル様が、紙を受け取った。目の高さに掲げる。唇が、少し動いた。


「……朗読を、いたします」


さっきと同じ、平らな声だった。ただ、読みはじめるまでに、一拍だけ、間があった。


「ミレイユ様、同意の理由。十年、好きでした。今日で終わりにします。以上です」


誰も、笑わなかった。


扇の音も、衣擦れの音も、止まっていた。


殿下が、一歩、こちらに踏み出した。


「ミレイユ。……僕は」


「殿下」


私は、お辞儀をした。いつもの角度で。教えられたとおりの、少しも間違えない角度で。


「理由書は、成立しております。第十一条により、お二人の署名をもって、婚約は解消されます」

「十年も、言わなかったじゃないか」

「申し上げようとするたびに、殿下は、別のお話をなさっておいででした」

「それは——」

「それに、殿下」


声が、少し、柔らかくなってしまった。


「私は、殿下が思っておられるほど、いつも正しくありません。正しい顔をするのが、上手かっただけです。息苦しくさせてしまって、申し訳ありませんでした」


殿下は、何か言おうとして、口を開けた。何も出てこなかった。


代わりに、手が伸びた。殿下の指が、ノエル様の盆の端を探った。ノエル様は、何も言わず、予備の羽根ペンを差し出した。


「……もう一行、書いてもいいか」


ノエル様は、紙を殿下の前に置き直し、余白を指で測った。


「残りは、三十字です」


殿下は、ゆっくりと書いた。字は、昔から変わらない、少し右上がりの癖字だった。


『十年、隣にいたのに、君を見ていなかった』


黒い線が、紙の上に並んだ。


消えなかった。


殿下は、それを見て、目を閉じた。誰に聞かせるでもない声で、言った。


「……遅いな」

「はい」


私は、頷いた。


「遅いです、殿下」


責める声には、ならなかった。ならなかったのが、自分でも不思議だった。


その隣で、アネット嬢が、小さく手を挙げた。


「あの、殿下」

「……何だ」

「私、本当は、殿下のお話の半分も、分かっていませんでした」


殿下が、ゆっくりと振り返った。


「『すごいですね』は、分からないときに言う、私の口癖で。ごめんなさい。毎回、本気で言っていたわけでは……」


「アネット!」

「でも、殿下が楽しそうだったので、それは、よかったと思っていました」


アネット嬢は、悪気のない顔で、にこにこしていた。この人は、最初から最後まで、何も企んでいなかったのだ。だから、いちばん残酷だった。


私は、羽根ペンを持ち直して、自分の署名の欄に名前を書いた。


「殿下。こちらに」


ノエル様が、紙を殿下の前へ滑らせた。殿下は、ペンを握ったまま動かなかった。


「署名がなければ、成立しないのだろう」

「はい。ただし」


ノエル様は、淡々と続けた。


「理由書の朗読は、すでに終わっております。三百人が聞きました。署名があってもなくても、お言葉は、取り消せません」


長い沈黙のあと、殿下は、署名をした。字が、ひどく小さかった。


紙は書記局の手に渡った。殿下の理由書は、古法に従って永久に保存される。百年後の誰かが、あの紙を読むのだ。ミレイユと一緒にいると、疲れる、と。その下に足された、遅すぎた一行も。斜めから光を当てれば、消えたはずの『真実の愛を見つけたため』までも。


私は、もう一度だけ、深く礼をして、大広間を出た。


背中に、三百人分の視線を感じた。けれど、不思議と、重くはなかった。


*


翌朝、私は書記局の窓口に立っていた。


昨夜の署名の控えを受け取るためだ。本当は、使いの者に取りに行かせてもよかった。けれど、自分の足で来たかった。


窓口には、ノエル様が座っていた。昨夜と同じ黒い礼服で、目の下に薄く影がある。眠っていないのかもしれない。


「お待ちしておりました。こちらが、控えです」

「ありがとうございます。……昨夜は、お見苦しいところを」

「いいえ」


ノエル様は、控えの紙を差し出したまま、少しだけ黙った。


「ミレイユ様。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「殿下の決裁書類について、六年間、不思議に思っていたことがございます」


私は、瞬きをした。


「日付の誤り。金額の桁違い。宛名の綴り。普通なら、毎週のように差し戻しが出る種類の書類です。ところが、殿下の書類だけは、いつも余白に添え書きが付いていました。小さな字で、正しい日付と、正しい金額が」

「……」

「添え書きに、署名はありませんでした。けれど、字は、隠せません」


ノエル様は、顔を上げずに続けた。


「三か月前から、その添え書きが、なくなりました。殿下が、書類に口を出すな、とおっしゃった日からです。おかげで、私の窓口は大変でした。国王陛下が早馬でお戻りになり、今朝から殿下は、別室で書き方を習っておられます。一枚目で、日付を二度間違えました」


私は、笑ってしまった。


笑ったのは、昨夜から、初めてだった。


「申し訳ありません。口を出すなと言われたので、出さなくなっただけです」

「存じております。毎週、五件ほど、私が直しておりました」

「ご苦労をおかけしました」

「いいえ。……直しながら、思っていたんです」


ノエル様が、やっと顔を上げた。眼鏡の奥の目が、まっすぐだった。


「六年、この字を見てきた。この字の主は、殿下の隣に立つ人だ。私の窓口に、毎週、静かに優しさを置いていく人だ、と」


私は、返事ができなかった。


しばらくして、やっと、それだけ言えた。


「去年の冬、受領印を押されて戻ってきた書類の写しの余白に、小さな字が書いてありました」

「……」

「『お疲れさまです』と。誰の字かは、考えないようにしていました」


ノエル様の手が、ぴたりと止まった。


「受領の写しをお返しする際、余白への書き込みは、規則で禁じられております」

「存じています」

「六年間で、私が規則を破ったのは、その一度きりです」


真顔だった。耳の先だけが、赤かった。


ノエル様は、窓口の引き出しを開けた。手前に、紐で束ねた紙が、ぎっしり入っている。


「添え書きの控えです。処分の規則がございませんので、保管しておりました。週ごとに一束で、三百十二束」

「三百十二……」

「六年分ですと、そうなります」


私は、ふと思い出して、訊いた。


「昨夜の理由書は。……私が最初に書いた一行は、光を当てれば、読めるんですよね」

「はい」


ノエル様は、少しだけ言葉を切った。


「当てておりません。保存の係は、私ですので」

「当てなくて、いいんですか」

「当てなければ、ただの白い紙です」


それ以上、何も言わなかった。言わないことが、答えだった。


ノエル様は、束の奥から、昨夜と同じ白い紙を取り出した。


「誓紙は、もう一枚、保管してあります。初代王妃陛下は、婚約のときにも、同じ紙をお使いになったそうです。理由を、お互いに書いた、と」


「それは……」

「私は、ミレイユ様の理由を、お聞きする立場にありません。ですが、自分の理由なら、書けます」


紙が、窓口の台に置かれた。羽根ペンも、一緒に。


「百字以内で、収まるかどうか、自信がありません。念のため——」


ノエル様は、もう一枚、引き出しから白い紙を取り出して、その隣に並べた。


「二枚、用意しました」


私は、その二枚の紙と、束ねられた六年分と、ノエル様の耳の先を、順番に見た。


耳の先が、さっきより、もっと赤かった。


「……嘘を書くと、消えるんですよね」

「はい」

「でしたら」


私は、羽根ペンを手に取った。


「先に、私が書きます。百字以内で、収まらなかったら、二枚目をお借りしますね」

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

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次の短編も、近いうちに出します。

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