06
仮眠室のベッドには晶子さんが座っていた。彼女もシャワーを浴びてきたようで、髪が湿っているのが見て取れる。彼女もガウンを着ていた。
「珈琲淹れてきたから、よかったらどうぞ。」
いつの間にかベッドの脇にはテーブルが置かれていて、その上に湯気の立ったマグカップが2つあった。僕は彼女の隣に座って珈琲を飲んだ。室内は涼しく、風呂上りということもあり、心地よかった。珈琲を飲みながら僕たち二人は、他愛のないことを話した。それはもっぱら桜花事件の前の話だった。率先して話す彼女からは、僕らが再開するまでのことを話題にするまいという意図が感じ取れる。
歩いて居るときには気が付かなかったが、隣にいる彼女からはいい香りがした。香水をつけているようだが、僕の家で見つけたにおいのきついものではなく、花の甘い香りであった。
会話が途切れ、珈琲に口をつけた時、足元に風邪薬の空き瓶が落ちていることに気が付いた。シャワーに入る前はなかったはずだ。僕はカップをテーブルに置いて
「これは君が飲んだの?」
足で空き瓶を指しながら聞いた。彼女は何も言わず珈琲に口をつけた。僕はもう一度聞いた。
「これは君が飲んだの?」
それでも彼女は答えようとせずに、カップをテーブルに置いた。僕は諦めて、話題を変えようとしたときようやく彼女が口を開いた。
「風邪薬を飲むとね、いやな気分が吹き飛ぶのよ。」
そう言って彼女は僕を射すくめる。彼女の眼はうつろだったが、その顔からは疲れというよりも、楽しみや喜びの表情が見て取れた。
僕が彼女に抱いていたイメージとは異なり、今の彼女は快楽に沈溺しているようで、恐ろしかった。僕がもう一度、珈琲に手を伸ばすと、彼女の香りが強まった。彼女が身を寄せてきたのだ。僕はその行為に戸惑っていると、彼女は僕に口づけをした。あまりに突然だったが、僕も無意識に珈琲の入ったカップから手を放し、彼女の腰に手をまわした。時折漏れる彼女の吐息からは、先ほど飲んだ珈琲の香りがする。
そのまま何分が経っただろうか。僕の手は彼女の腰の膨らみに触れた。あるはずのないふくらみだと僕が驚いていると、
「エルフって何か知ってる?」
彼女は耳元でそうささやいた。僕が何も言えずにいると、彼女は腰に回した僕の腕をほどいてベッドから立って、僕に背を向けた。彼女は手をしばらく動かしていたが、僕には何をしているのかわからなかった。彼女はガウンをはだけさせて背中があらわになった。雪のように白い背中には羽を広げた蝶の刺青が入っていた。
「蝶?」
「ううん、蛾よ。」
「どうして蛾なんかを?」
「どうせ私は蝶にはなれない。でもせめて蝶のふりをしていたいの。」
彼女はガウンの帯をほどくと、ガウンは床へ落ちた。腰から垂れた細いひもがゆらゆらと揺れているのが目に入る。彼女には尻尾が生えているのである。彼女はエルフだったのだ。そこでようやくわかった。彼女が襤褸布のスカートを履いているのは、エルフに混じるためではない。尻尾が目立たないようにするためだ。むしろ、人間に近づくためなのだ。
僕は実際に見た有尾の女性に興奮した。彼女の尻尾はしなりながら揺れている。それはまるで催眠術に使う振り子みたいだ。僕は催眠術にかけられたように、その振り子に見惚れていた。思わず立ち上がって彼女に抱き着き、彼女の頤をすする。
背中は滑らかな絹のような触り心地だったが、尻尾の付け根はかさぶたのように固く、ざらざらしていた。その感触を楽しんで執拗に尻尾を愛でた。その夜、僕は初めて愛を交わした。
その後彼女はシャワーを浴びに部屋を出て、僕ももう一度シャワーを浴びた。洗面台には来て着た服が置いてあった。しっかりと乾かしてくれていたようだ。
仮眠室に戻り珈琲の残りを飲み干す。すっかり冷めてしまっていたがあまり珈琲を飲まない僕にとっては十分な味だった。ふと2人が脱ぎ捨てたガウンが目に留まった。外のエルフの街の猥雑さとはかけ離れた、きれいなガウンだった。そういえばシャワーも湯がしっかりと出ていたし、タオルも上質だった。今日日東京では上質な部類に入るもてなしを彼女から受けながらも、僕は彼女に甘えっぱなしで、自分の本能の赴くままに快楽に明け暮れていたのが、恥ずかしくなった。突然思い立った僕はベッドから立ち上がって鞄を開けて財布を探した。おろした給料をそのまま財布に入れていたので、それなりに金は入っていた。その中からきれいな旧1万円券を3枚取り出して机の上に置いた。
しばらくベッドに横になっていた。部屋には相変わらず空調か唸っているだけだったし、流木もベッドの上に横たえてある。僕はもっとよく見ようとして、流木の近くに言った。表面は濃い茶色で、節がいくつかあって、概して滑らかだが、よく見ると細い筋がある。ふと、空調の音が、流木から聞こえるような気がした。流木に耳を近づけていると、彼女が部屋の扉を開けた。
「ビール、飲む?」
「ありがとう、いただくよ。」
彼女は僕にビールを1缶手渡してくれた。僕は早速開けて1口呑んだ。そのビールはとても冷えていておいしかった。僕の家も、コンビニも冷蔵庫は不調で、ここまで冷えたビールを飲んだのは何年ぶりだろうか。僕は一気に半分まで飲んだ。彼女も僕の隣で冷えたビールを飲んでいた。
ここで彼女は机の上の旧券に気が付いて、あらと声を出した。
「3万円?ばかにしちゃだめよ。」
彼女のその言葉は冗談交じりに聞こえて、僕はただ曖昧に答え、ビールの残りを飲んだ。急に部屋の中で、僕でも彼女でもない声がした。とてもしゃがれた声で、流木の方から聞こえた。彼女も気づいたようで、流木の方へ近づいたが、彼女は微塵もその声を不思議に思っていない様子だ。
僕は気づいた。あの流木も、エルフだったのだ。異形の者が、僕と晶子さんの行為をずっと見ていたのだ。空調の音だと思っていたのも、あのエルフの呼吸の音だったのだ。僕は背中に冷や水を浴びせられたような感覚を覚えた。めったに飲めない冷えたビールの残った感を机に置いて、床の上の鞄を取った。気づくと彼女は流木に何か話しかけていた。彼女の顔は穏やかだった。その様がまた怖くなって、僕は碌に別れの挨拶もせずに、逃げるようにビルを出た。
外はまだエルフでにぎわっていた。空は白んできており、内陸の油臭くない空気は新鮮だった。千鳥足のエルフをよけたりしながら、急ぎ足で盲腸街道と国道の分かれ道に向かった。エルフたちの乱暴でやたらに大きな声を聴いてもなお、晶子さんの最後の声が耳から離れない。彼女は流木に向かって、お母さんと声をかけていたのだ。
晶子さんはよくわからない人だ。彼女は娼婦の真似事をして生計を立てているのだろうか。しかし3万円を出した僕も、それが何なのかわかっていない。彼女の生活費の支援なのか、一夜を共にした分の代金なのか。果たして彼女がその3万円をどう解釈したのかわからなかった。昨日来た道を逆からたどっている間中、馬鹿にしちゃだめよ、という科白にはどんな意味が込められていたのか考えていた。家についても結論は出なかった。