第4章:妻の論理(10月中旬〜下旬)
十月十二日、午前八時。
美咲は、仮住まいのアパートの小さなキッチンで
息子の朝食を準備していた。
窓の外には、
新しい街の静かな朝が広がっている。
たくまのマンションを出てから、
二週間が経っていた。
美咲は、
その間一度も後悔していない。
むしろ、
“正しい選択だった”と確信していた。
息子の笑顔が増えた。
夜泣きが減った。
美咲自身も、
胸の奥にあった重い石が消えたように感じていた。
しかしその静けさの裏で、
別の世界が音を立てて崩れていることを
美咲は知っていた。
梨沙からの報告が、
その証拠だった。
◆ 1 録音データ
朝食を終え、
息子を学校へ送り出したあと、
美咲はスマホを開いた。
梨沙から送られてきた
“コメダ珈琲の録音データ”を再生する。
――深根会。
――危ない。
――狙われてる。
たくまの声。
焦りと混乱が混じった声。
そして、
ユキの怯えた息遣い。
美咲は、
その音声を静かに聞き終えた。
驚きはなかった。
怒りもなかった。
ただ、
深い納得だけがあった。
「……やっぱり、壊れていくのね」
美咲は呟いた。
たくまは、
自分の世界が崩れたとき、
必ず“影”を作り出す。
それは昔から変わらない。
美咲は、
その“影”に何度も傷つけられてきた。
だからこそ、
もう戻るつもりはなかった。
◆ 2 梨沙からの報告
その日の午後。
梨沙からメッセージが届いた。
『ユキさんは完全に恐怖しています。
たくまさんを“危険人物”と認識したようです』
美咲は、
その文章を読みながら
深く息を吐いた。
「……そう」
梨沙は続けた。
『純子という女性が、
さらに匂わせを強めています。
たくまさんの口調を真似て投稿しているようです。
ユキさんの恐怖を増幅させています』
美咲は、
その文章を読みながら
わずかに眉をひそめた。
純子。
たくまの職場の広報担当。
梨沙の報告によれば、
純子はたくまに強い執着を持っている。
美咲は、
その存在を“危険”とは思わなかった。
むしろ――
“利用価値がある”と感じていた。
美咲は、
梨沙に返信した。
『放っておきなさい。
あの女は使える』
梨沙からの返信はなかった。
しかし、
その沈黙の意味を
美咲は理解していた。
梨沙は、
美咲の変化に気づいている。
◆ 3 妻の論理
美咲は、
ソファに座り、
静かに目を閉じた。
たくまの世界は、
今まさに崩れ始めている。
- ユキは恐怖し、距離を置いた
- 純子は暴走し始めた
- たくまは影を感じ、混乱している
- 梨沙はその影を“形”にしている
美咲は、
その全てを“俯瞰”していた。
そして、
ひとつの結論に達していた。
「……私は、もう何もしない」
美咲は、
たくまを追い詰めるつもりはない。
ただ、
“たくまの幻想”が壊れていくのを
静かに見ているだけ。
それが、
美咲の“論理”だった。
◆ 4 純子の暴走
十月十五日。
梨沙から新たな報告が届いた。
『純子が、
たくまさんの口癖を完全に模倣し始めました。
ユキさんのSNSに“あなたを見ている”と
匂わせる投稿をしています』
美咲は、
その文章を読みながら
小さく笑った。
「……あの女、本当に壊れてるわね」
しかし、
その壊れ方は
美咲にとって“都合が良かった”。
純子の暴走は、
ユキの恐怖を増幅させる。
ユキの恐怖は、
たくまの孤立を深める。
たくまの孤立は、
美咲の“解放”を確固たるものにする。
美咲は、
梨沙に返信した。
『放っておきなさい』
梨沙は、
しばらくして返信した。
『……分かりました』
その短い文章には、
梨沙の迷いが滲んでいた。
しかし美咲は、
その迷いすら“必要な過程”だと感じていた。
◆ 5 ユキの“恐怖の完成”
十月十八日。
梨沙から、短いが決定的な報告が届いた。
『ユキさんは、
たくまさんを“危険人物”として確信したようです』
美咲は、
その文章を読みながら
ゆっくりと紅茶を口に運んだ。
驚きはなかった。
むしろ、
“ようやく”という感覚だった。
梨沙は続けた。
『深根会の件が決定打になりました。
ユキさんは、
“別れた相手が自分を追ってくる”と
完全に思い込んでいます』
美咲は、
その文章を読みながら
静かに目を閉じた。
「……そう。
なら、もう戻らないわね」
美咲は、
ユキがたくまに抱いていた“情”が
完全に消えたことを理解した。
ユキは、
たくまを“悪夢”として処理した。
そして、
その悪夢は二度と開かれない。
美咲は、
その事実に安堵すら覚えていた。
◆ 6 梨沙の迷い
その日の夜。
梨沙から電話がかかってきた。
「美咲さん……少し、お話ししたくて」
梨沙の声は、
いつもよりわずかに震えていた。
美咲は、
その震えの意味を理解していた。
「純子のこと?」
「……はい。
あの女性、
たくまさんに対する執着が
日に日に強くなっています」
梨沙は続けた。
「今日、純子が
“たくまさんのために何でもする”
と言っているのを聞きました。
あれは……危険です」
美咲は、
その言葉に少しだけ眉をひそめた。
「危険、ね」
梨沙は、
言葉を選びながら続けた。
「ユキさんの恐怖は完成しました。
でも純子は……
たくまさんを“所有物”だと思い始めています。
このままでは、
たくまさんが――」
美咲は、
梨沙の言葉を遮った。
「放っておきなさい」
梨沙は息を呑んだ。
「……美咲さん?」
美咲は、
静かに、しかし確固として言った。
「純子は、
自分で自分の世界を壊すわ。
私たちが止める必要はない」
梨沙は沈黙した。
その沈黙には、
迷いと、
罪悪感と、
理解が混ざっていた。
美咲は続けた。
「梨沙さん。
あなたは私の影として動いてくれた。
でも、もう十分よ。
あとは……流れに任せましょう」
梨沙は、
小さく息を吐いた。
「……分かりました」
しかしその声には、
確かな痛みがあった。
◆ 7 純子の“暴走”が始まる
十月二十日。
梨沙から新たな報告が届いた。
『純子が、
たくまさんの口調を完全に模倣し、
ユキさんに向けた“匂わせ”を強めています』
美咲は、
その文章を読みながら
静かに微笑んだ。
「……あの女、本当に壊れてる」
梨沙は続けた。
『今日、純子が
“ユキという女は消えるべき”
と呟いていました』
美咲は、
その言葉にわずかに目を細めた。
「……そう」
梨沙は、
美咲の反応を探るように続けた。
『止めたほうがいいかもしれません。
純子は、
たくまさんのためなら
何でもするつもりです』
美咲は、
その文章を読みながら
ゆっくりと返信した。
『放っておきなさい』
梨沙からの返信はなかった。
しかし、
その沈黙の意味を
美咲は理解していた。
梨沙は、
美咲の“静かな狂気”に気づき始めている。
◆ 8 妻の“論理”が固まる
美咲は、
窓の外の夕焼けを見つめながら
静かに呟いた。
「私は、
たくまを壊したいわけじゃない。
ただ……
たくまの“幻想”を終わらせたいだけ」
たくまは、
いつも“影”を作り出す。
その影に怯え、
その影に逃げ、
その影に責任を押しつける。
美咲は、
その影に何度も傷つけられてきた。
だからこそ、
もう戻らない。
「……私は、私の世界を守るだけ」
美咲の論理は、
静かで、
冷たく、
揺るぎなかった。
◆ 9 梨沙の“警告”
十月二十三日。
夕方の薄暗い部屋で、
美咲は息子の宿題を見ながら
スマホの通知に気づいた。
梨沙からだった。
『純子が、
たくまさんの周囲の人間関係を
調べ始めているようです。
少し……危ういです』
美咲は、
その文章を読みながら
静かに息を吐いた。
「……そう」
梨沙は続けた。
『たくまさん自身も、
最近は落ち着かない様子です。
影を感じているようで……
このままでは、
彼がさらに孤立してしまいます』
美咲は、
その言葉にわずかに眉を寄せた。
「孤立……」
梨沙は、
たくまの“変化”を心配している。
しかし美咲は、
その孤立こそが
“必要な過程”だと理解していた。
美咲は返信した。
『放っておきなさい』
梨沙からの返信は、
しばらく来なかった。
◆ 10 美咲の“静かな確信”
夜。
息子が眠ったあと、
美咲はひとりでリビングに座っていた。
薄暗い部屋の中で、
たくまとの十数年を思い返す。
- 影を作り出す癖
- 自分の不安を他人に投影する癖
- 逃げる癖
- そして、向き合わない癖
美咲は、
そのすべてに疲れ果てていた。
「私は……
たくまを罰したいわけじゃない」
美咲は、
自分の胸に手を当てた。
「ただ、
私の世界を守りたいだけ」
その“世界”には、
息子と、
新しい生活と、
静かな日々がある。
そこに、
たくまの“影”は必要なかった。
◆ 11 純子の“暴走”を見つめる
十月二十五日。
梨沙から再び報告が届いた。
『純子が、
たくまさんのSNSの過去投稿を
すべて読み返しているようです。
彼の言葉遣いを完全に模倣しています』
美咲は、
その文章を読みながら
小さく笑った。
「……あの女、本当に壊れてる」
しかし、
その壊れ方は
美咲にとって“都合が良かった”。
純子の暴走は、
たくまの周囲に“誤解”を生む。
その誤解は、
たくまの孤立を深める。
その孤立は、
美咲の“解放”を確固たるものにする。
美咲は、
梨沙に短く返信した。
『放っておきなさい』
梨沙は、
しばらくして返信した。
『……分かりました』
その短い文章には、
梨沙の迷いと、
美咲への信頼が混ざっていた。
◆ 12 妻の論理の完成
美咲は、
窓の外の夜景を見つめながら
静かに呟いた。
「私は、
たくまを壊したいわけじゃない。
ただ……
たくまの“幻想”を終わらせたいだけ」
たくまは、
いつも影を作り出す。
その影に怯え、
その影に逃げ、
その影に責任を押しつける。
美咲は、
その影に何度も傷つけられてきた。
だからこそ、
もう戻らない。
「……私は、私の世界を守るだけ」
美咲の論理は、
静かで、
冷たく、
揺るぎなかった。
そしてこの論理が、
十一月六日の“警察介入”へと
静かに繋がっていく。




