第3章:コメダ珈琲の決定打(10月10日
十月十日、午前九時三十五分。
芹沢梨沙は、
コメダ珈琲の向かいにあるコインパーキングに車を停めた。
曇り空。
湿った風。
街は平日の静けさに包まれている。
梨沙は腕時計を確認し、
深く息を吸った。
「……来るわね」
今日が“決定打”になることを、
梨沙は理解していた。
ユキは“終わらせるため”に来る。
たくまは“救われるため”に来る。
純子は“始めるため”に煽った。
そして梨沙は、
“観察するため”にここにいる。
◆ 1 たくまの到着
九時四十五分。
たくまが現れた。
白いシャツに黒のジャケット。
少し痩せたように見える。
歩き方に迷いがある。
梨沙は、
車の中からその姿を見つめた。
「……気づいてるわね」
たくまは、
周囲を何度も見回していた。
梨沙は、
その理由を知っている。
ここ数週間、
梨沙は“気配”を残していた。
- たくまの帰宅ルートの先に立つ
- エレベーターの扉が閉まる直前に視界に入る
- マンションの駐車場で車を停める
- 職場近くのコンビニで背中を見せる
たくまは、
その気配を“妻の影”だと感じていた。
梨沙は、
その誤解を利用した。
「……あなたは今日、壊れる」
梨沙は、
たくまの表情を見て確信した。
◆ 2 ユキの到着
九時五十五分。
ユキが現れた。
白いブラウスに黒のパンツ。
髪を後ろで束ね、
表情は硬い。
梨沙は、
その姿を見て胸がざわついた。
「……完全に怯えてる」
ユキは、
周囲を警戒しながら歩いていた。
- 後ろを振り返る
- スマホを握りしめる
- 歩く速度が速い
- 目が落ち着かない
梨沙は、
その“恐怖の完成”を見ていた。
ユキは、
純子の匂わせを“たくまの監視”だと誤解し、
梨沙の気配を“たくまの尾行”だと誤解し、
たくまの沈黙を“執着”だと誤解している。
そして今日、
その誤解が“確信”に変わる。
◆ 3 コメダ珈琲の席
十時ちょうど。
たくまとユキは、
コメダ珈琲の奥の席に座った。
梨沙は、
店の外の窓際に移動し、
視界の端から二人を観察した。
会話は聞こえない。
しかし、
表情と動きで内容は分かる。
ユキは、
距離を取って座っている。
腕を組み、
視線を合わせない。
たくまは、
何かを必死に説明している。
身振りが大きい。
焦っている。
梨沙は、
その様子を見て呟いた。
「……もう、止まらない」
◆ 4 “影”が実体化する瞬間
十時十二分。
たくまが突然、
身を乗り出した。
梨沙は、
その瞬間を見逃さなかった。
たくまの口が、
はっきりと動いた。
――深根会。
梨沙は息を呑んだ。
「……言った」
たくまは、
“影”を感じていた。
梨沙の気配を、
妻の影だと誤解し、
その影が“何かの組織”だと錯覚し、
混乱のままユキに伝えてしまった。
ユキの表情が凍りつく。
梨沙は、
その瞬間を録音した。
◆ 5 ユキの“確信”
ユキは、
たくまの言葉を“脅し”と受け取った。
- 「別れるなら危害を加える」
- 「組織が動いている」
- 「命の危険がある」
ユキの目が、
完全に恐怖に染まった。
梨沙は、
その表情を見て理解した。
「……これで、恐怖は完成した」
ユキは、
たくまを“危険な怪物”だと確信した。
そして、
その確信は後に警察を動かす。
梨沙は、
録音データを保存し、
美咲に送信した。
◆ 6 沈黙の裂け目
深根会――
その単語が空気を裂いた瞬間、
ユキの表情は完全に凍りついた。
たくまは、
自分が何を言ったのか理解していない。
ただ、
胸の奥に巣食っていた“影”を
そのまま言葉にしてしまっただけ。
梨沙は、
窓越しにその光景を見つめながら
静かに息を吐いた。
「……言葉は、戻らない」
ユキは、
椅子の背に身体を押しつけるようにして
たくまから距離を取った。
その動きは、
“拒絶”ではなく“恐怖”だった。
たくまは焦り、
さらに言葉を重ねる。
梨沙は、
その口の動きから内容を読み取った。
- 「気をつけたほうがいい」
- 「俺も狙われてる」
- 「お前も危ない」
梨沙は、
その言葉がユキにどう届くかを理解していた。
脅しにしか聞こえない。
ユキの肩が震えた。
◆ 7 ユキの“逃走”
十時十五分。
ユキは突然、席を立った。
たくまが手を伸ばす。
しかしユキは、
その手を避けるようにして後ずさった。
梨沙は、
その瞬間を見逃さなかった。
ユキの目は、
完全に“恐怖の色”をしていた。
「……もう無理」
ユキは小さく呟き、
バッグを掴んで店を出た。
たくまは追いかけようとしたが、
足が止まった。
梨沙は、
その理由を理解していた。
たくまは“影”を感じている。
自分の背後に、
誰かがいる気がしている。
梨沙は、
その“気配”をわざと残していた。
たくまは、
その影を“妻の影”だと誤解している。
そしてその影が、
“組織”にまで膨らんでしまった。
梨沙は、
その誤解を利用した。
◆ 8 たくまの混乱
ユキが店を出た後、
たくまは席に崩れ落ちるように座った。
頭を抱え、
何度も深呼吸を繰り返す。
梨沙は、
その姿を見て胸がざわついた。
「……あなたは悪人じゃない。
ただ、壊れただけ」
たくまは、
自分の世界が崩れていくのを
止められなかった。
- 妻が消えた
- 息子も消えた
- ユキにも拒絶された
- 純子の匂わせに気づかない
- 影を感じる
- 影の正体が分からない
その混乱が、
“深根会”という言葉を生んだ。
梨沙は、
その混乱を冷静に観察していた。
◆ 9 録音データ
梨沙は、
スマホの録音アプリを確認した。
たくまが“深根会”を口走った瞬間、
ユキが怯えた声を漏らした瞬間、
席を立った瞬間。
すべてが記録されている。
梨沙は、
そのデータを美咲に送信した。
『終わりました。
ユキさんは完全に恐怖しました』
数分後、
美咲から返信が届いた。
『ありがとう。
これで……もう戻れないわね』
梨沙は、
その言葉に胸が痛んだ。
美咲は、
たくまを憎んでいるわけではない。
ただ、
“たくまの幻想”を壊したかっただけ。
しかし、
その幻想が壊れた結果――
たくま自身が壊れ始めている。
梨沙は、
その事実に気づき始めていた。
◆ 10 ユキの確信
店の外。
ユキは震える手でスマホを握りしめていた。
- 「深根会」
- 「危ない」
- 「狙われてる」
その言葉が頭の中で反芻される。
ユキは、
たくまが“壊れた”と確信した。
そして、
“自分を壊しに来る”と確信した。
梨沙は、
その表情を遠くから見つめていた。
「……これで、恐怖は完成した」
ユキは、
この日を境に
“たくま=危険人物”という認識を固定化する。
そしてその認識は、
後に警察を動かす。
梨沙は、
その未来を理解していた。
しかし、
止めることはできなかった。
◆ 11 たくまの“影”への怯え
ユキが店を出ていったあと、
たくまはしばらく動けなかった。
コーヒーは冷め、
店内のざわめきだけが耳に残る。
梨沙は、
窓越しにその姿を見つめていた。
たくまは、
自分の背後を何度も振り返っている。
「……気づいてるわね」
梨沙は、
その“気づき”がどれほど危険か理解していた。
たくまは、
梨沙の存在を“影”として感じている。
しかしその影を、
妻の影だと誤解している。
そしてその影が、
“組織”にまで膨らんでしまった。
梨沙は、
その誤解を利用した。
だが同時に、
胸の奥に小さな痛みが生まれていた。
「……あなたは、ただ弱っているだけなのに」
梨沙は、
たくまが悪人ではないことを知っている。
ただ、
世界が壊れ、
心が追いつかなくなっているだけ。
しかし、
その弱さが“恐怖”としてユキに届いてしまった。
◆ 12 純子の影
店の外。
ユキが震える手でスマホを握りしめていると、
少し離れた場所で純子が立っていた。
梨沙は、
その姿を見て息を呑んだ。
「……来たのね」
純子は、
たくまとユキの密会を“偶然”知ったわけではない。
純子は、
たくまのSNSの動き、
ユキの投稿、
そして梨沙が残した“気配”を
すべて自分の都合のいいように解釈していた。
純子は、
たくまがユキと会うと信じていた。
そして、
その“裏切り”を確認しに来た。
純子の目は、
嫉妬と興奮で濁っていた。
梨沙は、
その危険性を理解していた。
「……この女は、もう止まらない」
純子は、
ユキの背中をじっと見つめていた。
その視線は、
“観察”ではなく“所有”だった。
梨沙は、
その瞬間を記録した。
◆ 13 美咲への報告
梨沙は車に戻り、
録音データと純子の写真を美咲に送信した。
数分後、
美咲から返信が届いた。
『ありがとう。
これでユキさんは、たくまから完全に離れるわ』
梨沙は、
その言葉に複雑な感情を抱いた。
美咲は、
たくまを憎んでいるわけではない。
ただ、
“たくまの幻想”を壊したかっただけ。
しかし、
その幻想が壊れた結果――
たくま自身が壊れ始めている。
梨沙は、
その事実に気づき始めていた。
◆ 14 たくまの“崩壊の始まり”
たくまは、
コメダ珈琲を出たあと、
しばらく歩道に立ち尽くしていた。
梨沙は、
少し離れた場所からその姿を見つめていた。
たくまは、
スマホを握りしめ、
何度もユキに電話をかけようとしては
手を止めていた。
「……もう、届かないわ」
梨沙は呟いた。
ユキの恐怖は完成した。
たくまの言葉は、
もう“脅し”にしか聞こえない。
そして、
その恐怖は後に警察を動かす。
梨沙は、
その未来を理解していた。
しかし、
止めることはできなかった。
◆ 15 影の連鎖
その日の夜。
梨沙は自宅で調査ファイルを整理していた。
- ユキの恐怖
- 純子の暴走
- たくまの混乱
- 美咲の静かな計画
すべてが、
ひとつの点に収束していく。
梨沙は、
その構造を理解していた。
「……これは、誰も悪くないのに壊れていく世界」
梨沙は、
胸の奥に重いものを感じた。
しかし、
その重さが何なのかは
まだ分からなかった。
それは後に、
“後悔”という名前を持つことになる。
梨沙は、
ファイルを閉じた。
「……10月10日は終わった。
でも、これは始まりにすぎない」
影は、
ここからさらに濃くなる。
そして次章――
妻・美咲の視点で、
ユキの恐怖が“完全に完成”する。




