プロローグ
戦後20年という節目は迫っているが、ニューヨークに穿たれたクレーターはいまだに放射線を放ち続け、人を一切近寄らせないままだった。しかし電脳空間内でのニューヨークは、香港や仙台と肩を並べるほど栄えていた。その中で新ゴシック様式の教会を模したデザインのオブジェクトはひときわ目立っていた。それはアメリカの上流階級に属する白人、所謂WASPと呼ばれる人々のみが入会を許されるプロメテウスクラブの電脳会館である。戦災を逃れるために各地へ散らばった会員たちは、電脳会館へ接続することで、帰郷と同胞との再会を果たすのである。
ローガン・スミスは会館の中の仮想酒場で静かに酒を飲んでいた。酒場には彼の他に客はいない。酒の味や酔いまでも再現できる仮想酒場は、医者から飲酒を止められている彼にとっては天国のような場所だった。
誰かがこの酒場に入室したことを示す効果音が鳴った。出入り口に2週間前に入会したばかりの若い男が立っていた。彼は若いながらも立派な口ひげを蓄えているのが特徴的だった。その特徴のおかげで彼の名前を知らないローガンも、彼の顔ばかりは見覚えがあった。
口ひげの男はしばらくの間、酒場のバーテンダーと会話していた。2人はずいぶん長い間話し込んでいたのでローガンは不思議に思った。この酒場のバーテンダーは単なるプログラムに過ぎない。バーテンダーの仕事と言えば、酒の給仕、問題のある客の追放、そしてクラブの発行する会報などの文書の照会くらいだ。注文や照会と言っても、バーテンダーは電子的な手続きを仲介するだけだからすぐに終わるはずだ。ここまで話し込むほどの用事はめったにない。一体口ひげの男が何を頼んでいるのか、ローガンは訝しんだ。しかしローガンに2人の会話を盗み聞くすべはなかった。電脳空間での会話は、ちょうど郵便物のように伝えたい相手を指定して文章を送りあうことで成り立っているからだ。
結局口ひげの男とバーテンダーとの会話は2分かかった。話し終えると口ひげの男はローガンの方へ歩いてきた。
「お隣に座っていいでしょうか、ローガンさん。」
口ひげの男はローガンの名前を知っていた。
「ああ、もちろんいいとも。」
ローガンは快く彼の頼みを受け入れた。気になる点はあるのだがそれは口ひげの男の頼みを拒むほどではない。なにしろ会員の高年齢化が問題となりつつあるこのクラブにとって、若い新規会員はありがたいものだった。
口ひげの男はバーテンダーと長らく話していた割に注文は少なく、男の目の前にはミルクが一杯と青いマニラ封筒が運ばれた。青いマニラ封筒はリストが入っていることを示すオブジェクトだ。封筒にはクラブの電子紋章が入っている。プロメテウスクラブの名において発行された文書だということがわかる。口ひげの男は新規会員で、特に役職はないはずだ。ヒラの会員がクラブから取り寄せられる文書は会報くらいだ。リストとなるとさらに少ない。
ローガンは彼に疑念を抱いていた。彼はスパイか何かなのではないかと。バーテンとの長話の内容も気になっている。しかし、彼が何か悪事を働いているという確信は持てていない。確信が持てないのは彼ほど礼節をわきまえたクラブメンバーが悪人であるはずはないというローガンの単なる妄想かもしれない。それは電気信号で酔ったようになったローガンの頭では判別がつかなかった。
「以前どこかで会ったかな?」
ローガンは思わず隣の男に聞いた。
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「私の名前を知っていたからさ。」
口ひげにミルクの白い水滴をいくつもつけながら快活に笑った。
「このクラブにあなたのことを知らない人なんていませんよ。」
確かにローガンはこのクラブの古参会員の1人で幹部も務めているので、彼の言う通りその名を知らない人はほとんどいない。しかし、口ひげの男に対する疑念はいまだぬぐい切れていない。
「バーテンダーには何のリストを頼んだんだい?」
ローガンは思い切って聞いてみた。彼が何のリストを取り寄せたのか気になった。
「これですか。クラブの名簿ですよ。見てみます?」
口ひげの男は封筒の玉紐をほどいた。ローガン宛にリストが届いたことを示すチャイムが鳴り、ローガンの手元に紙のオブジェクトが描画された。
ローガンは驚いた。クラブメンバーリストは個人情報を扱っているため、厳重に管理されているはずだ。バーテンダーに取り寄せてもらう際も、いくつかの電子認証や幹部メンバーの許可が必要なはずだった。ローガンに許可の要請が届いていない以上名簿は取り寄せられないはずだ。そうなると口ひげの男は冗談で言っているのだろうか。ローガンの目にはそうは映らなかった。たとえ電脳空間で仮想的な面会をしていても、相手がジョークやホラの類を言っているかどうかくらいの識別はできる。
内心そんなことはないと思いつつローガンは急いで玉紐をほどいた。封筒の中から少し紙を出した。驚いたことに題名は”Prometheus Club Member List”と書いてある。ご丁寧に”Confidential(機密)”とまで記されていた。
「なんだこれは、白紙じゃないか。」
封筒から取り出すと、題字以下は何も書いていなかった。めくってもめくっても何も書いていない紙が続く。それが本物の名簿であることは、紙に写っているクラブの電子紋章が示している。つまり名簿が何者かに盗み出されたのだ。犯人は目の前の男に違いなかった。
驚いているローガンの紙を持つ手に虫が止まった。
「蝶?そんなオブジェクトはここに発生しないはずだ。」
「ローガンさん、これは蛾です。」
隣を見ると、口ひげの男の顔にはたくさんの蛾がとまっていて、男の顔が見えなくなっていた。男の顔に止まった蛾が一斉に飛び立ち、酒場中に放たれた。蛾がいたところから現れた顔は、口ひげを蓄えた若い白人の顔ではなく、出っ歯でだらしのない東洋人らしい顔だった。このクラブはアングロサクソン系しか入れないはずだった。会館への接続も、電子人格をもとに許可を出している。人格はそれぞれが固有のもので、他人が成り済ますことは不可能なはずではないか。
「バーテンダー、この男を追い出せ。」
ローガンは、蛾の羽音が鳴りやまぬ店内に響き渡るくらいの大声でバーテンダーを呼び続けた。しかし、バーテンダーはいつまでたっても目の前の東洋人を追い出そうとしない。見ると、酒場中を飛び回る蛾の大群を一匹ずつ捕まえているではないか。
ローガンは思い出した。電脳空間で最近噂を聞くようになったカウボーイのことを。彼は強固な電子的警備も通り抜けることを。そして、彼の去った後にはこれでもかというほどの蛾が残されていることを。
「お前は誰なんだ。」
どういうカラクリなのか、名簿のデータはなくなってしまった。もう彼が誰なのかを知るのは絶望的だ。
「さあね。」
東洋人は薄気味悪い笑いを浮かべながらミルクに口をつけた。すする音が耳障りだった。ローガンは我慢できなくなり、酒場の出口に走った。扉を勢いよく開け外に出ると、顔に蛾がたかった。それを腕で払いのけると目の前には会館の廊下ではなく、さっき出たはずの酒場の風景が広がっていた。東洋人はミルクを飲んでいるし、バーテンダーは蛾を追いかけている。バーテンダーが健気に一匹ずつ蛾を処理していく様子は滑稽だったが、ローガンに笑う余裕などない。ミルクを飲み終えた東洋人はローガンの方へやってきた。
「何が目的なんだ。」
ローガンは恐怖で考えがまとまらない中、何とかして言葉を出した。東洋人はもうローガンの目の前まで近づいてきた。ミルク臭い息までが感じ取れる。東洋人の人差し指がローガンの額に止まった。男の生暖かい息が顔にかかった。
「目的はあなたです。」