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油の海  作者: 厠谷化月
東京湾哀愁(トーキョーベイブルース)
5/29

04

しばらくして我に返ると、今まで忘れていた強烈な空腹感に襲われた。背を伸ばすと余計痛むから、背中を丸めて308号室へ向かった。寒くもないのに体を丸めて階段を上る姿は傍から見れば滑稽極まりないが、捨てられた都の廃屋同然の集合住宅では誰にも会うことはなかった。

冷蔵庫の調子が悪く、少し涼しい程度の空間に長らく放置されていた弁当は水気を含んであまりおいしいものではなかったが、食べられるだけで十分だった。昨日は死んだ母の分まで持って帰ったことを後悔したが、あまりにも腹が減っていたので僕は母の分まで食べてしまった。昨日は揚げたてだった唐揚げは冷えた油が口の中でまとわりつくのが不快で、水で口をゆすいだが、水に冷やされて不快感が余計に強まった。

空腹感が満たされて安堵した僕は大きく息を吸い込んだ。吸い込んだ空気は体中に塗った香水が放つ不快なまでのバニラのにおいを持ち込んで、心地よい満腹感が吐き気へと変わってしまった。自分の行いが自分に帰ってきて、忘れていたみじめさを思い出してしまった。周りにある何もかもが、自分に敵意を持っているような不安感に包まれ、床に敷いてある油がしみ込んだ敷物に身を投げ出した。その日は何もする日が起きなかった。

次の日の夜までシフトがなかった僕はその日の夕方まで油ぎった敷物の上で寝転んですごした。寝転んで棚の下の隙間を眺めていると、思い出すのは中学時代の嫌なことばかりで、胸が苦しくなった。そこで僕は晶子嬢のことを考えた。彼女は独り身なのか、彼女が僕にあいさつしたということは僕に気があるのか、娼婦以外の女性とかかわったことのない僕は、いい方へばかり想像を巡らせて、胸が高鳴った。心臓の鼓動で、分厚い脂肪で包まれた巨体が揺れているような気がした。

その日の夜は昼間とは比べ物にならないくらい気分がよかった。死んだお母さんのことを思い出しかけるとすぐに晶子さんのことを考えて心臓の鼓動に発破をかけて、いやでも暗い気分にならないようにしたおかげで、ラジオから流れてくるくだらない深夜放送を楽しんで聞いていた。普段は、僕の苦労も知らずに楽しんでいやがると思って、一切聞いてないのだが、夢中になって3時ころまで聞いていた。

翌日、日の高く昇ったころ、半身にかかっていた薄手の毛布の湿り気が頬をぬぐうので目が覚めた。部屋は蒸し暑かったが、窓を開けたところで油臭さが余計に部屋の空気を重苦しいものにしてしまうだけなので、壊れかけの扇風機をつけるだけにした。日の暮れるころに出勤となる僕の身にとっては、この時間に起きるのも早いくらいだった。

お母さんが死んだおかげと言っては何だが、自分の世話だけをすればよくなって大分暇になった。身なりに気を使わない僕は、最低限のことしかやらないので、出勤まで暇を持て余していた。今日になって、ここまで贅沢な時間の使い方をできるという点で、こんな日でもあくせく労働するホワイトカラーに対して底知れぬ優越感を感じていた。

結局昼食を食べる以外は横になっていた僕は、出勤前になってようやくシャワーを浴びに部屋を出て行った。脱衣所はまだ香水のにおいが充満して余計に息苦しさを感じていた。

バニラのにおいで思考が愚鈍になった体で、たいして冷たくもない水を浴びていると、思い出すのは母の遺体の感触だった。それを忘れようと深いため息をついて、さっき洗ったはずの顔を無造作にこすったりしているうちに、長い時間が過ぎてしまったようだ。髪も乾ききらないうちに身支度を整えて、急いでマンションを後にした。

夏の海辺は湿度が高く、まだコンビニに着いた時も紙が湿っていて、あまり効いていない空調が寒く感じた。レジ前でホットスナックを並べていた西川君が、

「お疲れ様です」

と一言。僕もあいまいに返事をして事務所へ入った。事務所で着替えてから、西川君と交代して今日の仕事が始まった。今日の唯一の仕事だったホットスナックの陳列はすでに西川君がやっていたので、手持ち無沙汰になった僕は3日前の新聞を棚からとって字を無造作に追っていた。

ついに、シフトが終わるまでには、昨日と同じワイシャツの中年1人と高野君が来ただけだった。事務所に言って私服に戻って、携帯を確認した。特に親しい友人もいない僕は、携帯を持ってはいても、その手帳機能だけを使っていた。携帯を期待して開いてみるが、誰からも連絡は来ていなかった。ボタンを強く推して、手帳機能を呼び出した。手帳機能を呼び出してばかりなので、おのずと決まりきったいくつかのボタンが壊れてくる。

画面は思っていた通り、明日シフトが入っていないことを示していた。今日は酒でも買ってこうかと思って、財布を確認する。財布には酒やつまみが一通り変えるくらいの金が入っていた。さっそく事務所を出て一通りのものをそろえた。レジで会計を済ますと、誰かが店のドアをくぐったことを示すベルが鳴った。僕はまさかと思ってドアの方を見ると、そこには晶子さんが立っていた。今日も機能と同じような襤褸布をスカートのように着ていた。高野君は僕に笑みを投げかけて、僕は何だ、ばれていたのか、よけいなことをするなよと毒づいてさっさと金を払い、晶子さんの方へ行った。見ると手にしたかごに同じ風邪薬を3箱入れていた。

「風邪ですか?お大事に。」

僕は興奮が伝わらないように、なるべく抑え気味の声で言った。

「風邪じゃないのよ。ちょっとね。」

濁すような言い方をする彼女を怪訝に思っていると、それに気づいたのか晶子さんの顔には何かを示唆するような笑みがあった。でも僕は目の前の女性が何を言わんとしているかがわからず、

「それじゃあ。お大事に。」

半ば反射的に答えて店を出た。腕時計は11時53分を示していた。曇天で街灯もない中、足元に注意を払いながらどうにか家の前に着いた。コンビニから家までの道は十年以上通っているが、いまだに暗い中での帰路はなれなかった。

泥海沿いの道からは、泥海の向こうの千葉や横浜の摩天楼や投影広告が見渡せる。首都機能が大阪や仙台に分散して一地方となった関東も、多くの都民の避難先となったおかげで発展を続けている。

一方の東京はと言えば、桜石事件の影響で衰退の一途をたどっている。2度のオイルショックを経験した日本は、1980年代に開発された人工製油生物・アブラヅクリによる石油国産化を成し遂げた。資源の奪い合いが原因の戦争が各地で起こるなか、安定した石油供給が可能となった日本は世界でも類を見ない発展を遂げた。

しかしこの状況も長くは続かなかった。中東の過激派や米国の介入がまことしやかに言われている1995年の桜石事件で江戸川沿いの培養工場から漏れ出したアブラヅクリが川を伝って土壌や東京湾に広がった。有機物をことごとく油脂に変えてしまうアブラヅクリは、東京の土壌も水も汚染した。

今や東京に残留しているのは一時的に赴任している桜石の人間か、「エルフ」など都外にいられない人々だけだった。20年たった今もアブラヅクリの除去は完全ではなく、彼らも汚染の少ない外縁部や整備の進んだ東京湾沿いの一部にしか住んでいない。

東京を失って、避難民の発生により他の地域の土地が高騰したことにより、経済の発展は何とか維持され、今や進歩の著しい電脳産業をリードする存在となった。巷では第5世代電脳通信網が整備されているが、東京では電話回線で電脳空間との接続をしなければならないほど、取り残されている。Alis社、那由他社、桃山電機、阿武隈物産という4つの企業は世界の電脳産業を牛耳っている四天王だと耳にする。しかし、そんなものは僕にとって、向こう岸の投影広告を遠目で見ることでしか知ることができない、2つの意味で幻に過ぎない存在だ。

ふと、自分がここに残っている理由を考えてみた。病身の母もいなくなった今、もはや自分が東京を離れてもいいのではないか。そもそもお母さんなんか見捨てて埼玉にでも居を構えていれば、少なくとも進化し続ける電脳環境に置いて行かれることなんかなかったであろう。なぜこんな不便な暮らしを選んだのか。思い返してみれば、東京にいればいつかは晶子嬢に再開できると思っていたからなのだろう。叶わぬ恋にしがみついているのはくだらないものだったが、晶子嬢との再会で、かなわないとは断言できないのではないか、彼女もまんざらではないあのではないかと思うようになった。

見れば向こう岸で、一対の白い大きな翼が暗闇に向かい飛び立ったところであった。それは千葉のAlisの本社上空に投影された広告で、「言葉に翼を」というキャッチフレーズを表現していた。

一人で住むのに1棟の集合住宅は広すぎる。1つの明かりもともっていないなか進むと、余計に孤独感が身に染みた。我が家に帰っても、いつものように売れ残ってふやけた弁当だけの味気ない食事を済ました。買ってきた酒も安物で、度数が高いが味は薄い。僕はいつもその酒で満足しているが、今日は不思議と不味く感じた。酔いも心地の良いものではなく、風邪をひいた時のような脱力感があるだけだった。

いつの間に寝てしまい、携帯の振動で目が覚めた。背面の画面が店長からの連絡だと知らせてくれた。店長からの電話はめったになく、僕は何か失敗を犯したのかと不安になった。恐る恐る電話に出てみる。

「野口君おはよう。早くに悪いね。」

店長の言葉ですっかり朝になったことが分かった。同時にその穏やかな口調で僕が叱責されるのではないらしいと分かって安心した。そのせいで気の抜けた挨拶を返してしまったが、店長は意に介さず続けた。

「今日の17時から22時までのシフト、悪いんだけど野口君入ってもらえる?」

「今日は畑中が入るんじゃないんですか?」

「畑中が風邪ひいたらしいんだ。忙しいとは思うけど、なんとか入れないかい?」

いつもなら急にシフトの変更を頼まれても断っていたが、今日は快諾した。その時間なら今日も晶子さんに会えるかもしれないからだ。

 思い人に会えるかもしれないと考えると、自分の身だしなみが気になってきた。洗面所の鏡越しに、髭の伸びた太った男がいてがっかりした。これでは晶子さんに避けられると思い、せめてと思って1か月ぶりに髭を剃った。めったに髭を剃らないので髭剃りには無頓着だが、あまりに切れ味が悪いそれではきれいに剃れず、もっといいものを買っておけばと後悔をした。

 髭剃りが終わると、寝室で自家電脳をつけた。久しぶりにつけたので、電話回線を通して積載した更新を済ますのは30分くらいかかった。その間に寝室の棚からAlisの登録名義と暗証番号を書いておいたメモを探した。ようやく見つかったが、それは古文書ほどではないがボロボロになってしまいそうだったので、携帯端末にその内容を写しているとようやく更新が終わり、電脳を使えるようになった。

 さっそくAlisに接続した。中学時代に取得した名義で、1年以上使っていなかったが、ほとんど新しい連絡は入っていなかった。Alisとは個々人の書いた文章を電脳空間に公開するサービスで、そこでは様々な階級の人が、自分の私生活や意見、愚痴などを吐き出している。僕がAlisを始めた当時は中学の級友と連絡を取る目的で始めたものだったが、彼らとも疎遠になってしまった。

 とりあえず、今人気を博している投稿をいくつか表示させた。10年ほど前から頭に機器を移植して電子情報を感覚的に取得して電脳を操作する感覚的操作法・SUIが主流となったが、20年余り前の電脳では、時代遅れの視覚的操作しかできない。

画面に表示される投稿の内写真の投稿に注目した。平面写真として表示されてしまうが、せめて今の人たちはどのような格好をしているのかを知って、どうにか晶子さんに会える様になりたかったからだ。

しかしわざわざ自分の姿を全世界的な電脳空間に投稿するのは注目を浴びたい新興成金ばかりで、その写真と言えば悪趣味な調度とはやりの顔に整形した美男美女が集まったものというワンパターンであった。 自分とは天と地ほどの差もある人たちが人生を謳歌しているさまを見て辟易した僕は、苦労して立ち上げた電脳の電源を切った。寝室には今まで集めた猫耳少女のフィギュアが埃をかぶっているが、それを掃除する気も起きなかった。作り物の少女をめでる僕の行為は、成金のやってるパーティで整形であっても美女たちをめでることと違い、何の生産性もない恥ずべきもののような気がしたからだ。

結局今日はベッドに横になってぼんやりと過ごして出勤までの時間を過ごした。出勤間際になって、せめてもとミントの香りのする香水の瓶を開けて、手に垂らした。ほんの少しのつもりが、誤って片手になみなみと注いでしまい、開いた方の手の先でほんの少し掬って髪につけた。手に残った大量の香水はもったいないが流しに捨て、強いミントのかおりの残る手を水ですすいでなんとかにおいが気にならない程度に洗い流していると、シフトに遅れそうになったので急いで家を出た。

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