第7章:妻の消失(12月)
──妻・美咲視点──
十二月一日、午前六時。
まだ薄暗い空の下、
美咲はアパートの窓を開けて
冷たい空気を吸い込んだ。
息子はまだ眠っている。
静かな朝だった。
十一月の終わりに、
梨沙から「任務終了」の連絡を受けて以来、
美咲の心は不思議なほど落ち着いていた。
たくまの世界は、
もう自分とは関係のない場所になった。
そして今日――
美咲は“完全に姿を消す”ことを決めていた。
◆ 1 最後の荷造り
美咲は、
小さなスーツケースを開き、
必要最低限の荷物だけを詰めた。
- 息子の服
- 学校の書類
- 自分のノート
- 新しい生活のための書類
たくまとの生活を思い出させるものは
ひとつも入れなかった。
写真も、
指輪も、
記念品も。
「……もう、いらない」
美咲は、
静かに呟いた。
過去を持ち歩く必要はない。
過去は、
たくまの世界に置いていけばいい。
◆ 2 梨沙との最後の会話
午前九時。
アパートの前に、
梨沙の車が静かに停まった。
美咲は息子の手を握り、
外に出た。
梨沙は、
いつもの落ち着いた表情で微笑んだ。
「準備はできましたか」
「ええ。
今日で全部終わりにします」
梨沙は頷いた。
しかしその目には、
わずかな迷いがあった。
「……本当に、いいんですか」
美咲は、
その迷いを理解していた。
梨沙は、
たくまの“崩れていく姿”を見て
胸を痛めている。
しかし美咲は、
揺らがなかった。
「私は、たくまを罰したいわけじゃないの。
ただ……
私の世界を守りたいだけ」
梨沙は、
その言葉に静かに息を吐いた。
「美咲さんは強いですね」
「強くなんてないわ。
ただ、もう戻れないだけ」
梨沙は、
その言葉を聞いて
何も言わなかった。
◆ 3 “消失”という選択
車はゆっくりと走り出した。
向かう先は、
美咲が新しく選んだ街。
たくまの生活圏から遠く離れた場所。
転校の手続きも済んでいる。
新しい住所も、
たくまには知られない。
美咲は、
窓の外を流れる景色を見つめながら
静かに思った。
「私は……
本当に消えるんだ」
それは悲しみではなかった。
むしろ、
解放に近い感覚だった。
たくまの影から離れ、
自分の人生を取り戻すための“消失”。
美咲は、
その選択を後悔していなかった。
◆ 4 たくまの“理解できない喪失”
同じ頃。
たくまは、
自宅のリビングで
ひとり座り込んでいた。
妻がいない。
息子もいない。
連絡もない。
ユキは恐怖して距離を置き、
純子だけが近くにいる。
しかし、
その純子の“近さ”が
たくまをさらに混乱させていた。
たくまは、
美咲がどこへ行ったのか
まったく理解できなかった。
梨沙が残した“影”の気配だけが
たくまの中に残っていた。
「……どうして」
その問いは、
誰にも届かない。
美咲は、
もうその世界にはいない。
◆ 5 梨沙の“最後の見送り”
新しい街に到着すると、
梨沙は車を停めた。
「ここからは……
美咲さんの世界です」
美咲は頷いた。
「今までありがとう、梨沙さん。
あなたがいなかったら、
私はここまで来られなかった」
梨沙は、
その言葉にわずかに目を伏せた。
「……私は、本当に正しいことをしたんでしょうか」
美咲は、
その問いに静かに答えた。
「正しいかどうかなんて、
誰にも分からないわ。
でも私は、
あなたに救われた」
梨沙は、
その言葉に小さく微笑んだ。
「……さようなら、美咲さん」
「さようなら、梨沙さん」
梨沙は車に乗り込み、
ゆっくりと走り去った。
美咲は息子の手を握り、
新しい街の空気を吸い込んだ。
「ここから始めましょう」
その声は、
静かで、
揺るぎなかった。




