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油の海  作者: 厠谷化月
東京湾哀愁(トーキョーベイブルース)
2/29

01

東京湾は満月のもとでさび色の波面を輝かせていた。油泥に埋め尽くされた東京湾は一昔前まで資源の少なさで頭を悩ませていた日本の一大油田と化していた。旧都心の墓標のように湾岸には廃墟と化した高層ビル群が元凶の油泥を静かににらんでいる。

その静寂に反して電脳空間において東京湾は世界の注目の的であった。東京油田の動向が石油価格を左右するからだ。


外壁にびっしりとツタがはっている廃墟の1階部分は夜半でも煌々と明かりをつけコンビニが開いていた。20年前の桜石事故で、東京の人や機能は地方に散開したが、様々な理由で東京の土に骨を埋めたい人々や桜石の社員が小数残っていた。

僕はそこで今夜搬入した商品を棚に並べていた。日が沈んだとはいえはあるが空調の聞いていない夏の店内は蒸し暑く、額のべたつく汗が鬱陶しい。手の平で汗をぬぐい、その手で商品の陳列を再開した。その日はシフトの初めに桜石の社員と思わしきホワイトカラー然としたワイシャツの姿の中年の男が1人客で来ただけだった。

そうしているうちに散漫としてきて、いくつもの考えが脳裏をよぎってきた。自分は30余年も生きているが、人生の大半を惰性で続けてきたここでのアルバイトに費やしている。こんな人生をこのまま続けていいのかと不安で頭が満たされる。

会社寮、社歌、社葬…。財閥に人生の大半をささげるホワイトカラーは財閥の奴隷として生きているようだ。僕は真の自由を謳歌して生きていこう。何せ僕の職種は「自由」を名に冠した、フリーターなのだ。僕は自分の職が恥ずかしくなったらいつもそんな言い訳をして、一人で安心している。今日はそんな言い訳も効き目がなく、本当は努力をしたくないという思いでどうしても不安が収まらなかった。

ふいに僕しかいないはずの店内で叫び声が響く。怖くなって耳をふさいだが音が小さくなるどころか、大きくなっているような気がする。叫び声に対して不快感を抱いているが、それは怖さというよりも後悔であることに気が付いた。


お母さんは暴力をふるう父から僕とともに逃げて2人きりで生きてきた。お母さん一人子一人での生活は困窮しており、僕は父を心底憎んだ。2人の生活費を得るために働いてきたお母さんは持病をこじらせて寝たきりになった。僕はことあるごとに非力なお母さんにつらく当たった。対して体力があるわけでもなく、勤め先でも非正規の僕でも病身のお母さんの前では怪力を使えるのだった。

ある日僕はたいそう腹を立ててお母さんの薬を取り上げた。そうすることで生活が向上するわけでもなく、お母さんが泣いて薬を懇願する様子を見ても悪い気持ちしかしないのに、そんなことをしてしまった。薬を懇願するお母さんの声が叫び声に近くなったのを無視してシャワーを浴びていたら、その間にお母さんは冷たくなっていた。

お母さんが死んだのを煩雑な手続きまでして役所に申告したところで、待っているのはお母さん名義の年金の受給停止だけだ。だからお母さんの死はしばらく隠すつもりだ。見捨てられた東京で死人が生きていてることを気に留めるものなどいるはずがない。

しかし、お母さんの死を隠し続けるのは嫌だった。誰からも否定されたお母さんが、その死までも否定されるのはかわいそうに思えてくる。家にいれば嫌でも遺体が朽ちていく様子がありありとわかる。毎朝遺体を見るたびに自分がお母さんを殺したという事実を再確認させられる。それは自分のみじめな人生は、暴力的な父に起因するという、今まで第一信条としてきたことを否定するものだからだ。父と全く同じ暴力的な自分が情けなくなった。油泥に身を投げてしまいたい…。


「先輩、お疲れ様です。」

後ろからバイトの後輩の高野君が声をかけてきた。同時に叫び声が収まった。僕は挨拶を返して左腕を覗いた。左腕の腕時計はひび割れた硝子板の奥から105分後の時間、11時36分を示していた。つまり、今は21時51分、自分のシフトがあと10分足らずとなったのだ。

僕は急いで陳列にひと段落をつけると、奥へ行って着替えを済ませた。廃棄予定の弁当を2人分失敬した。僕は今日が給料日だったことを思い出して、少し贅沢をしようと思って店に戻った。

「タカちゃん、揚げたてのから揚げ頼むよ。」

と言うと、高野君は愛想よく返事をした。

それから店の扉の脇にあるATMから旧円札を下していると、店内に誰かが入ってきたことを示すチャイムが鳴った。下したお金を財布に入れてレジのほうを見ると、若い女性客が会計をしていた。遠目から見るとその容貌は女優かと見まごうほどに美しかったが、このあたりの人間の例にもれず、身に着けているものは薄汚れていた。上半身はタイトなTシャツに身を包み、僕とは対照的な艶麗たる体形を強調している。にもかかわらず、もう半身は様々な襤褸切れをつぎはぎしてモザイク柄となった茶けたスカートのようなものを履いていた。  

彼女は使い古して合皮のはがれかけている財布から小銭をぴったりと払うと、買った弁当と風邪薬を受け取ってレジから離れ僕の方へ向かってきた。彼女の顔を僕は知っている。彼女も僕に気づいたようで、すれ違いざまに、

 「あら野口君じゃない。久しぶりね。」

と言った。僕は興奮して何も言えなかった。喉につかえた言葉を取り出そうとしているうちに、彼女は店を出て行った。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

これが私、厠谷化月の処女作というものなのでしょう。私の好きな「地球の長い午後」や「アドバード」のような世界観を自分なりに文章にしたものなので、独りよがりな部分もあるかもしれません。その点はご了承ください。

ブックマークや感想をいただけると幸いです。著者の励みになります。

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