第8章:二つの世界
──三者三様の分岐──
◆ 1 ユキの平穏(ユキ視点)
十二月五日。
ユキは、娘の手を引いてスーパーへ向かっていた。
空気は冷たく、
街はクリスマスの飾りで彩られている。
ユキの表情は、
十月の頃とはまるで別人のように落ち着いていた。
警察に相談してから、
ユキの恐怖は“制度”によって処理された。
- 相談記録
- 生活指導
- パトロールの強化
それらが、
ユキの心に“安全”という形を与えた。
「ママ、今日ケーキ買うの?」
娘の声に、
ユキは柔らかく微笑んだ。
「そうね。
今日はちょっと特別にしようか」
ユキの世界は、
静かに、確実に“平穏”へ戻っていた。
たくまの影は、
もう彼女の中には存在しない。
◆ 2 純子の聖域(純子視点)
同じ頃。
純子は、
たくまの職場近くのカフェで
スマホを見つめていた。
画面には、
たくまのSNSの“いいね”がひとつ。
それは、
純子の投稿につけられたものだった。
純子は、
その小さな反応を
“確信”として受け取っていた。
「やっぱり……
あなたは私を必要としてる」
純子の世界では、
たくまは“守るべき存在”であり、
“理解されるべき存在”であり、
“救われるべき存在”だった。
そして純子は、
その“救い”を自分だけが与えられると信じていた。
たくまの孤立は、
純子にとって“正義”だった。
「大丈夫。
私が全部守るから」
純子の世界は、
静かに閉じていく。
その中に、
たくまが取り込まれつつあった。
◆ 3 梨沙の後悔(梨沙視点)
十二月七日。
探偵事務所の窓から
冬の光が差し込んでいた。
梨沙は、
机の上に置かれたファイルを見つめていた。
- 美咲の退去
- ユキの恐怖の完成
- 10月10日の録音
- 警察相談
- 純子の暴走
そのすべてが、
ひとつの線で繋がっている。
梨沙は、
その線を自分が引いたことを理解していた。
「……私は、何を壊したんだろう」
美咲は自由になった。
ユキは平穏を取り戻した。
しかし――
たくまは。
梨沙は、
胸の奥に重い痛みを感じた。
「私は……
たくまさんを救うこともできたんじゃないか」
その後悔は、
まだ小さな影だった。
しかし、
その影は確実に大きくなりつつあった。
◆ 4 二つの世界の断絶
十二月十日。
たくまは、
純子と並んで歩いていた。
純子は笑顔で話している。
たくまは、
その言葉を半分も理解していない。
ただ、
純子の“近さ”だけが
たくまの空白を埋めていた。
美咲の世界は遠い。
ユキの世界は閉じた。
梨沙の影は消えた。
たくまは、
自分がどこに立っているのか
分からなくなっていた。
しかし純子は、
その迷いを“必要とされている証拠”と解釈していた。
二人の世界は、
静かに閉じていく。
そして、
その外側で
ユキと美咲は
まったく別の平穏を生きていた。
三つの世界は、
もう交わらない。




