第一部 ぼっちポチ ㉓ 伊麻利、ぼっちポチを卒業ス
写真でしかお会いしていないけれど、その後ろ姿は一目で奥様と分かった。
そして
奥様の腕の中に抱かれている赤子は……エコー写真でしか見る事ができなかったベビたんだった。
私にはすぐ分かった。
「どうして?」と私のくちびるが動く前に奥様の方が語りかけて来た。
「ごめんなさいね あなたのお子様なのに…… 毎日おっぱいをあげていると、どんどん私に似て来てしまったの」
奥様の腕の中で、小さなもみじの手をひらひら振って「くわあ」とあくびをしたベビたんは私に向かって微笑みかけた。
「お抱きになる?」
私が夢中で伸ばしたその手に、奥様はベビたんを託してくれた。
ズシン!という重さが……胸にベビたんを抱かせる。
私の胸のうちで、むにゃむにゃと動くベビたん。
確かに
奥様に……
陽葵に……
似ている。
ああ、こんなにいい子に育ててくれて……
ベビたんの肌着に私はハラハラと涙を落とす。
そんな私の震える肩を奥様は後ろから抱いてくれる。
「ベビたんは私が育てるから心配しないでね。だからあなたは……」
私の肩越しに遠くを見やる奥様の視線を追って行くと……
そこには赤いランドセルで通学路を歩く陽葵の姿があった。
「陽葵をあなたの様に素敵な大人に育ててね」
いいえ!いいえ!!
奥様!!
私はどうしようもないクズ女です!!
「そんなこと無いのよ あなたはとっても素敵な人。だからこそ陽葵を託せるの。どうか陽葵とたくさんたくさん幸せを見つけてね。 それから……ついでにあの人の事も見てあげて……陽葵より、よっぽど手が掛かるけど」
私にこう囁いてクスクス笑う奥様は、とてもいい匂いがして……
幼い頃、“現実の母”に絶望し、心の中に秘め追い求めた“想像の理想の母”その人であるように私には思え、何度も何度も頷きながら
「奥様のご家族を私も必ず大切にいたします」と誓った。
そこで目が覚めた。
枕が涙でしっとりと濡れている。
自分勝手で……とてもとてもご都合主義の夢だったけど……
それでも奥様とベビたんにありがとうを言いたくて……
私はお仏壇に手を合わせた。
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長いお参りの後、私はエプロンを着け、朝ごはんの支度に取り掛かる。
冷蔵庫で浸水させておいたお米をタッパーから炊飯器に移し、「早炊き」モードにする。
で、次はお味噌汁だ。
鍋に水、顆粒だしを入れ、まな板の上の油抜きした油揚げと玉ねぎをお鍋に移し、中火にしたところで……
「マーちゃん! ちょっといい?」
と康雄さんから声を掛けられ、私はお鍋の火を止めてカレに従った。
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「マーちゃんの引っ越しの事なんだけど……」
この話を振られて私は少しだけ縮こまった。
この数週間、陽葵と康雄さんと……このプラムガーデンのお家で暮らして、とても幸せだった。この生活を続けていく事はもちろん私の願いだ。
だけど私には一抹の不安がある。
そんな不安を抱く必要が全くない様に思えても……
これまでの辛いDV生活から逃れて、初めて自由を得たあのアパートは……とてもささやかではあるけれど、私のお城だった。
そのお城を明け渡すと……
逃げ場所を失ってしまう。
こう考えると、手まで震えて来た。
「ごめんなさい……私、今、こんなに幸せなのに…… なぜか不安で……きっとDVの後遺症なんだと思います」
こう言うと康雄さんは優しく微笑んでふんわりと頭を撫でてくれた。
「分かるよ……だからみんなで楽しみながら、ゆっくりと引っ越し準備をしよう! 陽葵もあのアパートがお気に入りだからね」
「そうですね……私には低すぎる流し台の高さも、今の陽葵にはちょうど合っているのかもしれないし……なによりバランス釜にタイル貼りのお風呂が、あの子のお気に入りなんです!」
「バランス釜?」
「はい、ハンドルを回して火を点けるんです。それに色タイルがミックス貼りされた床が可愛いって!」
「ああ、そのタイル分かる! 昔の家屋の……」
「ええ、それです」
「そうか、オレもその風呂入ってみたい」
「えっ?!」
「会社から『もっと有休を消化しろ!』って、矢の催促でさ、平日にふたりで入ろうよ。新婚気分で」
と康雄さんは悪戯っぽくウィンクするので……
私は……顔を赤らめてしまった。
そんな私を嬉しそうに見ながら康雄さんは脇にあった封筒から1枚の書類を取り出した。
「何も書かれていない白紙の状態で母親に証人欄へ署名させた。白紙委任状みたいなもんだな。『オレの選んだ人に四の五の言うな』って感じの……」
開いてみると
それは
証人欄のところに一人だけ名前が書かれてある婚姻届けだった。
「もちろん『妻になる人』に署名してくれるよね?!」
まさかここまでしてくれるとは思っていなかった。
たとえカレが……カレの母親や自分自身の将来の介護の担い手として私を選んだのであっても……今まで誰からも必要とされなかった私を必要としてくれるのなら……こんなに嬉しい事はない!!
私、子供みたいにエンエンと泣いた。
康雄さんもびっくりしたのだろうが、私の泣き声を聞きつけた陽葵が飛んできて鬼の形相で康雄さんをねめつけたそうだ。
ふたりには本当に申し訳なかったのだけど、嬉しくて嬉しくて大泣きのしゃくり上げがなかなか止められなかった。
「マーちゃんは証人の心当たりがあるの? 確かお兄さんが……」
ようやく落ち着いた私に康雄さんは尋ねてくれたのだけど……
私は全力で否定した。
「兄とは……アパートの「保証人」になってもらうのを最後に縁切りを言い渡されました。 そういう意味でも、あのアパートを卒業するのは……いい事なんですね。 あ、証人は当てがあります。 紺野さん! 彼女にこう言われたんです 『あなたが結婚することになったら、是非私を証人に選んで!! “証人予約”ね!』って」
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それからの陽葵はいつもハイテンションだった。
きっと私より、私が“お嫁さん”になる事を喜んでいた。
何かにつけてスマホやタブレットで“花嫁さん”について検索していたし……今も本屋さんで、少女まんが雑誌などそっちのけで結婚情報誌を眺めている。
「ねえ! マーちゃん」
裾を引っ張られてその雑誌の中身を見せてもらった私は素敵な事を思い付いた。
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陽葵とふたりで、上置きタイプのお仏壇の置かれているマントルピースに似せた飾り棚をきれいに掃除して……陽葵や奥様の写真や家族写真を入れたフレームを並べた。
「これから先はマーちゃんとの写真が並ぶんだね。フレーム、まだまだ並べられるもん」
康雄さんも陽葵も、私の事を「マーちゃん」って呼んでくれる。可愛らし過ぎて……照れてしまうし、胸がきゅんとなってしまう。いつかは慣れて……しっくりと馴染んでゆくのだろうか……
これから先の未来は不確かな事もたくさんある。
私と康雄さんの事だって、目に見えるかすがいを欲してしまったり……もっと突発的な“はずみ”で……子供ができるかもしれない……逆に、何もかもが醒めてしまって……お別れしてしまうのかもしれない。
でも、どんな時も
精一杯努力していこうと思える勇気を……陽葵はいつも私に与えてくれる。
だから私は
新しくフレームを飾る。
そのフレームには……
カノジョは成年じゃないので法的には有効でないのだけど……
証人欄に“稲城陽葵”と認められた
結婚情報誌の付録の可愛らしい柄の婚姻届が
収められている。
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イラストです。
ぼっちポチを卒業して“稲城”姓となった伊麻利さんです♡




