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狐憑き

作者: 安岡 真澄

 妻がおかしくなった。

 結婚して五年。家事が得意で料理も美味しい、自慢の妻だ。子供はまだいないが、2人で楽しくやってきた。大きな喧嘩もない。一昨日の妻の誕生日に、欲しがっていた三日月の高級ダイヤのイヤリング(10万円)、によく似たシルバーのイヤリング(1万5000円)をプレゼントしてかなり拗ねられてしまったが、それにしたってこの荒れようはないだろう。

 それは土曜の朝、布団の中で惰眠を貪っていた僕の右肩にいきなり噛みつくことから、妻の奇行は始まった。びっくりして飛び起きると、今度は後ろに回って左肩に噛みつき、僕が痛みに悲鳴を上げると、すかさず喉をガブリとやられた。血だらけになりながら何とか振りほどいて離れると、妻が四つん這いになって、ううう、と唸りながら僕を睨みつけていた。仕事から解放された、土曜の朝。勘弁してくれ。

 元々悪戯好きな妻だが、怪我をするほどのことはしなかったし、ここまでしつこくはなかった。家の中を四つん這いのままうろうろし、顔を起用に後ろ足でぼりぼりと掻く。イヤリングの件で拗ねているのかと尋ねれば、顔を横一直線に引っかかれた。ずっとこの調子で、何より妻は12時に仕事で大事な用があったはずだが、一向に出かける気配がない。仕方なく妻のケータイから、同僚で友達の乃本さんという人に、妻の体調が優れず病院で寝ていると伝えた。電話を終えてケータイを置くと、冷蔵庫の下にパックの油揚げが食い散らかされているのを見つけ、ようやくピンときた。ああ、狐憑き、だ。

 狐憑きという設定、ではなくて、もしかすると本物の狐憑きかもしれない。結婚の挨拶に行ったとき、妻のお義父さんから「うちは狐憑きの家計だから」と言われた。何でも、代々狐に憑かれたようにおかしくなる人がちらほらいるらしいという話で、そんな脅しに屈するもんかと、彼女を僕に下さいとベタに頭を下げた。そして結婚し、三年前にこの家に引っ越して来た時に「もし私が狐に憑かれたらここに電話して」と妻に渡された紙も、お得意のジョークだろうと机に引き出しに適当に放り込んでしまったのだ。

 僕は急いでその机の引き出しをひっくり返し、くしゃくしゃになった「狐憑き 〇〇〇―××××―△△△△」と電話番号の書かれたメモ用紙を発見すると、ケータイと共にトイレに立てこもった。トイレのドアの表側を、妻がガリガリ引っ掻く音が響く。土曜の真昼間のホラー。勘弁してくれ。

 メモに書かれた番号をプッシュすると、「はい、レンタル狐憑きです」と女の声がした。レンタル狐憑き? 鼻をつまんだような間の抜けた声に、こっちの気が抜けそうになる。こっちは狐をレンタルしたいのではなく、むしろ返却、いや回収に来て欲しいのに。頭が混乱するが、何を察知したのか、ドアの外で妻が一層激しくガリガリしはじめたので、急いで「妻が狐憑きになったみたいなのですが」と言う。我ながら馬鹿らしい一言だったが、向こうは馴れた様子で

「ああはいはい、では奥さんのお名前をお願いします。あ、一応旧姓で」

 と返した。妻の旧姓は、栢野である。

「ああはいはい、栢野さまのご家族様ですね。いつもお世話になっております」

 いつも?

「要件はわかりました。では1、2時間後に遣いの者を宅急便でよこしますので、少々お待ちください。それでは」

 遣いの者とは何なのか、そして宅急便とはどういうことなのか。分からないことだらけだったが、尋ねる間もなく一方的に切られてしまった。

 一応、妻の実家にも電話すると、お義父さんが出た。一通りいきさつを話すと「ああ、聞いてるよ。君も大変なのと結婚したちゃったなあ」と笑いながら言われた。レンタル狐憑き、とやらからもう連絡が行ってたのだろうか。僕は見栄を張って、こんなの全然大したことありませんよ、と電話を切った。実際は、噛みつかれた右肩の血が中々止まらなかったが、どうにか対処の糸口が見えて内心ほっとしていた。

 そうっとトイレのドアを開けると、妻がベランダで、四肢を畳んで昼寝をしているのが見える。僕は抜き足差し足で、寝室の救急箱を取りに行った。


                    *


 きっかり電話から一時間後に、玄関でチャイムが鳴った。

 妻が起きないかとびくびくしながらドアを開けるが、人の姿は無い。代わりに、足元に30センチ四方の白い箱が落ちていた。ずいぶん愛想のない宅急便だ。拾って箱を開けると、箱いっぱいのサイズの、狐のお面が入っていた。祭事に使われるような、目の吊り上がったいかにもな狐のお面だ。口や目の周りに、皺のような黒い線が踊っている。お面を取り出すと、その下に折りたたまれた紙に気付く。開くと、素っ気ないワープロの文字で「これをかぶせてください」とだけ書かれている。このお面が、遣いの者とやらなのだろうか。

 やはりわけが分からなかったが、とりあえずは指示に従ってみることにした。暴れる妻に面をかぶせる自信はなかったので、ヒットアンドアウェイでいくことにする。足音を立てないで妻に近づき、バッとお面を顔にかぶせると、転がるようにしてリビングの椅子の後ろに隠れた。これ以上顔を引っ掻かれれば、顔がメロンになってしまう。

 震えながら様子をうかがっていると、妻がむくりと起き上がり、お面に通してあった紐を顔にかけなおした。その動作に、動物らしさはない。そして、狐の面でゆっくりとこっちに振り向くと「もう大丈夫ですよ」と丁寧な口調で言った。


                   *


「はじめまして、わたくし木野と申します」

 僕は妻(木野さん?)と、リビングで向かい合って座っていた。とりあえずお茶かコーヒーを出そうか聞くと「わたくしは霊体なので飲めませんし、奥さんも喉は乾いておりません」と断られた。声は妻のものなのだが、口調は聞いたこともないもので気色が悪い。

 面と向かって、という言葉があるが、文字通りお面をかぶった相手と向かい合うと、視線を集中させることができないと気付く。お面の目の部分には丸い穴が開けられているが、その奥は暗くて見えない。妻は今、どんな表情をしているのだろうか。結局はお面全体をぼんやりと見ることになり、お面の表情が、そのまま木野さんの表情となる。目と共に吊り上がった口。いかにも人を化かしそうな表情で、木野さんは丁寧に喋る。

「では、ご混乱のようなのでわたくしの口から、正確には奥様の口をお借りしてになりますが、ご説明させていただきます。お察しの通り、奥様は狐に憑かれておいででした。そもそも狐憑きとは、低属な動物の霊が人にとり憑き、狂人のような振る舞いをさせる霊症でございます。狐に限らずあらゆる動物の霊が起こしますし、昔は精神疾患を狐憑きと判断したりもいたしましたが、今回は正真正銘、狐の霊による狐憑きでございます」

 狐の面のせいで、まるで犯人が自白しているような気になってしまう。その心が読まれたかのように、木野さんが続けた。

「この面を見れば分かるように、わたくしも狐の霊でございます。といっても、奥さんをおかしくした者とは異なります。これもご説明しましょう。奥様はご存知の通り、狐憑きにあわれやすい家系の者でした。憑かれやすい体質、血筋というものは確かにあり、その方々をお助けする組織の一つが、我々『レンタル狐憑き』なのです」

 電話で言われた名前だ。改めて聞くと、今でいうレンタル彼女、のような響きである。

「原理は簡単で、とり憑いた悪い狐を、良い狐にとり憑かせて追い出してやろうというものです。もうお分かりの通り、わたくしは良い狐の方でございます。狐憑き、というのは悪さをするのとは他に、巫女が自らに憑依させて、狐の霊的な力、千里眼や予知能力を借りるというものあります。そういった狐は、悪さをする低俗な狐よりも霊位や霊力がはるかに高いため、容易に追い出すことが可能なのです」

 なるほど、その良い狐をレンタルするから、「レンタル狐憑き」なのか。

「悪い狐は追い出しましたが、一度とり憑かれた人間は、その後もとり憑かれやすくなってしまい、再発の可能性がございます。脱臼や肉離れがクセになるのと同じですね」

 心霊現象と物理的な怪我では、分かりやすい例えのようで今一ピンとこない。

「再発を防ぐためには、狐が来ないよう部屋に結界を張っても良いですが、外出すると意味がありません。お守りを持たせても良いですが、お守りはお値段の方が、少々張ってしまいます」

 えっ、金取るの? あまりに想定の外で、言葉が思わず口に出てしまった。木野さんが頭を少し下げながら言う。

「申し訳ありませんが、我々はボランティア団体ではありません。金儲けのためにやっているわけでもありませんが、組織の運営を存続させるためには、ある程度のお金は必要なのです。もしこちらにお金が無いようでしたら、栢野家の方々に請求する形でも」

 いやいや、それはさすがにできない。妻を救うのは、夫の役目なのだ。夫の役目なのだが、一応値段を聞いてみることにした。

「お守りは、効果の強いものから気休めのものまでありますが、今回に適したものですと、安くても7桁は」

 いち、じゅう、ひゃくと指折りで数え、折り返しで薬指を折った時、椅子ごと後ろに倒れそうになった。さ、さすがに100万単位は。

「ですので、今回はお守りなど買わずとも、精神の充足で十分でございます。内側が満たされれば、狐が入り込む隙もなくなります。お二人で旅行に行かれるとか、美味しいものを食べるなどで構いません。奥様のご趣味などはご存知ですか」

 妻は温泉が好きで、新婚旅行も温泉がある所にしたが、最近は仕事にかまけて旅行などろくに行けていない。よし、たまには夫婦水入らずで旅行に出かけよう。何より、旅行は100万もかからない。

「それが良いでしょう。奥様がひどい鬱状態などにならなければ、もう狐憑きに合うことはありません。もし万が一、再びこのような症状が出た場合は、我が社にご連絡ください。24時間、即座に対応させていただきます」

 アフターケアも万全とは、実に頼もしい会社だ。機会があれば迷わず、僕が働いている会社との業務提携の懸け橋になろう。もっとも、機械部品の卸売りと「レンタル狐憑き」で協同するプロジェクトなど、さっぱり思いつかないが。

「それでは、一通りの説明も終わりましたし、私はこれでおいとまさせていただきます。ああそれと、申し訳ありませんが、紙とペンをお貸し願えますか」

 電話機の隣のメモ帳とシャーペンを渡そうとすると、木野さんはああ、と呟いて、僕を手で制した。

「今から口座番号を言うので、そこにお金を振り込んでください。額は10万円ほどで結構です。これは他の会社と比べてもかなり良心的な値段ですし、無償で助けたい気持ちは山々なのですが、先ほども申しました通り、わたくしどもは」

 もう分かった、それは十分に承知している。僕は適切なサービスには、適正な値段を払う人間なのだ。喉を嚙み千切られたり、顔がメロンにならずに済んだ代金と思えば、安いものだ。僕は口座番号を書き取り、できるだけ早めに振り込みますと言った。木野さんが頷く。

「この面は差し上げますので、部屋の飾りにでも使ってください。それでは、私はこれにて」

 木野さんがお面を顔から外すと、当然ながら妻の顔が現れた。しかし、なぜか妻の顔を久しぶりに見た気がして、おお、と思ってしまう。仮面を外したかと思うと、妻はバタンと音を立てて机に倒れ込んだ。僕が慌てて妻を起こすと、妻は寝息を立てて、すやすやと眠っていた。ほっとして力が抜けそうな体に鞭打って、僕は妻を抱え、なんとかソファーまで運んだ。


                    *


 僕は今、妻と共に箱根温泉に旅行に来ている。繁忙期で上司はいい顔をしなかったが、僕は思い切って有給休暇をフルに使ってやった。

 あの日、妻は2時間ほど寝た後で急に起きだし、何事も無かったかのように「お腹すいたわね」と言った。僕は妻を連れて、ちょっと高めのフランス料理屋に行き、事の顛末を妻に話した。妻はしきりに謝っていたが、僕は笑顔で、君のせいじゃないんだからと言ってやった。そしてその帰りに、虎の子のへそくり10万円を、妻に内緒で、指定された口座に振り込んだ。それから僕たちは、結婚当初を思い出したかのような、ラブラブな夫婦生活を送っている。

 駅から出ると、妻が満面の笑みで「箱根だぁ」と呟いた。それを可愛らしく感じて、妻の横顔をしばらく見つめる。すると、妻の髪が風になびき、妻の耳に揺れるイヤリングが見えた。それはダイヤの、三日月のイヤリングだった。

 笑う妻の口が吊り上がり、部屋に飾ってあるお面の、狐の口のように見えた。

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