水戸黄門外伝 食道楽漫遊譚 懐5分 初めてのラーメン
天和3年(1683年)といえば天下分け目の大決戦の関ヶ原の戦からちょうど80年。天下泰平が80年も続くと現代ニッポンよろしくボケの花咲く平和に歌舞伎や浄瑠璃、落語、花街なんてものが大層栄えまして、浅草参りといえば体よく「あら、信心深いのね」なんて世辞の一つも聞こえて来ますが、旦那は吉原、かみさんは歌舞伎へと向かい、鉢合わせしたら瑞泉寺に参りに行くという信心深さでした。
特に日本人ってえのは昔っから食意地がはっておりまして、茶道なんてものまで作って食いもんから学ぼうとするんですから、食い意地もここまでくれば頭が下がるってもんです。
懐五分
江戸幕府開闢より80年。天下泰平の世で侍は剣術よりも文学を嗜むことに重きをおくようになり、その影響で清国から多くの儒学者、朱子学者が渡来した。
儒学者とともに、多くの申告より名産品も日本に持ち込まれ、中でも妙蓮の女性のような甘さと気品ある芳香を放つ金木犀は日本人に好まれ、秋の風物詩として瞬く間に広まった。
吉原大通りには紅葉とともに金木犀が植えられ秋の風情を彩っていた。
豊穣の季節に人々は活気に満ち、吉原も例外なく多くの男たちで賑わっていた。(広さを江戸風に)に(。。)人もの遊女たちがひしめき、さらに多くの男共がこぞって自らの「粋」をひけらかしていた。
数奇者が闊歩する吉原の中でも一際目立つ男共がいた。銀杏髷を結った青年でファッション紹介、もう一方は柿渋染めの着流しに女物の腰帯を巻き朱染の番傘を杖代わりにしており、。おおよそ不釣り合いな二人が揚屋で談笑していた。
樹々は百日紅からキンモクセイと紅葉に植え替えられ、可憐な花弁からむせ返るほどの甘い香りを放っていた。
雪洞に照らされた花弁が炎の如く揺らめき幽玄な夜を彩っていた。
「キンモクセイはいい。まるで吉原そのものではないか。」
介三郎が誰に言うわけでもなく語り、手酌で注いでいる覚兵衛の徳利を取り上げ
「手酌とは無粋なやつだな覚兵衛」酒を並々と注いだ。
「酒が淵まで盛り上がってるじゃないですか。これでは飲めませんよ。だから手酌で飲んでいたのに・・・。」
「馬鹿野郎。こうやって飲むんだよ」そう言うと覚兵衛は口を尖らせ卓上の猪口をすすった。
「やめてください。はしたない。」
「酒も女もこうやって迎えにいくんだよ。スカして待っていたって待ちぼうけさね」
「別に興味ありませんよ女なんて」
「吉原に来ていう言葉か?それともお前、衆道に興味あるのか?ケツは貸さんぞ」
「興味ありません。怒りますよ介さん」覚兵衛はそう言うと酒を飲み干し再び手酌で酒を注いだ。
酔いがまわると介三郎様から介さんと呼び名が変わる。生真面目な覚兵衛が砕けた様を見て介三郎は目を細めた。
「お前さんの真面目さは筋金入りだな。少しは遊びに興じるという事も覚えた方がいいぞ。書物だけでなく遊びに学ぶのも儒学者としての誉れぞ」
「そういえば介さんは禁欲に嫌気がさして仏門から離れたんでしたっけ?」
「そうだ。欲を禁ずるという事。すなわち欲に無知であるという事だ。知恵を探求するという事は、業を肯定するって事だ。」
「言っている事は立派なんですけどねえ。」
「しかし女に興味ない奴が吉原で飲んでるってのもよっぽど酔狂だな覚兵衛。」
「酔狂かもしれませんね。でも、この街並みが好きなんですよ」
そういうと覚兵衛は辺りを見渡した。雪洞に照らされたモミジが赤々と燃え、大灯篭に照らされた遊女たちが影絵のように揺らめき、かすかに香る白粉と白檀の入り混じった匂い。介三郎に初めて連れられた時から早3年。今もなお浮世離れしたこの景色に魅入っていた。
「色に走る者よりも覚兵衛みたいな者が本当の粋なのかもしれねえなあ」
介三郎は欲もなくただ純粋に吉原を嗜む覚兵衛の姿を見て再び目を細めた。
「しかしここは相変わらず活気があって良いな。黄門様もここに来れば少しはうさも晴れるだろうに。」
「黄門様が?来るわけないじゃないですか」
「お主知らんのか?黄門様は若い頃紀伊国屋の旦那と吉原借り切って豪遊したんだぞ。」
「嘘つかないでくださいよ介さん」
「嘘なもんか。この界隈じゃ有名な話だぞ。」
「朱舜水先生の手前真面目にしていたが、若い頃は大層傾いていたそうだぞ。」
「その朱舜水先生もお亡くなりになり四十九日にを過ぎた今でも憂いていますからね」
「性根が変わってしまうほど心酔していたって事だろう。」
「お労しい事です。何とかならないでしょうか」
「こればかりは時に任すしかないだろう」
介三郎は空を見上げ、深く息を吸った。
鼻孔を抜ける金木犀の甘い香りと、酒の臭気が入り混じり心地よいとも不快とも言えぬ中庸の感に酔っていた。
「某はちょっと宿場をのぞいてくるがお前さんはどうする?」
「私はもう少し飲んでからお暇します」
「そうか。」一言残すと覚兵衛が気づかぬうちに酒代を払い、介三郎は男衆の群に消えていった。
介三郎と別れた後、覚兵衛はほどなくして席を立ち吉原大門をくぐり家路へと向かった。吉原を抜けたあともおこぼれを預かろうとする屋台が立ち並び、夜道を煌々と照らしていた。
蕎麦、寿司、団子に飲み屋と様々な屋台が立ち並ぶ中、一際異彩を放つ屋台に目を奪われた。他の屋台と比べると素人が作ったようなイビツな屋台にも関わらず老若男女問わず立ち並び長い列をなしていた。看板をのぞくと「精力金剛麺」と書かれていた。
麺といえば蕎麦かうどんだが、どちらとも違う強烈な薫りが漂っていた。獣臭さとともに様々な香辛料の香りが絡み合い本能に訴えかけるような匂いに胃袋が締め付けられる。
空きっ腹で酒を飲んだせいもあり、ちょうど小腹が空いたところだ。覚兵衛は列の最後尾に着いた。長蛇の列であったが、半刻もしないうちに席に着くことができた。驚くべきは客さばきであった。空席にも関わらず客を座らせないのに違和感があったが、その間に調理を開始して6人分の席が空くと一気に客を流し、着座した時には料理が出てくる。
1食、1食作るのではなく6食分を一気に作ることで調理時間を短縮していたのだ。
着座とともに出て来た金剛精力麺はたしかに精のつきそうな食材で彩られていた。細かく刻まれたニラ、ラッキョウ、にんにく、生姜、ネギが汁を覆い、円状に象られた食材が中央に飾られている。
紫(醤油)の漆黒に散りばめられた薬味、中央に配した円状の食材。
月夜が丼に映ったような明鏡止水の趣にしばし見惚れる。
紫の香ばしさと野趣あふれる獣の香りが相見え、食欲を刺激する。
覚兵衛は「戴きます」と手を合わせると抑えきれぬ食への衝動とともに箸を丼に突き立てた。うどんとは違うやや黄身がかった麺を頬張ると、口の中で麺が踊り弾ける食感に驚いた。
なんとも強いコシだ。これは蕎麦やうどんとは別物だ。
麺とともに汁のどっしりとした旨味が味蕾を刺激する。無作法に丼を抱え汁を飲むと、紫の塩味を濃厚な汁が包み込みまろやかな旨味が口いっぱいに広がる。野趣あふれる香りとは裏腹に味わったことのない高貴な味が胃袋からじんわりと体に染み渡ってゆく。食によって体が歓喜している不思議な感覚に襲われた。
またこの料理、汁だけでは重いが、麺だけでも物足りない。麺と汁が渾然となっている。そして明鏡止水の月となる食材。一口噛むと汁を凝縮したような旨味が広がる。
「親父、この食材はなんだ?」覚兵衛がおもむろに尋ねると
「へえ、こちらは猪の肉を紫と味醂に漬け込んだものでヤンス。お口に合いませんでしたか?」
「いや、これほどのもの食べた事はない」
若きに仏門に習ったため、肉というものを食べたことがなかったが、なるほどこれほどの美味さでは虜になってしまうのも頷ける。殺生の虜になってしまう業を禁ずるわけだ。
噛みしめるほどにじわりと染み出す肉汁と、紫の香ばしさ、味醂の甘みが渾然となりずっと咀嚼していたいほどだ。
この肉の旨味が口の中にあるうちに麺を頬張るとまた美味い。
覚兵衛は瞬く間に平らげた。
「馳走であった。親父、勘定は?」
「へえ、懐五分となりやす」
「懐五分とな?某がいくらもっているかわからないのに良いのか?」
「旦那様のお心で五分に足ると思ったらそのお代を頂ければ」
「親父そんなので商いになるのか?」
「幸いこの界隈、粋な旦那様が多いので十分にやっていけます。手前懐の寂しい方にこそ食べさせてやりたいので。粋な旦那様で浮いた分が糧となっているですよ」
「大した心意気だ。富める者が貧する者の糧となる。国もこうありたいものだな」
「美味かった。取っておけ」
覚兵衛は袂の銭を掴み銭カゴに入れた。
「こんなに!ありがとうございます」
覚兵衛は心地よい秋風とともに家路へと向かった。介三郎が遊びに学べと語っていた事がわかった気がする。街には様々な才が溢れている。
秋の実り麗しく駒込別邸には柿、栗、アケビが実を成し、黄金の稲穂がこうべを垂れていた。乾いた陽気の秋晴れという事もあり虫干しには恰好の日和であった。介三郎の号令のもと庭に敷かれた茣蓙に無数の書簡が広げられた。
これらは後年二百数十年の歳月を費やし明治に完成をみる大日本史の草稿とその史料である。
書籍から香るカビ臭さも史官員たちにとっては心地よく、秋日和の日差しをより穏やかなものにさせた。
介三郎は邸内を巡りアケビをもぎると覚兵衛に差し出した。
覚兵衛はアケビを破り、丹念に薄皮を剥き、アケビの皮を皿代わりに介三郎に分け与えた。
「お前はアケビを剥くのが本当に上手いな。この手さばきを知れば女子もたちまち虜になるぞ」アケビを頬張りながら介三郎が稲穂広がる田園を眺める。
「また女の話ですか介三郎様」
「女子はいいぞ。女子の体には我らとは違う歴史が詰まっておる。この書のようにな」
ずらりと並べられた書籍は百三を数えた。全国津々浦々。介三郎、覚兵衛が各所を廻り集めた史料を元に編纂したのがこの新撰紀伝である。
「書を女に例えるなどはしたない。しかし最後の草稿も終え後は清書するのみ。この事業もようやく完成が見えましたな。」
「完成が見えたというのに朱舜水先生が亡くなってしまうとは。黄門様もさぞ無念であろう」
「朱舜水先生の口添えがなければ紀伝としての史書など編纂できなかったでしょう」
「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめ、将に以て世教に裨益し綱常を維持せんとす」
「史書をただの過去の出来事とせず、善悪の教本とたらしめんとした黄門様の意向を最もご理解していたのが朱舜水先生ですからね。」
「この書は日の本の学問を大きく変えるぞ。仏法すら学びへと変わる。そんな時代がやってくるだろう。」
「仏法から学ぶ事はないという事ですか?」
「そんな事はない仏法の教えは素晴らしいものだ。ただし法の縛りがなければな」
「法による縛りが、法を守らぬものとの隔絶を生む。無欲に縛られた妬みが憎しみとなり対立となり、争いとなる。実際同じ仏門でありながら真言だ、日蓮だと争っているではないか」
「学びであれば容易にその垣根を超えられる。それが学問の素晴らしいところだ」
「一度仏門の戸を叩いた介三郎様の言葉は説得力がありますな」
「そうだ。学問は素晴らしいものだ。学びの心さえあれば女子からも学べるものだ」
「最後はやっぱり女子ですか。とんだ助べえさんですな」
「総裁をつかまえて助べえとは口が過ぎるぞ覚兵衛!」
声を荒げたものの、真面目な覚兵衛のひょうけた物言いに吹き出してしまった。
「高笑いが聞こえると思えば介三郎か」
「黄門様。今日はお身体の具合はよろしいのですか?」
「うむ、大事ない。色々と気苦労かけたな。今日は日和も良いので出てみたが、虫干しをしておるのか?」
「はい。陽気が良いもので史書をすべて虫干しにしております」
「こうしてみると壮観だな。大義であったな介三郎」
「ありがとうございます。」
「おぬしたちに馳走を用意してあるついて参れ。」
「はは」
「ちょうど茣蓙も引いてあるのでこちらで食べるか」
そういうと光圀は茣蓙にテーブルを置き、丼を並べた。
「これは、黄門うどんでございますな」介三郎がいうと
「これは朱舜水師から教え賜ったものだ。清国では老麺というものらしい。しかし清国の食材は中々手に入らないので我流ではあるがな」
「黄門様、某先日これと似たものを吉原で食べました。」
「まことか!」
「はい。金剛精力麺と申しまして、名に違わず体の奥から精が湧き出るような味でした。また見目も素晴らしく、さながら明鏡止水の如き美しさでした」
「ううむ。実に気になる」
「その店主料理の腕もさることながら、中々面白い考えの持ち主でお代は懐五分という勘定で商いをやっております」
「懐五分とな?その心は?」
覚兵衛は家にこもりっきりの光圀を外に出す良い機会だと考え答えた
「黄門様。百聞は一見にしかずでございます」
「なるほど。そちの企み乗ってやろう。」
光圀は生来のいたずら心に火がついたように不敵な笑みを浮かべ
「覚兵衛。蔵から千両箱を支度せい」
「ご冗談はおやめください!」
「そなたが焚きつけたのであろう。千両の五分であれば50両か。値する味であればよいがな」
「覚兵衛、諦めろ。黄門様が言い出したら聞かぬのはわかっておろう。」
日本橋で船頭を捕まえ隅田川を降ること半刻、川縁は銀杏が立ち並び水面をイチョウの葉が黄金に彩っていた。どぶ板通りから岸辺に上がった。
千両箱をそのまま持ち出しては目立ちすぎるので、藁床に包み荷車で使用人に運ばせた。夕刻雪洞に火が灯され、空には明星の満月が浮かんでいた。
金剛精力麺の屋台には先刻と同じく長蛇の列を成していた。
光圀は紫の脚絆に辛子色の羽織、同色の茶人帽を被りさながら隠居した商人のようないでたちで町人たちに紛れた。
「この姿をするのも久しいの」
「史料を探す旅にご老公が同伴すると言い出した時には肝を冷やしましたよ」
「これも弥七がいてくれたからできた事。あやつの影武者ぶりは見事なものだった」
「おかげでご老公の姿が板につきすぎてしまって弥七には頭が上がらなくなってしまいましたよ」
「かっかっか」
「しかし見事なものだ。長蛇の列であったがあっという間に半分ほどまで来てしまったぞ」
「客さばきの見事さにも驚かされましたご覧ください。客の食べ終わる頃合いを見て作り始め、6席空いたら客を入れ席についたと同時に出しているんです」
「なるほど、あの店主中々の智慧者だな。人の機微をよくわかっておる。」
「料理人にしておくには惜しい才じゃ」
「それは食してから評しくださいませ。料理人でない事が惜しいと感じるやもしれません」
「言うではないか。50両に値する料理を出すと言うことか覚兵衛。もし値せねばおぬしの俸禄から差っ引くぞ」
「余計なことを言うからこうなるんだ覚兵衛。いつからお主はそんな阿呆になったのだ。」
「懐五分の知恵は国を統べるものの知恵。五十両の価値はあると信じまする」
「かっかっか。覚兵衛にそこまで言わせるとは実に楽しみじゃ。」
列は話している間にどんどんすすみほどなくして黄門一行は席に着いた。
着座してすぐに出て来た器を見て光圀は感嘆を漏らした。
「ほお、漆黒に浮かぶ五辛がまるで星屑のようじゃ。これは円状に象った猪肉か。今宵空に浮かぶ満月のように美しい」
「猪肉と見抜かれましたか。さすがご老公」
「伊達に食い道楽を嗜んでおらんわ」
麺を箸ですくい上げると、やや黄身がかった麺は猪肉の脂で照り輝いている。
うどんは喉越しを楽しむものと、光圀はずぞぞと音を立て麺を噛まずに流し込んだ。
強烈なコシが喉元で弾け、さながら生きたドジョウを食らうが如き喉越し。
歯を立て噛みしめるとプツンと切れる小気味良い歯ごたえ。うどんや蕎麦では味わったことのない食感であった。
これはうどんとは違うと悟った光圀は、麺を飲み込まず咀嚼して味わってみた。
噛みしめるほどに小麦の甘味が口に広がり、麺に絡んだニラ、ニンニク、らっきょう、ネギ、生姜、山椒の五辛が五味を刺激する。またこの獣肉でとった出し汁の濃厚な旨味が五辛の刺激をまろやかに包み込み渾然一体とした味にまとめあげる。
獣臭さを感じる汁も紫の香ばしさ、五辛の強い香味で原始の肉食であった本能を呼び覚ますかのように欲を掻き立てる。抗うことのできない衝動。まさに欲の発現が生気を漲らせる。
「美味い。美味いぞ!」
五辛の薬効か体が火照るように熱く額から汗が滴るが、ぬぐいもせず食べ続け、汁一滴逃さんとばかりに丼を抱え汁を飲み干した。
介三郎と覚兵衛は光圀の食べっぷりに唖然としていたが、光圀が飢えた獣のごとく眼で器を見つめているので、盗られてはかなわんとばかりに急ぎ食べ干した。
食べ終えた介三郎らを見て落胆した表情を見せた光圀であったが、舌に残る味を確かめるように一息つき恍惚と目を閉じた。
「これは朱舜水師の味だ」そう漏らすと
「親父殿。この味はどこで習った?」光圀はおもむろに訪ねた。
「へえ。こいつはうちの父に習ったもんでやんす」
「これは日本の味ではあるまい親父殿の出身は清国か」
「旦那よくご存知で。明王朝の頃の動乱から逃れ逃れ日本にやってきたんでやんす」
「明からやって来たものの頼る当てもなく方々風来の身でございましたが、とある集落で親父が料理を振舞いましたところ気に入られまして、やっと身を固めることができた次第でやす。」
「とある集落とは?」
「へえ餌取の集落でございます」
「餌取とな?」
餌取とは、穢多として士農工商から外れた差別階級としてしられるが、仏法により四肢のある生き物の殺生を禁じていた事により、革細工・骨細工を生業とする職業が忌み嫌われる事から生まれたもので、現代に置き換えるとドカタ・水商売といった特定の職業に対する蔑称に近いものであった。
「餌取では皮細工の為に殺生しますが、肉を食らうという習慣はなかったようで。」
「親父は命を繫ぐための殺生は尊ぶものとして、肉や骨も無駄にしないのが供養になるというのが料理人としての信条でした」
「幸い江戸には同胞の儒学の先生方が多くいらしたので、その方々の料理人を生業にしてきたのですが、餌取の方々の恩にも報いることができればと始めたのがこの屋台です。同胞の儒学者の先生の口利きでこの場所で商いを始めることができました。」
「懐五分という勘定はそなたが考えたものか?」
「へえ。江戸という街は大変豊かではありますが、その中でも溢れる者もおります。食えない辛さを味わってきた身としては、食えない人にこそ食べてもらいたいという気持ちでした。しかし無い袖振れないのは常なので、無い頭ひねって閃いたのが、ある人から多くもらえば良いという事で勘定を割でいただくという方法でした」
「幸いこの街には粋な旦那様が多く、怒ったお客さんでも事情を話すと、こちらの旦那様のように
気前よく払ってくれる方もいるのでこんなすちゃらかな商いでもなんとか営んでられます」
「大した男だ。気に入った」
光圀は使用人たちを呼びつけ、ムシロを剥がし露わになった千両箱から五十両取り出し
「千両箱の懐五分五十両じゃ取っておけ」
「いいえ。旦那様これはいただけませぬ。ご勘弁ください」
「遠慮することはない取っておけ」
「手前が頂くのは懐五分。懐にないゼニはいただけません。」
お後がよろしいようで。