第2章:探偵の観察(7〜9月)
七月の朝。
芹沢梨沙は、
自宅の小さなデスクに置かれたノートパソコンを開いた。
画面には、
ユキのSNSアカウントが表示されている。
投稿は少ない。
写真も控えめ。
しかし、
梨沙は“変化”を見逃さなかった。
「……基準値が下がってきてる」
梨沙は呟いた。
ユキの文章は、
六月の別れ以降、
どこか“怯え”を含んでいた。
- 「最近、誰かに見られてる気がする」
- 「SNSって怖い」
- 「知らない人からの足跡が増えた」
梨沙は、
その“足跡”の正体を知っている。
純子だ。
たくまの広報担当。
未亡人。
たくまに片思いしている女。
梨沙は、
純子のアカウントも監視していた。
純子の投稿は、
ユキの不安を増幅させるように
“匂わせ”が強くなっていた。
- 「あなたの言葉が今日も支えてくれる」
- 「会えない時間が愛を深くする」
- 「大切な人へ」
梨沙は眉をひそめた。
「……この女、危ないわね」
純子は、
たくまの口癖や言い回しを真似て投稿していた。
ユキはそれを見て、
“たくまが監視している”と誤解している。
梨沙は、
その誤解が“恐怖の種”になることを理解していた。
◆ 1 妻との共有
梨沙は、
美咲に定期報告を送った。
『ユキさんのSNSに変化があります。
恐怖の基準値が下がり、
些細な刺激で反応する状態です』
数分後、
美咲から返信が届いた。
『放っておきなさい。
勝手に壊れるわ』
梨沙は、
その言葉にわずかに胸がざわついた。
美咲は優しい人だ。
しかし、
“壊れた優しさ”は、
時に残酷さに変わる。
梨沙は、
その残酷さを理解していた。
理解しているからこそ、
美咲の言葉に逆らえなかった。
◆ 2 観察の深化
七月下旬。
梨沙は、
ユキの生活圏を遠くから観察していた。
- スーパー
- 娘の学校
- パート先
- 自宅周辺
尾行ではない。
“観察”だ。
梨沙は、
ユキに気づかれない距離を保ちながら、
ユキの“変化”を記録していく。
ユキは、
周囲を気にするようになっていた。
後ろを振り返る回数が増えた。
スマホを握る手が強くなった。
歩く速度が速くなった。
梨沙は、
その変化を冷静に分析した。
「……恐怖の熟成が始まってる」
恐怖は、
“実害”ではなく“気配”で育つ。
梨沙は、
その“気配”を作り出していた。
わざと視界の端に入る。
わざと足音を残す。
わざと距離を詰めない。
ユキは、
それを“たくまの影”だと誤解する。
梨沙は、
その誤解を利用していた。
◆ 3 純子の異常性
八月。
純子の匂わせは、
さらにエスカレートしていた。
梨沙は、
純子の投稿を見て眉をひそめた。
- 「あなたの影を追いかけてしまう」
- 「今日も会えなかったね」
- 「私だけがあなたを理解してる」
梨沙は、
純子の“異常性”を確信した。
「……この女、たくまさんに執着してる」
そして、
その執着がユキの恐怖を増幅させている。
梨沙は、
美咲に報告した。
『純子という女性が、
ユキさんの恐怖を増幅させています』
美咲からの返信は短かった。
『放っておきなさい。
あの女は使える』
梨沙は、
その言葉に背筋が冷えた。
美咲は、
純子を“利用”している。
純子は、
ユキを“追い詰めている”。
ユキは、
たくまを“怪物”だと誤解している。
そしてたくまは、
何も知らない。
梨沙は、
この構造が“壊れる未来”を予感していた。
しかし、
止めることはできなかった。
◆ 4 ユキの“恐怖の基準値”が下がる
八月の終わり。
梨沙は、ユキのSNSを開いて眉を寄せた。
投稿の内容は、
以前よりもさらに“過敏”になっていた。
- 「最近、家の前に知らない車が停まってる」
- 「誰かに見られてる気がする」
- 「SNSって怖い。誰が見てるか分からない」
梨沙は、
その“車”が自分のものだと理解していた。
もちろん、
ユキに危害を加えるつもりはない。
ただ、
“気配”を残すだけ。
それだけで、
ユキの恐怖は育つ。
梨沙は、
その恐怖の変化を冷静に分析した。
「……基準値が下がりきったわね」
恐怖は、
一度基準値が下がると、
些細な刺激でも“脅威”に変換される。
梨沙は、
その状態を“熟成”と呼んでいた。
ユキは今、
“恐怖が完成する直前”にいる。
◆ 5 純子の“模倣”が始まる
九月に入ると、
純子の匂わせはさらに異常性を帯びていった。
梨沙は、
純子の投稿を見て背筋が冷えた。
- 「あなたの言葉、今日も胸に残ってる」
- 「あの日のコメダ、忘れないよ」
- 「10月10日、楽しみにしてるね」
梨沙は、
その“10月10日”という日付に目を細めた。
「……これは、たくまさんの言葉じゃない」
純子は、
たくまの口調を真似ていた。
- 語尾
- 言い回し
- 句読点の位置
- 文章のリズム
梨沙は、
その“模倣”がユキにどう映るかを理解していた。
ユキは、
純子の存在を知らない。
だから、
純子の投稿を“たくま本人”だと誤解する。
梨沙は、
その誤解が“恐怖の完成”に直結することを知っていた。
「……この女、危険ね」
梨沙は、
純子の異常性を美咲に報告した。
◆ 6 妻の静かな指示
美咲からの返信は、
驚くほど短かった。
『放っておきなさい。
あの女は使える』
梨沙は、
その言葉にわずかに息を呑んだ。
美咲は、
純子の異常性を“利用”しようとしている。
梨沙は、
美咲の変化を感じていた。
以前の美咲は、
もっと静かで、
もっと優しく、
もっと“普通の人”だった。
しかし今の美咲は、
たくまの世界を壊すためなら
“他人の狂気”すら利用する。
梨沙は、
その変化に胸がざわついた。
「……美咲さん、あなたはどこへ向かっているの」
しかし、
梨沙は止められなかった。
美咲の痛みを知っているから。
美咲の孤独を知っているから。
美咲の“壊れ方”を知っているから。
梨沙は、
美咲の影として動くしかなかった。
◆ 7 10月10日の“ズレ”の伏線
九月の終わり。
梨沙は、
ユキの投稿の中に“決定的なズレ”を見つけた。
- 「10月10日10時。これで最後にする」
梨沙は、
その文章を読み返した。
「……最後にする?」
ユキは、
“終わらせるため”に会うつもりだ。
しかし純子は、
“始めるため”に会うつもりだ。
そしてたくまは、
純子の匂わせに煽られ、
“救済のチャンス”だと誤解している。
梨沙は、
三者の認識が完全にズレていることを理解した。
「……これは、壊れる」
梨沙は、
そのズレが“決定打”になることを確信した。
そして、
その日――10月10日――
梨沙はたくまを尾行することになる。
その結果、
たくまは“影”を感じ、
混乱し、
恐怖し、
そして――
ユキに“深根会”の話を口走る。
梨沙は、
その瞬間を録音し、
美咲に送ることになる。
すべては、
この“ズレ”から始まる。
九月の終わり。
梨沙は、ユキのSNSを閉じて深く息を吐いた。
恐怖は、
もう“完成直前”まで熟している。
ユキは、
たくまの影を見ているのではない。
自分の恐怖が作り出した“幻影”を見ている。
梨沙は、それを理解していた。
しかし、
その幻影を作り出したのは――
梨沙自身でもあった。
◆ 8 “気配”という名の刃
梨沙は、
ユキの生活圏に“実害”を与えたことは一度もない。
ただ、
“気配”を残しただけだ。
- スーパーの出口で、
ユキが振り返った瞬間に視界の端に立つ
- 娘の学校の近くで、
車の中から静かに見守る
- パート先の駐車場で、
少し離れた場所に停車する
- SNSの足跡を、
純子のアカウントが残し続ける
梨沙は、
それらを“観察”と呼んでいた。
しかしユキにとっては、
それは“監視”だった。
梨沙は、
その境界線の曖昧さを理解していた。
「……恐怖って、本当に脆いわね」
梨沙は呟いた。
恐怖は、
実体のない影ほど強くなる。
そして今、
ユキの世界には“影”しかない。
◆ 9 妻の静かな確信
梨沙は、
美咲に報告を送った。
『ユキさんの恐怖は、
ほぼ完成しています。
10月10日が“決定打”になるでしょう』
数分後、
美咲から返信が届いた。
『ありがとう。
あとは……流れに任せましょう』
梨沙は、
その言葉に複雑な感情を抱いた。
美咲は、
たくまの世界を壊すために動いているのではない。
たくまの“幻想”を壊すために動いている。
梨沙は、
その違いを理解していた。
美咲は、
たくまを憎んでいるわけではない。
ただ、
たくまの“嘘の世界”を終わらせたいだけ。
梨沙は、
その静かな狂気に触れた気がした。
◆ 10 たくまの“無自覚な沈黙”
九月の終わり。
梨沙は、
たくまのSNSを確認した。
たくまは何も投稿していない。
ユキに連絡もしていない。
純子の匂わせにも気づいていない。
たくまは、
ただ“沈黙”している。
しかしその沈黙が、
ユキには“監視”に見え、
純子には“脈あり”に見え、
美咲には“終わりの始まり”に見えた。
梨沙は、
その構造を冷静に理解していた。
「……たくまさんは、何もしていないのに」
それでも、
世界は勝手に壊れていく。
梨沙は、
その“壊れ方”を観察し続けた。
◆ 11 10月10日へ
九月三十日。
梨沙は、
ユキのストーリーを見て息を呑んだ。
- 「10月10日10時。これで最後にする」
梨沙は、
その文章を何度も読み返した。
ユキは、
“終わらせるため”に会うつもりだ。
純子は、
“始めるため”に会うつもりだ。
そしてたくまは、
純子の匂わせに煽られ、
“救済のチャンス”だと誤解している。
梨沙は、
その三者のズレが
“破滅の瞬間”を生むことを確信した。
「……10月10日。
私は、たくまさんを尾行する」
梨沙は、
その日が“決定打”になることを理解していた。
そして、
その瞬間を録音し、
美咲に送ることになる。
すべては、
この“ズレ”から始まる。
梨沙は、
静かにノートパソコンを閉じた。
「……影は、もう十分に育った」
その声は、
誰にも聞こえない。
しかし、
その影は確実に――
10月10日へ向かって動き始めていた。




