03
どれだけの時間が経ったのだろうか。破れた障子から空が白んできたことがわかる。耳障りなサイレンが鳴り響いている。保健衛生局の車が前の道路を走っていくようだ。サイレンは低くなりきって聞こえなくなった。僕はようやく、ソファーから立ち上がり、ベランダに出た。泥の海を前にして大きく背伸びをして、深く息を吸った。外気の油臭さも、死臭よりは多少ましだった。
僕は朝になってお母さんが起きてきたかもしれないと期待して部屋の中に戻ったが、そこにいたのは、助けを求めて伸ばした手も重力に抗わない遺体だった。茶色いしみは昨晩より広がったような気がする。生前、旦那や息子に虐げられてきた母が、死してなお人として扱われず、親孝行を微塵もできていない自分が憎らしい。せめて遺体を葬ってあげようと決心したが、公営斎場はここから遠い内陸側にあり、その手続きも煩雑だった。それよりも家の前に広がる泥海に沈める方が手っ取り早い。そうと決まれば朝早いうちにやってしまおうと、母の体を持ち上げようとしたが、非力な僕にはやせこけた大人の体も持ち上げられず、死臭も耐えられない。
僕は隣の部屋に行ってみた。屋根や壁の状態が悪く住めるものではない202号室は201号室を使うにあたって、要らない家財道具を詰め込む物置にしてある。黴臭い部屋の中で要らない家具が乱雑に積み上げられてできた山を崩して、使えるものがないかと探した。山に積んでいたものは使えないものだったので、出てくるものは割れた皿やもともとの住人の家族の位牌、自分には縁のないであろういくつかの香水など、到底役に立たないものばかりで、ほしいものはなかなか見つからない。
人も入るであろう大きな柳行李を見つけたのは日の出を過ぎてしばらくしたころだった。有機物をことごとく石油に変えるアブラヅクリが巣食う泥海に沈めるにあたって、植物でできた柳行李ほど最適なものはなかった。
中に詰まっていた女性ものの服をすべて202号室にぶちまけて空にした行李を抱えて201号室に戻るとすぐに遺体を詰めにかかった。膝を曲げさせれば難なく入るのだが、死後硬直した遺体はなかなか思うように曲げられず、どうにかして行李に収めた頃には、破れた皮膚から滴る茶色い汁が手首にまでついてしまった。
持ち上げるには重いので行李を引きずって家の前の道に出るまでに引きずっていた行李の角は破れてしまい、そこからはみ出した足の指が地面に引きずられ肉がそぎ落とされて、アスファルトにひき肉で行李を引きずった跡がついていた。
道のガードレールの下の隙間から柳行李を押し込んですぐ下の泥海に落とした。遺体の詰まった行李はずぶずぶと沈み込んでいった。これで終わったと思った。僕の人生をみじめにした父のこと、そしてことあるごとにその父と血のつながっていることを思い出させる母の存在が僕の前から消えたのだ。ふとうつむいて赤茶色に汚れた手に気が付いた。両手から立ち上るにおいに思わず眉間のしわができる。
泥海沿岸の監視システムは一部始終を見ており、ガードレール上に保健衛生局のマスコットキャラクターを立体投影し、
「泥海への不法投棄は犯罪です。」
とアナウンスを流したが、僕はアナウンスを無視して家に帰った。警察への通報、刑事罰などなどを滔滔と続けるが、僕はそれが見掛け倒しで実際には何もないことを何度も見ているのだ。
日は高く昇りきっていて、昨夜から何も入れていない胃は悲鳴を上げていたが、家に戻って僕は真っ先にシャワーを浴びた。母の遺体を柳行李に詰めた時に、全身に死臭をまとったような気がして我慢ならなかった。しかし体をいくら流しても冷たくこわばった遺体の感触は消えることなく、むしろ鮮明に思い出されるようになった。僕は諦めて、全身を拭いた。少しでもあの感触が薄れるように、皮膚にさらに強い感触を上書きするように、これでもかというほど力を入れてタオルで拭いた。
聞き手が右手だからか、左腕がタオルでこすれて痛くなってきたころだった。ふと、今朝202号室で香水を見つけたことを思い出した。大分古い香水であろうが、香水の強いにおいが死臭に勝るであろうという一縷の望みをかけて、タオルを投げ202号室へ行った。
今朝山を崩したままの状態から、何も考えずに置いてきた香水を見つけるのは難しかった。今朝は気が付かなかったが、割れた窓から虫や鳥が入ってくることがあるのか、時折それらの死がいがにつかることも相まって、香水はなかなか見つからなかったが、ふと今まで一度も手を付けていない雑貨の小山を漁ると、意外にもあっさり香水の瓶を3つ見つけた。
3つの内1つは中が乾ききっていて、底に黄色いものがへばりついている状態で使えなさそうだったが、幸い残りの2つは瓶の半分ほど香水が残っていた。さっそく別の部屋の風呂場に戻って、落ちているタオルに目もくれず、瓶のふたを開けてその匂いを嗅いでみた。1つはミントのさっぱりとしたにおいのするもので、もう一方はむせ返るようなバニラのにおいのするものだった。
むせ返るようなにおいにも躊躇せず、バニラのにおいのする香水を手に付けて、全身くまなくそれを塗っていった。強いにおいが少しでも遺体の感触を忘れさせてくれることを願って、バニラのにおいにむせ返りつつ、残っていたすべての量を使い切った。
瓶が空になったことに気が付いて、顔を上げると、前の鏡に映るのは、疲れ切ってやつれた不細工で小太りの男だった。急に自分が恥ずかしくなった。高野君や晶子さんと比べてなんて僕は卑しい人間なのだろうか。
僕は蛇口を目いっぱいひねって激しく吐き出された水で手を洗った。顔や壁にはねる水なんか気にせずに夢中になって手をこすった。こうすれば自分の体にまとわりついて離れない汚れをきれいさっぱり洗い流せて、彼らと胸を張って肩を並べられるような気がしたからだ。