08
高架下の焚火に見えたそれは、立入禁止を示す、投影看板だった。看板の下には、保健衛生局の紋章と、理由として「製油生物人的被害発生のため」との文字がある。つまり、盲腸街道でアブラムシの感染が発生したのだ。さらに近づくと、交差点から左右に分かれる盲腸街道には6台の保健衛生局の車が止まっていて、防護服を着た局員が2人がかりで遺体の入った袋を車に詰めている。袋に入った遺体は油化が進んでいるのか、袋の真ん中あたりは液体が溜まったみたいに垂れさがっている。僕は晶子さんの安全を確かめたかった。最後に会った時も、決して病気である様子はなかった。僕は晶子さんを一目見たく、進んでいった。
「周辺一帯は油害が確認されたため立入を禁止しています。この措置は域内の安全が確認されるまで継続します。東京復興府環境保全省令第4条…」
僕に気づいたのか、抑揚のない機械音声が、滔滔と立入禁止の旨を話し続け、投影された看板の像が揺れて僕の注意を引き付ける。それでも歩みをやめないでいると、急に後ろから肩をつかまれた。僕はその手を振りほどこうとしたが、逆に後ろへ引っ張られた。あまりに強く引っ張られたので、僕はしりもちをついてしまい、気づいた時には空を仰いでいた。そんな僕を2人の男が囲んで、上からのぞき込んだ。二人とも顔立ちが似ていた。顔に感情は浮かんでおらず、うつろな目が僕をまっすぐに見つめていた。その機械的なさまから、僕はすぐに2人が肉人形だと分かった。
肉人形というのはこの辺りでの呼び方で、正式には「生体人形」という、培養された人間の体に擬似人格を埋め込んだシロモノで、生身の人間がやりたがらない仕事をさせられている。擬似人格とはいっても、
片方の肉人形が、看板の機械音声と同様に抑揚のない口調で、同じことを言いだした。おそらく、この肉人形は安物なのだろう。肉人形の価格は、脳の複雑さ、つまり、どれだけ自分で思考して仕事をできるかで決まるという。こんな安物に、邪魔をされて腹が立った僕は、不審がられないように、ゆっくりと立ち上がった。2体の肉人形は、愚鈍な様子で後ろに下がった。立ってみると肉人形は僕よりも頭一つくらい背が低いことに気が付いた。着ている制服は、僕の服よりも高そうだった。それは僕をさらに怒らせた。
僕はズボンの尻の砂を払った。それを見て、油断したのか、肉人形は僕を注視しなくなった。僕はいきなり、片方の肉人形の頭を殴った。殴られた肉人形はそのまま後ろへ倒れ、残された方は、まだ僕を眺めていた。
「肉人形が人間様の邪魔をするんじゃねえ。」
僕は思わず叫んだ。その声は廃墟にこだました。残された肉人形が、ようやく倒れた相方の方を向いた。ようやく相方の状態を理解したのか、その肉人形が僕の方を再び注視しだした。
「バイオマトンは保健衛生局の所有物です。バイオマトンの破壊は刑事罰に問われる恐れがあります。直ちにやめてください。」
僕を見上げて言い出した。殴られた方は倒れたまま動いていない。一度殴ればもう壊れるみたいだ。僕は残った方も殴ってしまおうと思って、こぶしを振り上げてその頭を殴ろうとしたとき、肉人形の手が、そのこぶしをつかんだ。僕を引き倒したくらいだから、肉人形の力は強く、掴まれたこぶしはどうにも動かすことができない。
僕は学生時代に大した喧嘩もしていなかったので、これからどうすればいいかわからなかった。呆気に取られて肉人形の方を見ていると、後ろから何者かに羽交い絞めにされた。
「バイオマトンは保健衛生局の所有物です。バイオマトンの破壊は刑事罰に問われる恐れがあります。直ちにやめてください。」
後ろからもその声がした。3人目の肉人形が出てきたのだろう。僕はどうにか振りほどこうとしたが、肉人形の力は強く、ただ体を左右に揺らすことしかできなかった。
「わかった。わかったからもう放してくれ。」
僕は抵抗することをあきらめた。その声に肉人形が反応して、羽交い絞めからようやく解放された。あまりにも急だったので、前につんのめってしまったが、倒れることは免れた。僕は振り返った。やはり後ろにいたのも肉人形だった。僕は2体の肉人形に挟まれる形となって、これ以上反抗しても無駄だということを悟った。邪魔な肉人形を押して横にどかした。肉人形は反抗せずに横にずれた。僕は肉人形から解放された。僕はおとなしく帰ることにした。
「偉そうな成りしてれば、人様に命令できると思うなよ、能無しが。」
おさまりが付かないので、誰に言うでもなく僕はそう吐き捨てて、足元の小石を蹴った。
しばらく歩いていると、後ろから肩をたたかれた。振り返ると、肉人形が立っていた。
「忘れ物です。」
肉人形に呼び戻されてさっき言っていた刑事罰とやらに問われるのだろうかと心配だったが、彼は親切にも僕が落としたビールを持ってきてくれたらしい。結局晶子さんと一緒に飲むことはかなわなかったが、せっかく高いビールを買ったので捨てるにはもったいない。
「わざわざありがとう。倒れてる友達にもよろしく言っておいてくれ。」
僕は処罰はうけそうにもないことに安堵したのと、ビールを取り戻せたことがうれしくてつい彼の肩を軽くたたいた。彼の肩越しに僕が殴った肉人形が倒れたままになっているのが見える。もう1人の肉人形は倒れたのを見捨ててどこかへ行ってしまったようだった。目の前の肉人形は感謝されてうれしいようで、無表情だった顔が少し明るかった。
僕は袋を片手に再び元来た道を戻った。改めて肉人形の屈強さを思い知った。ベトナムで初めて投入されて、戦果を挙げたことは僕も知っていた。しかし今日の3体のような特に大柄でもない肉人形も屈強であることには驚いた。彼らの制止を振り切って晶子さんの安否を確認するほど僕も向こう見ずな男じゃない。明日、保健衛生局本部に行って確認しようと思った。本部は旧霞ヶ関にあると聞いている。旧霞が関には、桜花事件以前の名残で今も公的機関が集まっていた。といっても、そこにあるのは昔のような国の中央省庁ではなく、保健衛生局や土壌除染局、旧東京湾管理局、桜花石油公社など、桜石事件の後始末を担う機関だ。
旧霞ヶ関にある桜石の東京支社と東京油田沿いの桜石の施設を結ぶバスの停留所が、近所にもあったはずだ。それで行こうと決めていたところで、家に着いた。2往復もしていると道に慣れてくるようで、かかる時間が短くなっていくように感じた。