養い女と養われ少年
僕が目を覚ました時、最初に感じたのは、重みがあって柔らかい触感と、優しくて甘い香りだった。
それが何なのか、寝ぼけた頭だと直ぐには気づかなかったけど、息苦しさで意識が覚醒した時、その正体がハッキリと分かる。
それは、僕を抱いて眠っているマイラさんの大きい胸だ。
「フ、フゴゴゴゴ!!フゴッゴ!!フゴゴゴゴッゴ!!(マ、マイラさん!!ちょっと!埋もれてるって!!)
「うへぇぇ……」
必死に抗議しても、僕の声はマイラさんの大きい胸に吸収されてしまう。これでは、寝ている彼女には全く聞こえていないだろう。
(このままだと本当に窒息死しちゃう!!……でも、こんな大きい胸の中で死ねるなら、良いかも……)
と馬鹿な考えが頭の中に浮かんだ瞬間、コレは本格的にマズいと本能で察知し、火事場の何とやらで、無理矢理に彼女の抱く腕から抜け出した。
「な、何とか抜け出した……ほら、マイラさん。もう朝ですよー」
「うへへ~……パル君……」
マイラさんは全く起きる様子が無い、僕の名前を呼びながら、だらしなく涎を垂らして、気持ちよさそうに眠っている。こうなったら、幾ら起こそうとしても無駄だと、経験上分かっていた。
なので、出来るだけ物音を立てないようにそっと広いベッドから起きると、そのまま寝室を出て、キッチンに向かう。
「今日は何にしようかな~っと」
キッチンに着くと、足元の食料棚の扉を開いて、中身を確認した。
食パンにハムとチーズ……うーん、これだったら、サンドイッチかな。あっ、レタスが少し腐りかけてる。これも早く使わないと。
食料棚からパンとチーズとハム、それとレタスを取り出すと、早速サンドウィッチを作り始める。そして丁度完成した頃に、寝室の扉が甲高い音を立てながら開いた。
「ふぁぁ~……パル君おはよーう」
出て来たのは、さっきまで一緒に寝ていたマイラさんだ。まだ寝足りないのか、寝癖が付いた艶豊かな長い黒髪をポリポリと搔きながら、綺麗に整った顔立ちを欠伸で大きく歪ませている。
「おはようございますマイラさん。今日の朝ご飯はサンドウィッチですよ」
僕は屈んでいた状態から立ち上がると、今日のメニューと告げると共に、軽く挨拶をする。すると、マイラさんは途端に明るい笑顔で勢い良く抱き着いてきた。
「やったぁー!パル君ありがとうね!!もう愛してる!!」
「ちょ、ちょっとマイラさん!!落ち着いて!!」
起きた時と同じく、もう一度抜け出そうとけど、今度はちゃんと覚醒しているからか、力が強くて、全く引き剥がせない。また僕の頭はマイラさんの胸に埋もれてしまった。それどころか、より一層抱きしめられてしまう。
でも、今度は何とか胸の谷間から顔を出し、左右から柔らかな圧迫に息苦しさを覚えながら、マイラさんに話しかけた。
「ま、マイラさん!朝ご飯、朝ご飯出来てるから!!」
「そうだ!早く食べないと仕事に遅れちゃう!!」
そしたら、マイラさんは僕を抱くのを辞めるや否、キッチンに置かれていたサンドイッチを奪うようにして持って行き、居間に置かれた椅子に座って、早々に食べ始めた。
「頂きます!ムグゥ、ムグゥゥ!!ご馳走様!!美味しかったよ!!」
そして食べ終わるまでに掛かった時間は、驚くことに10秒足らず。噛みついてから、まるで飲み込むようにしてサンドイッチを食べ切ってしまったのだ。
「ちょっとは味わって食べてくださいよ……」
「えへへぇ、パル君の料理が美味しいから、ついね」
悪戯をして怒られた子供のような、申し訳なさと無邪気を混ぜ合わせた笑顔を見せる。そんな顔をされたら、叱るに叱れないじゃないか……。
恐るべき早さの食事に、毎度のことながら呆れていると、窓の外から割れるような鐘の鳴る音が響き割った。
(1、2、3……鐘の音は8回。という事は、今は丁度8時という事だ。もうそんな時間が立っていたのか)
「あぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!仕事に遅れるぅぅぅぅぅぅぅ!!」
と、そんな風に呑気に考えていたら、マイラさんのこの世の終わりを目撃したような絶叫が、鼓膜を破る勢いで劈いた。
「遅刻したらハゲ上司にネチネチ嫌味を言われるぅ!それだけは絶対に嫌ぁ!!」
そこからのマイラさんの動きは早かった。風の如き速度で寝室に戻ると、部屋中をひっくり返しているかのような騒音が鳴り響って、その後に、また扉から出て来る。
何という事でしょうか。次に現れた時には、マイラさんの姿は大きく変わっていた。
タンクトップとパンツだけのだらしない装いは、キリッと糊が効いた皴一つないギルドの制服に。
寝癖だらけで触手のように広がっていた黒髪は、高級シルクのようなきめ細やかさと艶を靡かせながら、一括りに纏められている。
そして、口元に広がった涎と目元に出来た隈は、すっかり消え失せて、代わりに
そう、マイラさんは如何にも仕事が出来る女に早変わりしていたのだ。
「それじゃパル君!行ってくるね!!これ今日のお小遣いね!!」
そう慌ただしく言い放って、僕の掌を両手で力強く握りしめると、そのまま慌ただしく玄関の扉から飛び出してしまった。
「……いってらっしゃーい」
言うタイミングを逃してしまった言葉を虚しく吐き出し、掌に握らされたお小遣いの金貨三枚を見つめる。普通の家庭なら一か月の生活費に当たる金額だ。
マイラさんは、いつもこんな風に僕が何かをすると、事ある毎にこうして大金をお小遣いを渡してくる。
「こんな大金を貰っても、困るんだけどな……」
一応、冒険者として活動しているけど、銅貨数枚しか稼げない僕では、こんな大金は持て余すだけだ。生活費に充てようにも、貰った額の8割は使い切れない始末だ。
どうしたものかと考えていると、マイラさんが出て行った時のように、また玄関の扉が蹴破られたかのように開かれた。
「ぜぇ、ぜぇ……わ、忘れ物しちゃった」
扉の先に居たのは、さっき勢い良く出て行った筈のマイラさんだ。彼女は折角の綺麗な顔が汗まみれになるくらいに息切れを起こしながら、扉の淵に手を掛けていた。
「ど、どうしたんですか!何か重要な忘れ物でも」
「うん、もう超重要」
そう言うとマイラさんはズガズガと足音を立てながら、こちらに近づいてくると、僕の頬を両掌で鷲掴みにする。
その目は、まるで獲物を捕食する野獣のような瞳をしていた。
「ま、マイラさん!?」
「それじゃあ、頂きます!!」
と、言い切る前にマイラさんの唇が、僕の口を噛み千切るように食らい付いてきた。
(ちょ、ちょっと!は、激しい!した、舌入ってるからぁ!!)
マイラさんのキスは、僕の生命力を丸ごと吸い尽くすように強力で、無理矢理捻じ込まれた舌は、まるで怒り狂う大蛇のように口内を暴れ回って、呼吸すらままならない。
肺の酸素が尽きる直前に、ようやく満足したのか、マイラさんの唇が唾液のアーチを描きながら、離れていく。
「ふぅ!元気満帆!それじゃあ今度こそ行ってくるね!!」
さっきまでの野獣のような眼光はどこやら、活気みなぎるとツヤが張った満足げな笑顔で、今度こそマイラさんは行ってしまう。
「……マイラさん、いつも激しすぎるよ……」
そして、マイラさんが居なくなった家の中で、しばらく呆然と立ち尽くした後、僕は一人呟いた。
唇には、まだマイラさんの感触を残しながら。
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マイラさんが仕事に行ったその後、溜まっていた家事を終えて外へ出た時には、鐘の音は12回、もう12時になっていた。
「早く行かないと良い依頼が無くなっちゃう!」
まだ慣れていない鉄製の鎧と短剣をカチャカチャと忙しなく鳴らしながら、人通りが多い街並みを掻い潜って走り抜けていく。
そして辿り着いたのは、酒場と館を合体させたような巨大な建物、冒険者ギルドの前だった。
冒険者ギルドの入り口に入ると、そこには僕なんかよりも屈強な冒険者の人達が大広間一杯にひしめき合っていた。
やっぱり、不規則な生活をしている人が多い冒険者に取って、このぐらいが丁度、仕事を始める時間帯になっている。いつも朝から来ている僕には、いつも以上に混んでいるように思えた。
なるべく他の冒険者の人に絡まれないよう、極力人にぶつからずに人混みの中を避けて進んで行く。受付に並ぶ列の中で一番人が少ない列の最後尾に位置取った。
「おいフザけるじゃんねぇぞ!この糞アマ!!」
僕が並ぶ列の先頭で、野太い男の怒声が響き渡る。思わず僕は心配になって、少しだけ列から反れて先頭の様子を見てみると、そこにはスキンヘッドの大男と受付嬢が、何やら揉め合っていた。
「ネジレバイコーンの角がこんな安い訳ねぇだろぉが!何処に目ん玉付けてやがる!!」
「この両眼に付いておりますが?そちらこそ、キチンと確認いたしましたか?」
大男の方は厳つい顔で凄みを効かせて圧を掛けているのに、受付嬢は慣れていると言ったように平然と受け流している。きっと、僕だったら、涙目になって竦み上がっているだろう。
「余程無茶な狩り方をして来たのですね。ほら見てください、此処に傷跡が残っています。それと、此処と此処にも在りますね。これだけの傷物ですから、寧ろ買い取って貰える事に感謝してもらいたいですね」
「ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇ!サッサと換金しろってんだ!!」
淡々と理論詰めの受付嬢の口撃に、大男がダンッ!!とカウンターを割らんばかりの拳を振り下ろして、目に見える暴力で更に威圧する。
遠くて見ていただけの僕でさえも、思わずビクリと身体が震え上がってしまうが、より間近で対峙している筈の受付嬢は、顔色一つ変えず、同じような平坦な口調で喋り始めた。
「でしたら今後、当ギルドでの貴方に対する素材の換金及び依頼の受注を拒否させていただきます」
「なっ!?」
「こちらとしても粗悪品の買取要求、依頼の不履行、暴力によるギルド職員への恐喝を行う冒険者の方には、ご利用をご遠慮させていただきたいのでしてね。そういう訳なので、お引き取りを」
「まだ話は!!」
「それとも、この場で衛兵を呼びましょうか?そうなれば、貴方もこの街に、それどころか国にすら居られなくなるかも知れませんね?冒険者であれば、ギルドの権力が如何に強大なのか、お分かりになっているでしょう?」
「ウッ……」
「そうなりたくなければ、その粗悪品を置いて、この報酬を受け取って早く出て行きなさい」
徹底的なまでの捲くし立てと脅迫に、大男の威勢も削がれて、ついには何も言わずに、カウンターに投げ捨てられた銀貨を拾って、そのまま重い足取りで出て行ってしまった。
『な、なぁ……此処の受付嬢、ヤバくないか?』
『お前知らねぇでアイツの所に並んでいたのか?あの女に出禁にされた冒険者が何人居る事やら……』
『腕は良いんだけど、今日は一段と機嫌悪そうだな……別の所に並ぶか』
その様子を僕と同じく見ていた同じ列の人達の間でザワザワと囁き声が入り混じったかと思うと、次の瞬間には、その全員がまた別の列へと並び直してしまった。
そうなると必然的に最後まで残っていた僕が先頭になってしまう。早く受付をしてもらえるのはありがたいけど、周りから向けられる奇異の目線を考えると、素直には喜べない。
(とは言え、流石に他の列に並ぶわけには行かないよね……)
受付との間を埋める様に歩き出し、その受付嬢の前に僕が立つ。
すると不機嫌そうに険しく固められていた受付嬢―――マイラさんの顔が一瞬の内にだらしなく緩まった。
「パル君来てくれたんだぁー!!」
「マ、マイラさん!外でその呼び方は止めて下さい!!」
僕が慌ててそう注意すると、マイラさんが少し照れた様子で「えへへぇ、ごめんねぇ~」と言って頬を掻く。全く……何度も言っているのに、二人きりになるといつもこうだ。
「それでパルく……パルさん。今日はどんな依頼を受けるつもりなのですか?」
マイラさんが緩んだ頬をまた引き締めて、仕事時の堅い風体を装っているけど、まだ口端がヒクヒクと綻んでいる。それを敢えて見えていないフリをしておくとして、僕は早速本題に入った。
「今日は討伐系の依頼を受けようかと思っています。実戦経験を積み上げて、もっと強くなりたいんです!」
「そうですか、分かりました。ならこちらを」
そう言って、マイラさんがカウンターの上に幾つかの依頼書を提示してくれる。それらの内容に僕は軽く目を通してみる。
『薬草採取:依頼内容 ヨウナ草10本の採集』
『排水掃除:依頼内容 西地区の排水溝の掃除』
『民間依頼:依頼内容 飼い犬(小型犬)の散歩』
……うん。
「あ、あのマイラさん?僕、戦闘系の依頼を希望しているんですけど……」
「貴方の実力や経験を考慮した結果、これらの依頼が適任だと私が判断いたしました」
実力や経験って……僕、一年ぐらいは冒険者をやっているんだけどな。
「だ、だったらホラ!ゴブリンの討伐依頼とかなら良いですよね!アレなら」
「ダメです」
「そ、それならスライム!スライムなら子供でも倒せますから!!」
「ダメです!転んで怪我したらどうするのぉ!!」
思わず素が出てきてしまっていますよ、マイラさん。
僕を心配してくれるのは分かっているんだけど、冒険者なのに戦闘系の依頼を受けさせてくれない。もう2ヶ月近く戦闘をしていないのが現状だ。
かと言って他の受付に並ぶと、マイラさんの視線が痛い上に、その後は一日中ずっと不機嫌になるから、どうしようもないんだけど……流石にこれは……。
いや、諦めてはダメだ!!僕は溢れる語彙力を最大限に利用して、決意の籠った目で力説した。
「僕だって駆け出しですけど、冒険者の端くれです!もっと強くなってマイラさんを養えるくらいになりたいんです!!」
「パル君……!!」
よし!マイラさんの目が少しだけ潤んでいる!!この調子なら今日こそは雑用依頼以外を受けること出来るぞ!!
「すみませ~ん、そこの少年く~ん」
その時、後ろの方からヤケに語尾が伸びた色気のある女の人の声に、呼び止められる。
振り返ると、そこに立っていたのは、ほぼ裸のような際どい鎧を着ている妖艶で肉感的な大人の女性冒険者だった。
「今から私~討伐依頼に行くから~荷物持ちを探してるんだけど~一緒にどうかな~?」
僕の背に合わせてか、前屈みになって話しかける女性。そのせいで巨大な果実がムギュゥゥゥ!!と凝縮されて凄い事になっている。正直、マイラさんよりも大きいかも知れない。
「パルさん?」
「ハッ!?」
マイラさんの身体の芯から底冷えするような低い声に、思わず目が覚める。あ、危なかった……あのままだと魅惑の谷間に吸い込まれていたに違いない。
「ケロイさん。貴方また初心者に荷物持ちをさせるつもりですか?いい加減、自分で持つ事を覚えたらどうですか?」
「えぇ~、だって戦闘の後って疲れるじゃない~?それに~前からパル君って~可愛いなぁ~って思ってたんだ~」
「あぁ!?」
何だろう、二人の間に凄い勢いで弾ける火花が見える気がする。このままだと中心に居る僕にまで飛び火してしまいそうだ。此処はそっとバレないように視界の外へ。
「ねぇ~、パル君なら一緒に来てくれよねぇ~?」
「パル君!パル君なら私の依頼を受けてくれるよね!!」
あっ、遅かったか……。
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「ふぅ……ドブ攫いはやっぱり疲れるなぁ」
結局、僕はマイラさんの依頼であるドブ攫いの依頼を受ける事にした。
(ケロイさんには悪いけど、マイラさんには逆らえないんだよなぁ……うぅ、自分で言っていて、情けない……)
現状として、マイラさんの家に住んで、マイラさんのお金で生活をさせてもらっている。そんな僕に断るという選択肢は無いに等しい。そうじゃなくとも、マイラさんに後で怒られる時の事を考えると、震えが止まらなくなる。
そんなこんなで、僕はドブ攫いの依頼をやり遂げ、冒険者ギルドへ完了の報告し終えると、既に日が暮れて、鐘が数えて7回鳴っている時だった。
「今日はこれからどうしようかな」
一日中ドブ攫いをしていたせいで、身体の節々が悲鳴を上げていて一張羅の服も泥だらけで、これ以上の依頼は出来そうにもない。かと言って、何処かへ行こうにも、マイラさんに渡された大金で遊ぶのは気が引ける。
だから、こうして言っては見る物の、結局は何時ものように、晩御飯の買い出しをしてから、真っ直ぐマイラさんの家に帰ってしまうのだ。
だけど今日だけは、少しだけ何時もとは違っていた。
それは、酒場の横脇を通り過ぎる時に、ポツリと立っていた露店に目を奪われたのが切っ掛けだった。
「おっ、兄ちゃん。彼女さんにでもプレゼントでもすんのかい?」
「は、はいっ。少しだけ……」
商売人らしく僕の興味に目敏く気づいた露天商の男が、僕に話しかけてくる。それに対して、僕は精一杯の苦笑いをしながらも答えた。
「良いねぇ!だったら、ウチのブローチは一番だ!なんたって俺の手作りだから世界で一つの代物よ!!それにホラここ!ここの細かい意匠は俺にしか出来ない芸当だね!!」
「ははぁ……」
予め用意していたんじゃないかと言うくらいに次々と魅力を捲くし立てる露天商の男。でも、生憎と僕はブローチに目を奪われたんじゃない。
僕が目を奪われたのは、露店が建っているその場所にだ。
そこは、僕とマイラさんが初めて出会った場所だった。
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あれは、僕が冒険者に成り始めて1ヶ月の頃だったと思う。
今でこそ、簡単な依頼なら何とかこなせる程度だけど、その時の僕はまだ冒険者として今よりも駆け出しで、依頼を受けては悉く失敗してしまう有様だった。
だから当然、明日どころか今日を生きていくお金さえも無かった僕は、この酒場の裏口から捨てられる、僅かな残飯を盗むことで、どうにか生き永らえるような生活をしていた。
そして、その日の夜もまた同じように従業員が面倒くさそうに放り投げた残飯を盗み出して、そのまま抱えながら、酒場の横脇から通りに出た時だった。
「ヴェロロロロロロロロ!!」
僕は口から汚い滝を垂れ流しているマイラさんに出会った。
「だ、大丈夫ですか!!」
「うるせぇぇ!!わひゃひはひとりでだいヴォロロロロロロロ!!」
「あぁぁぁ!!僕の服がぁぁぁ!!」
最初は、美人だけど関わりたくない印象だった。心配して話しかけて来た他人に吐き出してくるような人間は、美醜関係なく誰でもそうなるだろう。
だけど、この時の僕は何を思ったのだろうか、確か苦しそうに吐き続けるマイラさんの顔に浮かぶ、良いとは違う辛さに少しだけ同情してしまったからだった気がする。
僕はそこから立ち去る訳でもなく、ただマイラさんが吐き終わるまで優しく背中を擦っていた。
「ハァ、ハァ……ぜ、全部吐き出したわ……ありがとう」
「い、いえ、大丈夫ですから」
やがてマイラさんが全てを吐き終わると、口元を拭いながら礼を言う。その言葉を引き気味にも受け取りながらも、僕は興味本位で聞いてみた。
「あ、あの、どうしたんですか?凄く荒れているようでしたけど……」
「……貴方には関係ないでしょ。礼は行ったんだから、サッサと消えなさいよ」
少しだけ口を噤んだ後、途端に冷ややかな態度で僕を突き放すマイラさん。だけど僕はそこで言う通りにはしなかった。
美人な女の人が荒んでいる姿を見ていられないと言うのもあったのだろうけど、多分、生まれながらに身に付いていた僕の性分というのだろう。
じゃなきゃ、僕は家族の口減らしの為に、冒険者になるなんて道は選ばなかっただろうから。
「僕で良ければ、話ぐらいは聞きますよ?」
「ハァ!?貴方正気!!消えろって言うのが聞こえなかったの?」
正気を疑っているように目を見開いて怒鳴るマイラさんに、僕は怖くなって怖気付きかけたけど、それでも自虐も込めておどけた笑いで誤魔化す。
「大丈夫ですよ。この通り、僕は冒険者未満の浮浪児ですから、誰にも言い触らせませんし、人形にでも話しかけているとでも思って下さい」
「…………私」
マイラさんは僕の格好をまるで見定めるように隅々まで観察すると、やがて胸の内に溜まっていた汚泥のタカを外したのかと言わんばかりに、さっきとは別の意味で一気に吐き出してくれた。
自分が冒険者ギルドの職員だという事。
真面目に仕事をしている筈なのに、周りから疎まれている事。
冒険者の為に忠告をしても逆に嫌われてしまう事。
行き遅れだという理由で好きでもない男性のお見合いや脂ぎった上司からのセクハラが絶えない事。
毎日仕事と家を往復する毎日で、遣り甲斐も生き甲斐も無い生活だという事。そして、このまま一人で年を取って行くのかと不安でしょうがないという事。
一つ一つは、きっと大したこともない日常のストレスなんだろう、でもそれが積み重なれば、心の芯まで侵す毒となる。それを僕は、話を聞いている中で、実感していた。
「―――という事なのよ」
何気ない日常の不満や、仕事の愚痴、遂には世論への批判までも一通り吐き出した後、マイラさんは、全力疾走したかのように息切れを起こしていた。
その間の僕は肯定も否定もしなかった。聞くに堪えないような言葉ばかりだったけど、マイラさんは今にも泣きそうになりながら、それらの全てを吐き出していた。
「……私って、不幸よね。こんなに頑張っても、誰も褒めてくれないし、ただ恨まれるだけ。そんなの馬鹿みたいじゃない」
最後の締めくくりに、そう吐き捨てるマイラさん。その顔には上手くいかない現状や、それを乗り越えられない自分への失望ーーーそう言った負の感情を押し込めたように醜く歪んでいた。
そんな顔を見てしまっては、男して僕は投げ出す訳にはいかなかった。だから僕は全てを受け入れて聞き届けた後に、ソッとマイラさんの頭を撫でて、素直に思ったことを口走る。
「お疲れ様です。頑張っていて偉いと思います」
その一言だけで、溢れそうだったマイラさんの涙の堰は容易く崩壊した。
「ヴアァァァァァァァァ!!」
その時の僕はゴミにも吐しゃ物にも塗れていて、とても汚くて臭かったんだろうと思う。だけど、マイラさんは気にせずに、僕の小さな身体に縋り付くように抱きしめながら、泣き始めたのだ。
流石の僕でも、予想外の行動や初めての女性の感触に頭が真っ白になったけど、それ以上に取り乱しているであろうマイラさんを見ていると、直ぐに冷静になった。
だから僕は敢えて何もしなかった。
ちゃんと分かっている訳ではなかったけど、この時のマイラさんは多分、励ましの言葉や綺麗事が欲しかったんじゃなかったと思ったからだ。
きっと、そう、単に自分が頑張っている事を、素直に認めて欲しかった。それだけなんじゃないかと思ったからこそ、僕は余計な言葉を言わずに、ただボォッと立っていた。
涙が枯れたのか、マイラさんは僕から離れてしまう。
「ありがとう……本当にありがとう」
だけど、その時の笑顔は不満やストレスに侵された顔でも、涙を我慢した顔でもなく、晴れやかに笑いかける綺麗な顔だった。
そんな綺麗な顔を見て、その時になって今更僕は、自分がどれだけ恥ずかしいことをしていたのかを思い知った。きっと、非日常な光景に当てられて、僕もらしくない事をしてしまったのだろう。
だったら今更新たな恥を上塗りしたって変わらない。そう思った僕は役目が終わったと別れの切符に、冗談の一つでもと飛ばしみせた。
「もし良かったら、僕の事を養ってみませんか?」
「それ良いわね」
「えっ?」
その瞬間だった、いきなりマイラさんが真顔になって、僕の首筋を鷲掴みにした。
「貴方、名前は?」
「ぱ、パルって言います」
限界まで顔を接近させて詰め寄るマイラさんに、得も言わせぬ威圧感を覚え、溜まらずに僕は屈してしまう。
思い返せば、初めて出会った時から、僕がマイラさんに養われる事は決まっていたのかも知れない。
それほどまでにマイラさんの瞳は完全に僕を見据えて離さなかった。
「決めた、貴方を私が養うわ」
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「アァァァァァァァァァァ!!」
「どうしたんだ兄ちゃん!?いきなり奇声を上げて!!」
突如として恥ずかしい思い出が蘇ってしまい、溜まらず僕は奇声を上げてしまった。
あの時、マイラさんに話しかけた僕は、下手をしたら怪しいナンパ師に違いなかった筈だ。どうしてあんな事をと思う反面、そのお陰でマイラさんに出会えたという感情が対抗し合ってしまい、頭が痛くなる。
「す、すみません……ちょっと恥ずかしい事を思い返して」
「そ、そうか……まぁ人間そんなこともあるよな」
だからと言って、往来の場所で何時までも叫んでいる訳にもいかない。すぐ様に冷静さを取り戻す。
そう言えば、何の偶然かは知らないけど、今日がそのマイラさんと出会って丁度二か月となる日だ。
そうだからと言っても、何か用意しているわけでもなく、何時ものように一日を過ごすつもりだったけど……これも何かの縁だろう。
「すみません、少し商品を見させてただけませんか?」
そう思った僕は、今日はいつもと違って少しだけ寄り道をしてみた。
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僕が家に帰った時には、既にマイラさんが先に帰って来ていた。
「あっ、マイラさん。先に帰っていたんですね」
「パル君、お帰り」
僕がそう挨拶するけど、何故かマイラさんの様子がおかしい。何時もなら、「パル君お帰り~!!」って勢い良く抱き着くのがお約束なのに、今日は居間の椅子から一歩も動く気配が無い。
どうしたんだろうと、僕が首を捻っていたら、マイラさん特有の、聞くだけで冒険者が震え上がる冷たい声色で向かい側の椅子を指差す。
「そこに座って」
「は、はい!!」
彼女に命令をされて断れる冒険者など居るはずが無い。即座に僕は指示された通りに、その席に座った。
間違いない、今のマイラさんは明らかに不機嫌だ。これは僕が先輩の冒険者に娼館に誘われたのを知った時ぐらいの荒れようだ。
一体何が原因なのかと身構えていると、マイラさんは両肘を机に付いて、両手を額に擦り合わせると、余命を告げる医師のような深刻さで告げた。
「パル君、正直に言って。私の事、嫌になったでしょ」
…………あれ?僕が思っていた方向と違うな。
「だって今日の昼、パル君に私冷たい態度取っちゃったじゃない!本当はあんなムチムチなお姉さんの方が好みなんでしょ!パル君なんてお姉さん好きの巨乳好きじゃない!!あんなドストライクな人に裂逸れて本当は嬉しかったんでしょぉぉ!!どうせ私なんか金で若い男を買うしかない行き遅れのババアですよぉォォォォ!!あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
突然顔を上げて泣き出したと思ったら、今度は素っ頓狂な声で叫び始めるマイラさん。
すると、マイラさんの腕が机を叩くと同時に、下からゴツンと硬い物がぶつかる鈍い音がした。何が当たったのかと覗き込むと、そこには栓の空いた酒の空瓶が転がっていた。
どうやら僕の見込みは外れていたらしい。このパターンは怒りの琴線に触れたんじゃなくて、酔っぱらって自虐癖が出ているだけだ。
「また僕の居ない間にお酒を飲んでいたんですかマイラさん……弱いんですから、飲み過ぎはダメですよ」
「うるしゃい!!私はどうせぇぇぇ!!」
ダメだ。こうなったマイラさんは酔いつぶれるまで元には戻らない。困ったな、これじゃあ話にならない。
普段の僕なら、マイラさんが眠りに付くまで介抱してあげる所だけど、今日だけはそういかなかった。
「マイラさん。ちょっとだけ良いですか?」
「ほえっ?」
マイラさんが間抜けな声で答える。どうやら意思疎通は出来るようだ。
「どうしたのパルくぅん?」
「えぇとぉ……そのぉ……」
ふやけた目で何かを期待しているように見つめるマイラさんに、僕はしどろもどろになってしまう。
だって、しょうがないじゃないか。こういうのは何時もマイラさんからで、僕は一度もやった事がない。してもらうばかりで情けないばかりだ。
それに、僕だって男だ。好きな人にプレゼントを渡す時はどんな時だって緊張する。
「そ、その、コレ!どうぞ!!」
胸元から取り出してマイラさんの前に差し出したのは、少し力を入れ過ぎてちょっとだけ歪んだ小箱。
「こ、これは!プレゼント!?」
それを見た時、一瞬でマイラさんの惚けた瞳が、皿のようにまん丸と変形した。そして、僕から小箱をひったくると、そのまま包装を破いて中身を取り出した。
「指輪?」
その中身は、小石ぐらいに小さい宝石が付いた何の変哲もない指輪だ。見るからに安物だけど、これでもマイラさんに貰ったお小遣いじゃなく、僕の少ない貯金の大半を叩いた高級品だ。
「うわぁ……ちょっと宝石は小さいけれど、凄いきれぇー」
「そ、そんなマジマジと見ないでください……そんなに良い物じゃないですから……」
普段から僕とは比べ物にならないくらい稼いでいるマイラさんからすれば、本当に小石みたいだろうから、誇れるプレゼントなんかじゃない。
それでもマイラさんは、僕がプレゼントした指輪を左手の薬指に嵌めると、今にも溶けてしまいそうな破顔の表情でその指を見つめていた。
「何でプレゼントなんてくれたの?」
「マイラさんと出会って、今日で丁度二か月ですから、それに」
マイラさんに聞かれて、正直に答えようとするが、緊張で上手く口が回らない。それでも舌足らずの言葉でも、僕は必死に伝えなきゃならないのだ。
「僕、マイラさんに感謝しているんです」
それからは、僕の震えは止まった。
「村に居た時の僕は、いつもお腹を空かしていました」
畑から獲れた野菜なんかは長男や次男に回されて、末っ子の僕は何時も残り物で、それでも農作業を日が暮れるまで働かされる。
「家族は居ましたけど、その輪の中に、僕は何時も居ませんでした」
だから、大雨で不作になった年に、真っ先に僕は家族から見捨てられた。その事に関しては、何時かはこうなると思っていたけど、悲しくなかったわけじゃない。
「村を飛び出して冒険者を目指して、それで僕はマイラさんに出会いました」
それで目指したのは冒険者だ。冒険者になって有名になって、お金をいっぱい持って帰れば、きっと僕を家族になれるって。
「マイラさんに出会ってから、僕の人生は変わりました」
あの日、マイラさんと出会わなければ、僕はこうして生きていなかっただろう。きっと、冒険者になる事すら出来ないまま、きっと路地裏で惨めに死んでいただろう。
「だから僕、今とても凄く幸せなんです」
だけどあの時、汚い思い出ではあるけれども、マイラさんと出会ってから僕の人生は大きく変わった。こうやって五体満足で冒険者として活動できるし、ご飯だってちゃんと食べる事も出来る。
それに。
「少し恥ずかしいですけど、こうやってマイラさんと一緒に暮らせて、なんか家族みたいで、凄く嬉しいんです」
こうやってマイラさんと一緒に暮らして、家族になれた。それが一番の幸せで、どうしようもなく嬉しかった。
「マイラさん、大好きですよ」
始まりは酒場の前で吐いていた女性という、最悪な印象だった。でも、一緒に暮らしていく内に、色々と見えてしまう。
仕事が嫌になったら僕に甘えるマイラさんの姿。
疲れた僕を優しく甘やかしてくれるマイラさんの姿。
どうしようもなくてだらしないマイラさんの姿。
冒険者の為に真摯に働くカッコいいマイラさんの姿。
他にも色々、数え始めたらキリがないくらいに頭に浮かぶ、二か月ちょっとで目に映るマイラさんの姿。その全てが僕にとって愛おしい思い出に塗り替わってしまう。
――最初、僕は家族に認められる為に冒険者を始めた。でも今は違う。
「今はダメダメですけど……いつかきっとマイラさんを守れるような冒険者になります!」
僕は、マイラさんを守れるような冒険者になる。それが今の目標だ。
全てを話し終えると、途端に僕の身体から力が抜ける。今までちゃんと話せていたのに、腹の底から語彙が尽きたように、もう言葉が出なくなってしまう。
でも、どうしても伝えたかった。何時か言おうと思っていたんだけど、切っ掛けが無くて、言えず仕舞いだったけど、こうして言葉にできたから、それだけで僕としては充分に満足していた。
だけど、マイラさんは違うようだ。
「パル君」
マイラさんは僕の肩をガッシリと掴む。その眼光を見て僕は何故だか、獲物を前にした腹ペコの野獣を想起させる。
ちょっと待って?今の流れでそんな風になる要素が何処にあったのかな?と言うか、さっきまで酔っていた筈なのに、マイラさんの目が座っている。もう戦地で死に行く英雄並みに覚悟が決まっているような眼だ。
「寝るわよ」
まだ酔ってるのかな?と思っていたその時には、既に僕はマイラさんの腕の中に拘束されていた。
「ま、マイラさん待って!?そんなイキナリ!!」
「パル君」
挟まれた谷間の上から、マイラさんの顔が覗く。
「私、今最高に幸せよ」
それがどんな顔をしていて、どんな風に思えたのか。それを語る事は僕には出来ない。それは僕だけが知っていたいという独占心からだ。
だけど、これだけは言える。そこには僕が初めて会った時のような薄暗い表情では無くて、とても幸せそうな顔だった。
「……ハァ」
僕は溜息を吐く。きっと僕がどれだけ冒険者として強くなっても、これから先ずっとマイラさんには逆らえないだろう。
だって、そうじゃないか。
好きな人の笑顔には逆らえないのは、常識なんだから。
でも、少しは自立したいな……。