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短編

。よだきすいだ

作者: 如月あい

「おい、何やってるんだ?」

 慌てた、いらだった声が聞こえて、私はぶっきらぼうに返した。

「何? ただ……写真を撮ってる」


 私はカメラを空に向けていた。ただ、窓から身を乗り出して撮っているので、ちょっと危ないやつに見えたかもしれない。

 とはいっても、それをこいつに注意される筋合いはない。


「学年トップのカイト君は、細かいことが気になるのね。でも放っておいてくれないかな?」

「……どんだけ負けず嫌いなんだよ」


 目の前にいる男、カイトは私の天敵と言っていい。私は今までいちどもこの男に勝ったことがない。この上級学校に入学してから、一度も。勉強だけならいざしらず、音楽も体育も、美術もダメ。唯一勝ったのは写真のコンテストぐらい。

 カイトに勝てる唯一の手段として、写真が好きだった。

 たしかに私は天性の負けず嫌いだった。カイトがいなければ、たぶん、私は、この学校でも確実に首席を狙えたのだから。

 だから、私は……。

「私が嫌いなのは、負けること以上に、あなたよ。カイト・シンフィールド」

「相変わらず痛烈だな、アリス・エバーソン」


 ただ一つ、わからないことがある。


「でも私……」

「ん?」

「なんでそんなに首席をとりたかったんだろう?」

「……」



 私は何かを忘れている。でも自分ではその自覚すらない。


 上級学校の四年生から六年生の間の三年間の記憶がない。私の知らない間に、唯一の家族だったらしい母は飲酒運転のトラックに突っ込まれて亡くなっていた。厳密にいえば私も同じ車にはねられて、だからこそ、記憶を失ってしまったようなのだが。ただ母を亡くした悲しみというものは特になかった。ないというよりは、不思議なほど、母についてほとんど覚えていなかった。顔すらも、思い出せない。

 どうして母についてなにも思い出せないのか。不思議だったけれど、思い出したいという気持ちはなかった。母との思い出が一つもないので、とくに懐かしいと思うこともないということなのだろう。そう自分では納得している。

 そうやって天涯孤独になった私は、気が付いたら、学校が用意していくれた寮で暮らすことが決まっていた。そして、私は交通事故の補償金として加害者からかなりの額を受け取っていて、学生の間は全く働かなくても生きていけそうなくらいの金額が知らぬ間に口座に振り込まれていた。そういった手続きは、母の姉に当たる人が弁護士で、かなり面倒を見てくれたようだ。今は彼女が私の後見人かつ保護者だという。厳格な彼女のことは覚えていたが、やはり母のことは覚えていなかった。そんな私を見て、彼女はいつもの厳しさをかなぐり捨てて泣いていた。

 そして私はそれをただ人ごとのように眺めていた。





 そもそも、私の七年生としての最初の記憶は、唐突に始まる。

 気が付くと病院で、そして、心配そうに私をみつめる友人たちの姿が目に入った。みんなが私を見て、そして私はみんなを見た。

 仲の良かったクレア、メアリーそして、クラスメイトのラルフにサイラス……そしてなぜか、私と敬遠の仲だったはずのカイトだった。

「アリス! 気が付いたのね……大丈夫?」

「痛いところはないか?」

「よかった! ほんとよかった!」

「起きないんじゃないかと心配したぜ」

 四人が口々に私を心配する言葉を投げかけたが、カイトは安堵と恐怖をないまぜにしたような、意味の分からない顔をして黙っていた。私は首を小さく傾げると、ゆっくりと口を開く。


「なんであなたがここにいるの? カイト・シンフィールド。私に三連勝(・・・)したあなたの顔なんて、私は一番見たくないんだけど」


 私の言葉に、その場にいた全員が急に凍り付いた。私は何かおかしなことを言ったかと思って眉をひそめた。

 上級学校では、毎年学期末、つまり六月の末に一年で一番優秀だった生徒を首席、二番目の次席を発表し、表彰する。私は一から三年生までずっと次席だった。カイト・シンフィールドの存在のせいで。

 だから私はカイトが嫌いだったのだ。特に、成績発表に行われる六月末は。

「ちょっとまって。カイトの顔を見たくないって、三連勝って……何の話をしてるの?」

 クレアが驚いたように問いかけてくるので、私は戸惑いながら答えた。

「だって三年生までずっと首席じゃない。四年生は、負けないんだからね!」

 私は人差し指でカイトを指してそう宣言すると、カイトは青ざめて、そして震える声で聞いてきた。

「覚えて……ないのか? 四年生は、お前が首席だった(・・・・・)

「だった?」

 まったく意味が分からない。それにどうして未来の話を過去形でするのか。それに、自分で言うのもなんだけど、私がカイトに勝てるなんてそんな事態は天と地がひっくり返ったって無理な話だ。

「五年生と六年生は、俺が首席。お前は次席」

「はあ? ふざけてるの? それじゃまるで……今、私たちは七年生みたいじゃない」

「みたいじゃなくて、そうなんだよ! 今は七年生になる前の夏休みだ!」

 ラルフが途中で口をはさんできた。彼の顔は真剣そのものだ。そしてクレアもメアリーもサイラスも、いたって真面目な顔をしている。

 それに言われてみれば、みんな私が思っているより背が伸びているし、なんだかあか抜けている。

 私がそうやって混乱していたところで、お医者さんがやってきた。五人が口々に事情を話すと、私はお医者さんに記憶が飛んでしまったのだと告げられた。 

 母のこともこの時に聞かされたのだが、私は「そうですか……」しか言えず、それがなぜか、ほかの五人の表情を痛ましいものにさせた。


 それが、今年の八月の出来事。




 そして今は、上級学校七年生の十一月。学校が始まってもう二か月がたつ。三年の記憶がなくても、七年間も同じ学校に通っている友達の顔も名前もかなり覚えているし、私は三年前とあまり変わらない交友関係を築いていたから、特に困ることはなかった。

 周囲の子も私の記憶がすっぱり抜けていることは承知しているが、三年の間に初めましてと言った子以外は、きっちりと覚えているので、あまり抵抗もなくなじむことができた。

 そして面白いことに、勉強内容はきっちりと覚えているので、七年生の授業についていけないなんてこともなかった。



「おはよう、アリス」

 クレアはにっこりと笑ってそう言った。

「おっはよー!」

 メアリーは元気よくそう言った。

「今日のこの時間は、二人とは授業かぶってないよね?」

「うん。私は歴史学で、メアリーは体育かな」

「体育とか元気だね。必修を取り切ったから、もういらないや」

 私がそういって肩をすくめると、メアリーは首をぶんぶんと横に振って言った。

「だって体育が一番、単位がとりやすいもん!」

「それはそうかもね」

「あ、クレア、私のこと馬鹿にしたでしょー!」


 記憶を失っても、私はこの二人と仲が良かったし、三人の関係性はまったく変わっていなかった。

 ただ、三年間で、多少の変化はあったようだった。


「おはよう」

 サイラスがやってきて、私たちにそう言った。

「おはよう」

 まずクレアが返し、私もそれに続いた。

「あ、おはよー!」

 メアリーが元気よくそういうと、後ろからやってきたラルフがわざとらしく耳をふさぎながら言った。

「てめえ、声がでかすぎだよ」

「うっさいな!」 

「まあまあ、二人とも」

 クレアがそういうと、メアリーはにっと笑って言った。

「じゃ、またね。二人はごゆっくり! ほら、ラルフ、行くよ!」

「へえーてめえがそんな気を使える女だとは! 成長したねえ!」

「つべこべ言わずにさっさと歩け!」

 ラルフとメアリーは喧嘩しながらも、仲がよさそうに歩いていく。いつの間にかあの二人は、とても仲が良くなっていたし、クレアとサイラスに至っては、付き合っているのだった。


「じゃあ、私はこれで」


 私も気を遣おうと手を振ると、クレアが少し照れたように笑いながら言った。

「お昼は一緒に食べようね」

「うん。じゃあ、食堂で」


 私はさっと歩き出し、ある程度遠ざかってから二人の方を振り返った。クレアとサイラスは楽し気にならんで何かを話している。

 私の記憶によれば、三年生の時はまだ、二人は両片思いだった。それも、お互いにお互いの好意に気づいていないというじれったいシチュエーション。私はにやにやしながら、メアリーと二人でクレアの恋を見守っていたのだ。

「三年って……こうも人を変えるのね」

「あたりまえだろ」

「げ」

 私は独り言のつもりだったのに、いつの間にかカイトが隣に立っていた。

 私とカイトの関係性は決してこんなものじゃない。

 私が覚えている限りでは、私とカイトは口も利かなかった。というより、私が一方的にカイトにライバル心を燃やしていて、カイトはそれを軽くあしらっていたのだ。

「ほら、遅刻するぞ」

 そういってカイトは当然のように私の手を取った。それがあまりにも自然だったので、私は一瞬、無抵抗に歩き出してしまった。しかし、はっと我に返ってその手を振り切った。

「放して! そもそもなんで、カイト君と授業の趣味がかぶるんだろう。ほんと、最悪」

 私はカイトの表情も見ずにそう言い放つと、さっさと歩き始めた。私とカイトは驚くほど授業での遭遇率が高い。

 どうやら似た分野に興味があるらしく、計らずして同じ授業を取ってしまうことが昔からよくあった。私にとっての空白の三年間がどうだったかは知らないけれど、きっと今のように文句を言っていたのだろう。

 私たちは二人で並んで一緒に教室に入った。この授業は三学年合同授業なので、見知らぬ顔もちらほらといる。

 私は前から五列目の開いている三人席の端を選んで座った。そして近くにいた同級生に挨拶をする。

 この二か月で学んだのだけれど、なぜかいまの同級生たちは、私とカイトが一緒に教室に入ってきても何も言わない。私が覚えているとき、たとえば三年生の時にそんなことがあれば、みんなが面白がってこちらを見て、いっせいに事情を尋ねてきたというのに。

 三人席の、自分の隣に荷物を置こうとしたら、カイトがすでにそこに座っていた。

「ちょっと、一つ開けて座りなさいよ。私、カバンを置きたいの」

 そういうと、カイトは私のカバンを取り上げて、彼の左隣の空いている席に、自分のカバンとともにそれを置いた。

「これで文句ないだろう?」

「……三年間で頭がおかしくなったの?」

 私はこのやりとりを、七年生が始まってからずっと繰り返している。

 昔ならまず、私たちは同じ三人席に座ることもなかったし、もしそこしか開いていなくて隣り合うことがあっても、よほど詰めなければ入れないような授業でもない限り、二人の真ん中の席は開けて、お互いの荷物を置くのが暗黙の了解だったはずだ。

「そうかもな」

「うまくいけば主席を狙えるかも」

「ばーか」

 ここまでが、最近のお決まりの流れだった。

 しかし突然、私はふと、どうして私が首席を取りたかったか思い出した。

「……奨学金だ」

「え?」

「そうよ。首席と次席だと、奨学金の額が違うの。次席なら全額免除。首席なら、さらに補助がでる。私はそれで――」

「――始まるぞ」

 カイトの声で、私は思い出しかけていた何かを忘れてしまった。

「もう! せっかく思い出しかけてたのに……」

「思い出さなくていい」

「は?」

「思い出すなよ」

 気づいたら、カイトが私の肩をつかんで、真剣なまなざしで私を見つめていた。もしこの男がライバルでなければ、私は彼に惚れたかもしれない。私は近距離で見つめられてドキドキしていたし、彼はかなりのイケメンである。

 しかしやっぱ気に食わない男なので、私はその手を振りはらって、ノートを開いた。そして筆箱をさぐりボールペンを取り出す。

「はあ……私、やっぱりおかしい」

 どうして私がカイト・シンフィールドにときめいているのだろう。まったく摩訶不思議なことが世の中にはあるものである。彼は私が首席になる可能性をつぶしてくれた、天才。

 そう。彼は天才なのだ。

 何をやらせても彼はそつなくこなす。彼にできないことなんてないに違いない。だから私はカイト・シンフィールドが嫌い。なはずだった。

「具合でも悪いのか?」

 そして私の中の記憶のカイトは、こんな風に私を気遣ったりしない。でも気遣われたら気遣われたで、うれしいような、負けたようなそんな複雑な気持ちが入り混じる。

「いや、あなたにときめきを感じるなんて私――」

 私はそこまで言ってしまってから、自分が何を言ったかに気づいて、はっと息をのんだ。するとカイトもまた息をのみ、そしてなぜかぱっと口を手で覆ってそっぽを向いた。

「ち、違うわ。そういうことじゃなくて……その……」

 私は困って言い訳しようとしたが、まったくうまく言葉が出てこない。

 するとカイトは思い切り舌打ちをすると、ぐしゃぐしゃと私の髪をかき乱すように頭をなでた。

「勘弁して」

 私はカイトがどんな顔をしているのか見えなかった。しかし、きっと彼は面倒だという顔をしているに違いない。

 彼が首席を取ったときに、私がいらだってかみつくと、いつも面倒くさそうにあしらっていたのだから。


「何よ。悪かったわね。私なんかにときめかれてもうれしくないって言うんでしょう」

 小さな声で文句を言って、カイトの足を踏んでやると、彼は小さくうめいて私の頭から手を放した。私は乱れた髪を直し、左手で頬杖をついてカイトの顔を見ないようにした。

「やっぱり嫌な奴……」

 私はそうぽつりとつぶやくと、授業が始まるまでの間、教科書を眺めていた。







 昼休み。

 私は食堂で、クレア、サイラス、メアリー、そしてラルフと合流した。なぜかカイトも一緒である。

 しかしどうやら、私の知らない空白の三年間で、カイトは私たち五人と仲良くなっていたようだ。当たり前のように私以外の四人はカイトの存在を受け入れている。

 私からすれば、そもそもラルフとサイラスもそんなに仲が良かったわけでもなかったのだけれど、この二人はいいやつなので別に構わない。それになにより、自分の親友二人が好いている人だからいいのだ。


「何それ、今日のランチセット?」


 先に食事をとりに行った女子三人に、待っていてくれた男たちが声をかける。問いかけたサイラスに答えたのは、クレアだ。

「そうそう。チキンのバジルソースとジャガイモと人参。あとバケットとコーンスープ付き」

「へえ。おいしそう。僕もそれにしようかな」

 サイラスがそういい、ラルフは私のトレーを見て声を上げた。

「クレアとメアリーは一緒で……お、アリスは違うやつなんだな。それ、ペンネか」

「そうそう。チキンはやっぱり家でお母さんが作ってくれるのが一番おいしいから」

 私は何も考えずにそう言った。口から勝手について出てきたが、実際にお母さんが作ったチキンというものはいまいち思い出せない。

「……そうだったのかな? 私、あんまり覚えてないんだよね」

 あいまいに笑いながらそういうと、五人はみんな心配そうにこちらを見つめていた。なかでもカイトはすごく不機嫌な顔をしてラルフをにらみつけると、むすっとした声で言った。

「……取りに行くぞ」

「わりぃ……」

 ラルフは気まずげに謝ると、ずんずんと歩いて行ったカイトに慌ててついて行った。サイラスもまた、気づかわしげに私を見たあと、歩いていく。

「なんであいつ、あんな不機嫌になったの? 意味わかんない」

 私は自分のトレーを机に置いて座ると、向かい側に座ったクレアが斜め上に視線をやりながら言った。

「ラ・カ・ダ・キ・ス・イ・ダ……かな」

「……え? 何言ったの?」

「ふふ。秘密。ね、メアリー?」

「そうだね。アリスが思い出さなきゃ、教えてあげないよーだ」

 二人は笑っているけれど、なぜかとても悲しそうだった。楽し気にふるまってくれているけれど、何か痛みを抱えているような。

「思い出したら、わかるの?」

 私がそうやって問いかけたら、二人は深くうなずいた。

「思い出してほしい?」

 その問いかけには、二人は一瞬返答に困ったようだった。それでも、メアリーがうなずいて言う。

「思い出さないとダメ。このまま逃げるなんて、やっぱり駄目だとおもう!」

「逃げ、る……」


 その言葉を聞いて、私は何故か、車のブレーキ音が聞こえた気がした。

 あの時は確か、逃げないといけないと思った。間に合わないと。でも、それは……。


「お待たせ」


 その声が私を現実に引き戻した。

 カイトだ。

「もう、あんたはいつも間が最悪」

「間?」

 カイトの声が険しいが、私は気にせずに言った。

「重要なことを思い出そうとしているときに限って、カイ(・・)が邪魔するんだから」

 私がそう言い切ると、ガタリと椅子の音が鳴った。何が起きたのかとそちらを見ると、どうやらラルフが椅子にぶつかったようだった。彼は痛そうに足をさすりながら、でも、私のほうをじっと見つめていた。

「ねえアリス……今さ……」

 サイラスは、机にトレーを置いた格好のままで何かを言おうとした。しかしカイトがそれをにらんで遮った。

「何? サイラス。私が何か言った?」

「聞かなくていい」

「カイは黙っててよ! ……ん? カイ?」

 カイトは怖い顔をしているが、クレアとメアリーは祈るようにこちらを見ているし、サイラスとラルフもなぜかコクコクとうなずいている。

 私は自分がどうしてカイト・シンフィールドを、カイなどという親し気な呼び方をしているかについて考えた。そしてさらに、なぜ、カイトは私が記憶を取り戻すのを阻止しようとするのか。

 しかし記憶というものは不思議なもので、考えれば考えるほど遠ざかってしまうものらしい。


「だめだ……思い出せない」


 いらいらしながらそう口にすると、カイト以外の全員ががっかりしたような表情になった。なるほど、どうやらカイト以外は私に思い出してほしいことがあるようだ。しかしカイトは思い出してほしくはない。

 それは一体何なのだろうか。私は三年間の間に何をしたのだろう。

 ペンネを口に放り込みながら、私は考えた。

 私が考えている間にも、たわいのない会話でメアリーとラルフが騒いでいる。いつもなら、私は会話に加わって、無邪気に笑っていた。それは、記憶を失ってからのこの二か月も同じだった。

 でも今日は、何かを思い出しそうになっている今日は、なぜだか、のんきに笑っている場合ではない気がして、もやもやとした。


「午後の授業は、六人全員で同じ授業だよね、アリス」

「え……? あ、うん。確か……そう、美術の時間よね。しかも立体芸術の。なんで去年の私は、絵画を取らなかったんだろう……」

 六年生と七年生の美術は二年連続でとる必要があり、六年と七年で同じ教授の授業を受ける必要があった。私は立体よりも平面の方が得意なので、三年生までは毎年必ず絵画を選択していたのだ。メアリーとクレアはもともと立体の美術を取っていたし、確かサイラスとラルフ、それにカイトもそうだ。

 でも私は、友達がいるからといって、あまり興味のない分野に挑戦するような人間ではないはずだった。三年間で心境の変化があったといえば、それまでだが、きっと何か理由があるはずだった。


 結局私はその日、もやもやを抱えたまま、一日をすごした。美術の授業を終えると、私は五人全員に別れを告げて、今日最後の授業である、社会学の授業に足を運んだ。

 この授業は少人数制で、教授とも仲が良い。この教授とは一年生の時からの長い付き合いなので、三年間の記憶が飛んでいても、気軽に話せる人だった。

 私はふとおもいついて、教室に荷物を置くと、教授の研究室に足を運んだ。まだ授業までに時間があるので、彼は絶対にそこにいるはずだった。研究室といっても、隣の部屋なのだが、私はトントンと扉をノックする。

 するとどうぞという声が聞こえて、私は中に入った。

「エバーソン君。どうしたんだい?」

 中に入ると、何やら分厚そうな文献を読み込む教授の姿があった。飲みかけのコーヒーが机の上においてある。

「あの……ちょっと聞きたいことがあって。私が三年間の記憶を失っていることはご存知ですよね?」

「ああ。知っているが……」

「私がどうして首席になりたかったか、ご存知ですか?」

 教授は、ぴくりと飛び跳ねたあと、ゆっくりと瞬きをして息を吐き出した。そして、立ち上がり、なぜか彼はうろうろと研究室内を歩き始めた。

「エバーソン君。僕は……個人的にはその質問に答えたいんだ。君のためになると思うからね。でもその……それは口止めされているんだよ」

「まさか……カイト・シンフィールドじゃありませんよね?」

 私がいらだったようにそういうと、教授はぎくりとした表情になった。わかりやすい。

「教授。構いません。おっしゃってください。そもそも何の権限があって、あいつは私が思い出そうとするのを妨害するんですか!」

 私が憤慨してそういうと、教授は大きく息を吐いた。少しの間歩き回って、考えているようだった。しかし彼は急に歩みを止めると、まっすぐに私を見た。


「いいでしょう……。エバーソン君は、四年生の時に、首席を取りました。その時、君は怒りました。なぜだかわかりますか?」

「え? そういえば確かにそんなことを言われました……」

 病院で、確かにカイトがそんなことを言っていた。

「私が首席をとれて怒ったとすれば、それはきっと、カイト・シンフィールドが手を抜いたからでしょうね」

「というと?」

「だって教授。私はあの人に絶対に勝てないんですよ。私は凡人。彼は天才。そして最悪なことに、カイト・シンフィールドは”努力する天才”ですから」

「君も十分に天才肌だと思いますよ。まあそれはいいとして……では、どうして彼が手を抜いたのか。それは、君がどうして首席になりたいか、彼が知ったからです」


 私の目の前にいるのは確かに教授だった。しかし私は、あるワンシーンを思い出していた。



『どうして、手を抜いたのよ!』

 激高した私は、カイトに手を挙げたのだ。カイトは殴られて、ひどく驚いた様子だった。そして憮然とした態度で、彼は言った。

『手を抜いてなんかない』

 でもそれは嘘だった。その時の私は知っていた。そして言ったのだ。

『同情してるんじゃないわよ! どうせ私の家が母子家庭で苦しいって聞いたんでしょう? けどね、手を抜いてまで勝たせてもらってまで、首席になりたいわけじゃない! 私をどこまで馬鹿にすれば気が済むの!』

『お前はむちゃくちゃだ。たとえ俺が手を抜いたにせよ、これでお前の一年は保証された。それの何が悪い?』

『真っ向から勝負して勝ったんじゃなかったら、意味がないの! お母さんになんていえばいい? 親切な男の子が、私の学費のために負けてくれたのよ。そう言えって言うの? ふざけないでよ! あんたは私の永遠のライバルなの! あんたにそんなに簡単に負けてもらったら困るのよ!』

『お前……馬鹿だな』

『なんですって!』

『でも……悪かった。俺が、悪かった……』




「あいつ……あの時、初めて……私に謝ったんだわ。そう、あの時から、私たちはライバルになった。友達になった……」

「思い出せましたか?」

 教授が静かにこちらを見ていた。私はうなずいて、でも首を横に振った。

「少しだけ。お母さんの負担になりたくないから、首席を目指していたのはわかりました。でも……私、やっぱりあんまりお母さんのことを覚えてないんです」

 どうしてなのか、お母さんとの思い出が一つも思い出せなかった。どうしても、思い出せない。

「……そうですか。そろそろ授業の時間ですね」

「あ、じゃあ行きましょう。ありがとうございました」

「いえ……記憶、戻るといいですね」

 教授は穏やかに微笑んでそう言った。最近、みんな同じ顔をする。

 教授も笑っているのに、どこか寂し気な表情をしていた。




 十一月も、終わりを迎えそうになっていた。私はボールペンのインクが切れたことに気づいて、外に買い物に行くことにした。

 今日は特に誰とも約束をしていないので、一人だ。

 よく考えてみると、意識を取り戻してから、一人で休日に出かけるのは初めてな気がする。私はコートを着て、マフラーを巻き、そして外に出た。

 十一月末の気温はやはり低い。手袋もした方がよかったかと考えて、でも戻るのが面倒で私はそのまま校外にでた。

 車の行きかう道路の隣の歩道を歩いて、目的の文房具店に向かう。私は道路の左側の歩道を歩いているので、すぐそばを通る車は私とは反対を向かって走っていく。バス停の近くを歩いていると、向かい側からバスがやってきて、やや急ブレーキ気味で止まった。

 大きな車が突然迫ってくるその感覚に、私は思わず胸を抑えた。ドクンドクンと心臓が大きな音を立てている気がした。

 バスは乗客を真ん中から吐き出すと、そのまま、私が向かう方向とは逆方向に去っていった。

「何……? この感覚」

 一人とりのこされた私は、胸を押さえて、その場で立ち尽くしていた。それでもどうにか歩き出そうとして、顔を上げる。

 すると大きなトラックが走ってきた。

 


『アリス! 危ない!』

 お母さんの声。

 迫るトラック。運転手は、ハンドルに突っ伏していた。

 私はお母さんに突き飛ばされた。私はそのおかげで、お母さんがはねられる様子を、コマ送りの漫画のようにゆっくりとした映像で、眺める羽目になった。

 トラックはお母さんをはね飛ばし、私の体もかすかに巻き込んだ。そして……私の記憶は途切れる。


 一つを思い出すと、私の中に洪水のように様々な記憶がよみがえる。



『あんたなんて大嫌いなんだから! あんたのせいで首席は取れないし』

『勝手にライバル扱いされて、いい迷惑だ』

 ああ、これは私がまだカイトを嫌いな時の記憶だ。四年生。

 


『アリス……。ほら、カイト君はきっと同情でそんなことをしたんじゃないと思うわ』

『同情よ。あわれみよ! 確かにお母さんに楽はさせてあげられるけど! でも! そんなのうれしくない!』

『……そうね。私もアリスと正々堂々と勝負してほしいと思うわ』

『そうでしょう!?』

『それと、別にアリスが次席を取らなくたっていいのよ。アリスの学費くらい、出してあげられるんだから!』

『何言ってるのよ! お父さんの遺言だかなんだか知らないけど、私を自分が出た私立の名門校に入れてほしいだなんて勝手を言われてさ。それで下手したら生活が破たんしかねない学費をお母さんが背負うなんて……そんなことさせられないわ』

『勉強が嫌になったら逃げていいのよ』

『あら、私、勉強は好きなのよ?』

 カイトに首席を譲られて、怒っていたとき。

 優しいお母さん。




『そこ、間違ってるぞ』

『げ。ちょっと黙っててよ』

『一緒にやる。教えてやるよ。それのが早いだろ』

『別に要らないわよ!』

『俺の勉強にもなるんだから、大人しく教わっとけばいいんだつーの』

 五年生。カイトの態度が丸くなって、優しくなり始めたころ。




『アリス。お前、無茶するなよ……』

『だってカイに勝ちたかったんだもん』

『俺は心臓が止まるかと思った』

『心配してくれなくてけっこうですー!』

『ばーか。俺は別にお前のこと、嫌いじゃないんだよ』

 いつだっただろう。たぶん五年生か、六年生。

 このころには、きっと私はカイのこと……。

 


『アリス。カイト君には勝てそう?』

『ちーっとも。でも写真だけは勝てるよ! あいつ撮るの下手だから』

『仲良くなったのね』

『違うもん! 別に! カイがいなければ、お母さんにもっと楽させてあげられるのになあ……』

『いいの。次席で学費免除ってだけで、お母さんは大助かりなんだから。アリスはもっと遊んでいいのよ』

 これは六年生の五月。

 結局この年も、カイに負けた。



『私……この夏休み中にカイに言うわ』

『え? 告白するの!』

『こら、メアリー、声が大きいって!』

『ふふ。アリスが告白するって言うなんて、なんだかうれしい』

 クレアが笑っている。

『でも普通には言わないわ。たぶん言えないから』

『じゃあなんて言うの?』

『よだきすいだ! ひっくり返って考えてみなさい! ってね』

『よだき……すいだ?』

 二人が意味が分からないって顔をしたので、私は紙にこう書いた。


 。よだきすいだ


『右から読んで』

 私が言うと、二人はきゃあっと声をあげて楽しそうに笑った。それは事故の前日のこと。





 あふれ出る記憶を全部抱きしめて、私は気が付くと、現実(いま)に戻ってきていた。

「お母さん……! カイ……」

 涙が止まらなかった。


 優しいお母さんの顔がくっきりと目に浮かぶ。

 私が忘れていたのは、お母さんとの大切な思い出。そしてカイや四人との思い出。

 お母さんのことを忘れていたからこそ、私は苦しくもなかった。


 思い出した今となっては、お母さんがこの世にいないことが、こんなにも悲しい。

 悲しくて、つらくて、私はあふれてくる涙をぬぐっても拭っても、止められなくて嗚咽を漏らした。おそらくカイは、私がこうなることを見越して、私に思い出させないようにしたのだ。


 付き合う寸前だった、二人の関係性までも闇に葬り去ってまで。


 

 私は走った。

 文房具を買いに行っている場合ではない。

 泣きながら走って、学校まで戻る。

 とりあえず寮の自室に戻ろう。私はそう思って走っていると、寮の前に五人の人影が見えた。そのうちの一人が私に気づき、ぎょっとしたように叫んだ。


「アリス! どうしたの!」


 クレアの声に、ほかの四人も一斉にこちらを見た。

 私はぼろぼろと泣いたまま、五人のうち、一人のもとに駆け寄った。

 彼は驚きと、一種の恐怖を見せていた。

 カイは本当に察しがいい。

 私はカイの胸倉を思い切りつかむと、ぐしゃぐしゃの顔のままカイをにらみつけて叫んだ。


「ふざけんじゃないわよ! なんで黙ってたのよ! お母さんのことを忘れたままで……あんたの、カイのことも忘れたままで、私が幸せだと思ったの!?」


 カイは、私をじっと見つめていた。しかしその腕は、私に回されることはない。記憶を失う前だったら、確実に慰めてくれたその腕は、だらりと下がったままだった。

 他の四人は、じっと息をひそめて成り行きを見守っていた。クレアは祈るように手を組み、メアリーはなぜか私につられてほとんど泣いていた。

 

「俺は……」

「俺は、何? 私のために教授に頭を下げたの? 教授だけじゃない、いったい何人に、私の記憶が戻らないようにしてくれって頼んだの!? 四年生の首席を譲ってくれた時と同じ! あんたの優しさは有難迷惑! わかりにくすぎ!」

 私は叫びすぎて、息が切れてしまっていた。ぜいぜいと息をしながら、それでも私はまだ足りないとばかりにつづけた。


「ねえ、カイ。あんたは……私がカイとの三年間を忘れてもよかったの? 大嫌いってあんたのことを言ってた時代の私で、よかったの?」

「……」


 しばらく、沈黙が続いた。

 私はカイの胸元をつかむのをやめて、一歩下がろうとした。


「馬鹿……」


 すると、私はぎゅっと、痛いぐらいに抱きしめられていた。背中と頭に手を回されて、顔をカイの鎖骨あたりに押し付けられる。


「良いわけねえだろ。でも……怖かった。お母さんのことを思い出したら、お前が壊れるって思った……」


 カイはぎゅっともう一度強く抱きしめたあと、ゆっくりと私を離した。

 私は離れていく体温を寂しく思いながらも、一度カイと距離をとり、私たちを見守っている四人に目を向けた。


「クレア、サイラス、メアリー、ラルフ……。心配かけてごめん。私、思い出した。ちゃんと思い出したよ」


「もう……アリス……!」

 ぼろぼろと泣いているメアリーは、私以上に涙声でそう言った。

「お前が泣いてどうすんだよ。」

 隣のラルフはそうメアリーに突っ込んで、そして私を見た。

「病室でアリスがカイトの顔なんて見たくねえって言ったときは、どうしようかと思ったぜ」

「本当に。でも……記憶が戻ってよかったよ。カイトのためにも」

 サイラスはそういって微笑んだ。

 クレアは一歩前に出ると、彼女も瞳を潤ませていたが、にっと笑顔を作って言った。

「思い出したなら、カイトに言う言葉があるんじゃなかった? ね、メアリー?」

「そ、そうだよ!」

 話をふられたメアリーは、こくこくとうなずいた。


「いう言葉?」


 カイトがすっと私に視線を向けた。

 こんなみんなの前で言うのはちょっと恥ずかしかったけど、どうせこの男がすぐにわかるわけもない。そう思って私は言うことにした。


「よだきすいだ」


 私はびしっと指さして、そしてにっと唇の端をつりあげて言った。

「ひっくりかえって考えてみなさい!」  

 私はカイの困惑した顔が見れることを期待していた。しかし、彼は私の期待を裏切って私の腕をつかみ、私をぐっと引き寄せた。


「知ってるんだよ。ばーか」


 そして柔らかな何かが私の口に触れる。

 カッと私は全身が熱くなり、自分が真っ赤になっているのが自覚できた。

 慌ててクレアとメアリーの方を見ると、二人はごめんとばかりに手を合わせている。どうやらすでにこの話をカイは知っていたらしい。


「っ……! やっぱり嫌い!」


 恥ずかしくなって、私は思わずそう叫んだ。

 すると、カイはちょっとあきれたような顔をして、そして言う。

「はいはい。でも――」

 そこでいったん区切り、カイは言った。

「――よだきすいだ、はれお」 


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― 新着の感想 ―
[一言] とてもリアルで、笑うとは別の意味で面白い。
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