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五重螺旋の残響ーアメリカーノは、もう冷めてー  作者: fudo_akira


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第1章:妻の決断(6月)

六月二十七日、午前九時。

湿気を含んだ曇り空の下、

たくまのマンション前に一台の黒い軽ワゴンが静かに停まった。

運転席から降りてきたのは、

ショートカットの女性――芹沢梨沙。

四十代後半、落ち着いた目元。

元警察官の探偵らしい、無駄のない動き。

梨沙は腕時計を確認し、

小さく息を吐いた。

「……予定通りね」

その声に応えるように、

マンションのエントランスから一人の女性が姿を現した。

たくまの妻――美咲。

白いシャツにデニム、

化粧っ気のない顔。

しかしその表情には、

長い時間をかけて固めた“決意”が宿っていた。

「梨沙さん、お願いします」

「ええ。今日で終わらせましょう」

二人は目を合わせ、

静かに頷き合った。


◆ 1 2023年の出会い

美咲が梨沙と出会ったのは、

ちょうど二年前――2023年の秋だった。

たくまのスマホに映る

「ユキ」という名前。

深夜に届く通知。

帰宅時間の変化。

会話の減少。

美咲は問い詰めなかった。

問い詰めても、

たくまは決して本音を言わないと知っていたから。

代わりに、美咲は探偵事務所の扉を叩いた。

「夫の行動を知りたいんです。

責めるためじゃなくて……

ただ、真実を知りたいだけ」

その時、対応したのが梨沙だった。

梨沙は美咲の目を見て、

すぐに理解した。

――この人は、怒っていない。

――ただ、壊れている。

梨沙は静かに頷いた。

「分かりました。

あなたの“痛み”を整理するお手伝いをします」

その日から、

二人の奇妙な共鳴が始まった。


◆ 2 妻の決断

2023年から続いた調査で、

梨沙はたくまの行動を把握していた。

- 仕事のルーティン

- 帰宅時間

- 休日の過ごし方

- ユキとの接触

- SNSの動き

- たくまの“嘘のつき方”

美咲はその報告を淡々と受け取った。

怒りも、嫉妬も、悲しみも見せない。

ただ、静かに蓄積していく。

そして2025年6月。

美咲は決断した。

「出ていきます。

息子を連れて。

たくまには……何も言いません」

梨沙は驚かなかった。

むしろ、

その決断が“ようやく来た”と感じた。

「荷物は最小限にしましょう。

戻る気がないなら、痕跡は残さない方がいい」

「はい。お願いします」

美咲の声は震えていなかった。


◆ 3 退去作戦

六月二十七日。

たくまが仕事に出た直後、

梨沙はマンションの周囲を確認した。

- エレベーターの死角

- 防犯カメラの位置

- 住民の出入り

- たくまの帰宅予測時間

すべて計算済み。

梨沙は美咲に指示を出す。

「息子さんの荷物はこれだけでいい。

服は最低限。

思い出の品は……持っていかない方がいい」

美咲は黙って頷き、

息子の手を握った。

「ママ、どこ行くの?」

「ちょっとね。

新しいお家に行くの」

梨沙はその会話を聞きながら、

胸の奥に小さな痛みを感じた。

――私も、同じだった。

夫の裏切りで家を出たあの日。

梨沙は娘の手を握り、

同じ言葉を言った。

「新しいお家に行くのよ」

梨沙は美咲に言った。

「大丈夫。

あなたは間違っていない」

美咲は小さく微笑んだ。

「梨沙さんがいてくれて……よかった」

その言葉は、

梨沙の胸に深く刺さった。


◆ 4 静かなる撤収

梨沙はマンションの廊下に出ると、

まず非常階段の位置を確認した。

エレベーターは使わない。

カメラの死角を通るルートは、

すでに頭の中に描かれている。

「美咲さん、こっちです」

美咲は息子の手を握り、

梨沙の後ろを静かに歩いた。

部屋の中には、

生活の痕跡がまだ残っている。

- 冷蔵庫の中の調味料

- 洗面所の歯ブラシ

- ベッドのシーツ

- 息子の描いた絵

- 家族写真

梨沙はそれらを見ても、

一切表情を変えなかった。

「持っていくのは、これだけでいい」

梨沙が指差したのは、

小さなスーツケースひとつと、

息子のリュックだけ。

美咲は、

家族写真に手を伸ばしかけて――

そっと引っ込めた。

「……もう、いいんです」

梨沙はその横顔を見て、

静かに頷いた。

「あなたは強い人です」

「強くなんてないですよ。

ただ……終わらせたいだけ」

美咲の声は、

涙ではなく、

乾いた決意で満ちていた。


◆ 5 “消える”ための準備

梨沙は、

美咲のスマホを手に取った。

「位置情報はオフ。

LINEは通知を切って。

たくまさんの連絡は……すべて無視でいい」

「はい」

「息子さんの学校には、

私の方で“家庭の事情”として連絡しておきます。

転校の手続きも、私が段取りします」

美咲は驚いたように梨沙を見た。

「そこまで……?」

梨沙は淡々と答えた。

「あなたが戻らないと決めたなら、

中途半端が一番危険です。

痕跡を残さないことが大事なんです」

美咲は、

その言葉に救われるように息を吐いた。

「……梨沙さんがいてくれて、本当に良かった」

梨沙は微笑んだ。

しかしその笑みは、

どこか痛みを含んでいた。

「私も同じでしたから。

夫に裏切られた時、

誰も助けてくれなかった。

だから……あなたには同じ思いをしてほしくない」

美咲はその言葉に、

初めて梨沙の“影”を感じた。


◆ 6 退去の瞬間

荷物をまとめ終えると、

梨沙は玄関の覗き穴を確認し、

廊下の足音を聞き分けた。

「今です。行きましょう」

美咲は息子の手を握り、

梨沙の後ろに続いた。

エレベーターは使わない。

非常階段を静かに降りる。

梨沙は途中で立ち止まり、

耳を澄ませた。

「……大丈夫。

たくまさんはまだ会社です」

美咲は小さく頷いた。

階段を降り切ると、

梨沙の軽ワゴンが待っていた。

息子を後部座席に乗せ、

美咲が助手席に座る。

梨沙はエンジンをかける前に、

美咲に向き直った。

「これで、あなたは“消えた”ことになります」

美咲は窓の外を見つめた。

そこには、

十年以上暮らしたマンションがあった。

「……さよなら」

梨沙はアクセルを踏んだ。

ワゴンは静かに走り出し、

角を曲がった瞬間――

美咲の過去は、

完全に視界から消えた。


◆ 7 たくまの知らない“影”

その日の夕方。

たくまが帰宅すると、

部屋は静まり返っていた。

息子の靴がない。

妻のバッグもない。

洗面所の歯ブラシが一本だけ残っている。

しかし、

たくまは気づかない。

- 退去が“計画的”だったこと

- 妻が探偵と共に動いていたこと

- 痕跡を残さないように撤収したこと

- 息子の学校にもすでに連絡が入っていること

- 妻の新しい住所が、

梨沙の手によって“完全に秘匿”されていること

たくまはただ、

ぽつりと呟いた。

「……行ったのか」

その声は、

誰にも届かない。

梨沙はすでに、

美咲と息子を乗せて

遠く離れた場所へ向かっていた。

そしてこの瞬間から、

たくまの人生には

“影”がつきまとうことになる。

その影の正体を、

たくまはまだ知らない。


◆ 8 梨沙の“仕事”と“感情”の境界

ワゴンが高速道路に乗ると、

美咲は後部座席の息子を振り返った。

子どもは、状況を理解していないまま、

窓の外の景色をぼんやり眺めている。

梨沙は運転席で、

バックミラー越しにその様子を確認した。

「息子さん、落ち着いてますね」

「……ええ。

まだ分かっていないだけです」

美咲の声は静かだったが、

その奥には深い疲労が滲んでいた。

梨沙は、

その疲労の正体を知っている。

二年間の調査で、

美咲の心がどれほど摩耗していったかを

誰よりも近くで見てきたから。

「美咲さん。

あなたはよく耐えました」

「耐えてなんかいませんよ。

ただ……諦めただけです」

梨沙は、

その言葉に胸が締めつけられた。

自分も同じだった。

夫の裏切りを知ったとき、

怒りよりも先に来たのは“諦め”だった。

だからこそ、

美咲の痛みが分かる。

そして、

その痛みを“整理する”のが自分の役目だと

梨沙は信じていた。


◆ 9 妻の“消失”の意味

高速を降り、

郊外の住宅街に入る。

梨沙が手配した“仮住まい”は、

たくまの生活圏から遠く離れた場所にあった。

「ここが、しばらくの住まいです」

美咲は車を降り、

小さなアパートを見上げた。

「……本当に、ここから始められるでしょうか」

梨沙は鍵を渡しながら言った。

「始めるんです。

あなたは今日、

“たくまさんの世界”から完全に消えたんですから」

美咲は鍵を握りしめた。

「消える……」

「ええ。

あなたが消えた理由を、

たくまさんは永遠に理解できないでしょう」

美咲は、

その言葉にわずかに震えた。

「それでいいんですかね……」

梨沙は静かに答えた。

「いいんです。

あなたはもう、

“誰かの妻”として生きる必要はないんです」

美咲はゆっくりと頷いた。

その横顔は、

悲しみではなく、

“解放”に近いものだった。


◆ 10 たくまの“空白”

同じ頃、

たくまはマンションのリビングで

ひとり立ち尽くしていた。

部屋は、

生活の音を失っていた。

- 息子の笑い声

- 妻の足音

- 食器の触れ合う音

- 洗濯機の回る音

すべてが消えている。

しかし、

たくまは気づかない。

妻が“計画的に”消えたことも、

探偵が手伝ったことも、

息子の学校がすでに手続き済みであることも、

妻の新しい住所が完全に秘匿されていることも。

ただ、

ぽつりと呟いた。

「……終わったのか」

その声は、

空虚に吸い込まれていった。


◆ 11 影の始まり

その夜。

梨沙は自宅に戻り、

調査ファイルを閉じた。

しかし、

胸の奥に小さなざわめきが残っていた。

――これで本当に終わりなのか。

美咲の退去は成功した。

たくまの世界は崩れた。

依頼は完了した。

それなのに、

梨沙の中には奇妙な“予感”があった。

「……まだ、何かが動く」

その予感は正しかった。

翌日、

梨沙のスマホに通知が届く。

美咲からのメッセージ。

『ユキという女性が、

たくまさんと別れたそうです。

あなたの調査のおかげです』

梨沙は画面を見つめ、

ゆっくりと息を吐いた。

「……そう。

これで、完全に“ひとつの世界”が壊れたわけね」

しかし、

梨沙はまだ知らない。

この“壊れた世界”の破片が、

後にユキの恐怖を育て、

純子の狂気を刺激し、

たくまを追い詰め、

警察を動かし、

そして――

たくまを“生きたまま消滅”させることになる。

影は、

まだ始まったばかりだった。


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