待っていた ―時計兎の憂鬱―
「ふくしゅっ」
シルバの手伝いでお城の書庫の整理に来たはいいものの埃がこれでもかというほど積もっていて、マスクをしているにもかかわらずくしゃみが止まらない。
「埃、すげえな……」
「本当。っくしゅん」
聞くところによれば最後にこの書庫の整理をしたのは10年以上前だという。そりゃ埃も積もるわ、と1人で納得。
「『群青の国の歴史 Ⅲ』?」
本棚から溢れて床にまで堆く積まれている本の山の中にあった一冊を拾い上げた。
表紙は群青色をバックに銀の箔押しで表題が書かれ、幾何学的な模様で縁取られている。なかなか凝った装丁だ。
「ありす」
「ふえ? ひっ」
声のほうに振り向くと、シルバが怖い顔で私を睨んでいた。綺麗だった藍色の目がどす黒く淀んでいる。私は怖気づいて手に持っていた本を取り落としてしまった。
「その本には触るな。いいな?」
「はい……」
「よし」
「シルバ、怖いよぉ……」
「何が? 何もいねえじゃん」
シルバはきょろきょろと周りを見回している。
「シルバが怖い……」
「あ、悪い」
もう一度私を見た顔からはもう怒りの色が消え、目も元の藍色に戻っていた。
部屋の奥まで行けないほど積み上がっていた膨大な数の本も片付き、最後に床を雑巾で拭く。
「“時計兎”って、こんな事までやるのね」
「別にこれは代々の“時計兎”の仕事じゃない。今回は今まで雑務を担ってたはずの“グリフォン”が仕事しねえから雑務まで俺がやってるだけだ」
どうやら、“グリフォン”という人物はあまり気持ちよく思われてはいないようだ。
「女王様も言ってたけど、“グリフォン”ってどんな人なの? 役持ちなんでしょう?」
「頭のおかしい野郎だ。もし会ったら、とりあえず笑顔で後ずさって逃げて来い」
「ずいぶんな言われようね。それに、それだけじゃほとんど説明になってないわ」
「あいつは危険なんだよ。人にもよるけど、ありすは気をつけたほうがいい」
「なんでよ? っくしゅ」
「逃げ足、遅そうだから」
「はぁ!?」
反論しようと勢いよく立ち上がると、立ちくらみに襲われた。
「おい、ありす?」
「何よ?」
眩暈がおさまるまで壁に手をついて体を支えることにしたのだが、なぜかシルバが慌てている。
「もう部屋に戻ったほうがいいんじゃねえか? 手伝ってもらって大体終わったし、具合悪そうだし」
「大丈夫よ。座ってたから、少し立ちくらみがしただけ」
「いや、違うだろ」
何が? と訊こうとした時、壁についていた手がずるりと滑った。正確には、膝が折れるほうが早かったかもしれないが。
「ありす!」
一瞬後には、私の体は資料を片付けたばかりの床の上に倒れていた。
シルバが私の額に手の甲を当てた。
「そんなに高くねえけど、熱あるな。やっぱり、昨日濡れたから」
「大したことないわ。ただちょっと眩暈が……くしゅん」
「嘘つけ、さっきからくしゃみしっぱなしじゃねえか。部屋まで送ってやる」
私はこの世界に来て早2回目のお姫様抱っこを経験した。
「跳ばないでよ?」
「病人抱えて大ジャンプする馬鹿がどこの世界にいんだよ。お前、俺の事嫌ってるだろ」
「別に嫌ってないわよ。信用してないだけ」
「それはそれで傷つくぞ。――――まあ、仕方ねえか」
「何?」
「いや、こっちの話」
*・*・*・*・*
部屋に着いて、私はそのままベッドに寝かされた。
「出来れば寝る前に靴脱ぎたかったけど」
「え? あ」
苦笑いしながら黒い靴を脱ぐ。シルバが妙にドギマギしているような……。
「その、こういうことすんの初めてだからさ」
それは関係ないだろう、と内心突っ込みたくなったが、部屋まで運んでくれたんだから大いに感謝しなくては。
「いいよ、普通なら時計兎様はこんなことしないでしょ。ありがとう」
「俺、タオル濡らしてくるから!」
やっぱりなんか変だ。変なのはわかるが、何が変なのかまではよく分からない。
「絞り方ってこんなもんか?」
「ごめんね、手伝うどころか迷惑かけて」
「そこはありすが謝るとこじゃねえだろ」
いきなりシルバの端正な顔が目の前に現れた。
「シルバ、顔が近い……!」
「俺は――――」
「ありす様! お怪我は……って、シルバ様?」
幸か不幸か、絶妙なタイミングでメアリアンが部屋に入ってきた。
「メアリアン、ノックぐらいしてから入れよ!」
「ノックはしましたわよ? でも、まさかお2人がこんなに早く――――」
「違う! 誤解だって!」
「じゃあまさかありす様、シルバ様に強引に迫られたとか……!?」
何か言わなくてはと口を開け、また閉めてしまった。喉が痛くて声が出ない。畜生、風邪め。
「とりあえず、私は失礼いたしますわ! ごゆっくりどうぞ!」
それは促すところじゃない! という私の叫びは、声にならないまま虚しく胸の奥に消えていった。
メアリアンが勢いよく出て行ってからもう一度シルバを見ると、熱がある私よりも赤い顔をしている。
「じゃあ、俺もそろそろ戻るから。お、お、お、大人しく寝てろよ!」
シルバは顔を赤くしたまま、ギクシャクとドアに向かった。右手と右足が同時に出ている。ついでに、外開きのドアを懸命に引いている。入るときに引いて開けたんだから、出るときは押さないと開かないでしょうに。
「それ、押すんだよ」
「っ!」
ようやくドアを押し開け、外に出て行った。
*・*・*・*・*
「で、つい命令口調になってしまったんですね?」
聞きなれた敬語に、深く頷く。
俺はありすの部屋を出てから、帽子屋邸に向かった。“時計兎”になる前は帽子屋の店で働いていたため、辞めてからも何かあるとよく相談に乗ってもらっているのだ。
「本当は、お大事にって言いたかったのに……」
「実にあなたらしいです。まったく、今回の“アリス”が決まったときはあなたが一番喜んでいたじゃありませんか」
女王様から“アリス”が決まったと聞かされた日の夜、気持ちが高ぶって寝付けなかった。
幼い頃から憧れ続けた“アリス”という存在。
ようやく会える、と毎日“アリス”が来るのを待っていた。
「ありすの事が、嫌いになりましたか?」
「そんなわけねえだろ」
「それは残念ですね。そうだったら、僕も狙おうかと思っていたのですが」
「やめてくれ……」
あんなに心待ちにしていたのに、やっと会えた“アリス”を目の前にして自分の口から出るのはどうでもいいことばかり。
「嫌われたかな……」
「そんなにすぐに諦めてはいけませんよ。今は緊張で本心が言えないだけでしょう? あなたの性格自体、もともと捻くれていますしね」
「結構ひどいな。自分が素直じゃないことくらいわかってるっつーの」
「事実を言ったまでですが」
「なお悪い!」
「それだけ言い返せる元気があれば大丈夫です。この際、ありすの傍にいて看病してさし上げてはどうでしょう? メアリアンの目をうまく誤魔化せれば、ですが」
「……無理だろ」
メアリアンの目っていったら、この国で1・2を争うくらい抜け目がない。だからこそ、メイドの中であれだけの地位を得たのだろうが。
「諦めてはいけないと言ったばかりでしょう? 大丈夫、シルバなら出来ます」
帽子屋のいつになく力強い視線に後押しされ、俺はティーカップを置いて席を立った。
ありすは本文中で2回目のお姫様抱っこと言っていますが、実は3回目です。2回目の時は寝ていたので気づいていません(笑
初めてシルバ視点が出ました。また他の誰かの視点がちょいちょい入ってくるかもしれません。