ある洋食屋の風景 メニューNo1 〈ミネストローネ〉
結婚して3年が経ち、自分の理想としていた結婚生活とは違う現実に少々嫌気が差し始めていた。馴染みの洋食屋で食したスープ、ミネストローネは彼に何かを教えてくれた......
その洋食屋にはカウンター席があり、ワイン等を飲みながらシェフやシェフの奥さんとの会話を楽しみに来るお客も少なくない。
週に一、二度仕事帰りにフラッと寄ってワインとつまみを楽しむサラリーマンの吉田もその一人だ。結婚三年めの彼は奥さんとそりが合わないとよくシェフにこぼしている。
「おいおい、また夫婦喧嘩かい?何が原因だか分からないけど、こんなところで油を売ってないでさっさと家に帰って奥さんに謝っちまえば?」
「謝っちまえばって、オヤジさんは最初から俺が悪いって決め付けてんだから!付き合っている頃は可愛くてね、あんまり細かい事は言わないし。おおらかで、いい嫁さんになると思ったんですけどね。ところでオヤジさんと奥さんは結婚して何年ぐら
いですか?」
「もうすぐ二十年よ。我ながらよく続いていると思うわ。血液型だって私がAで旦那がBだもん、相性も良くないからね」奥さんは笑顔で結婚生活はお互いの我慢よなんて言いながら彼にワインを注いでいる。
「ふたりでお店をやっているって事は二十四時間一緒ですもんね。すごいなー、俺には考えられないですよ」
「何を言っているんだ。結婚3年目っていやあ、まだ新婚だぜ。四六時中一緒に居たいってのが普通だろうが」シェフに言われ苦笑いしながらグラスを傾ける吉田であった。
彼はまだ自分の奥さんをこの店に連れてきた事は無い。「ココは俺の隠れ家だから、ノンビリとひとりの時間を楽しみたいんですよ」たまには奥さんも連れておいでよとシェフに言われても彼はそう答えるのだった。
「明日は早いんだろ。とっておきの美味しいスープをご馳走するから、今日はそれで締めたら?」もうすぐ三月とは言えまだまだ外は寒い。シェフは冬場によく作る具沢山のスープを彼に供した。
「シェフ、これ美味しいですね! なんて言うスープなんですか?」普段は気安くオヤジさんと呼んでいるのだが、料理に関しての会話ではシェフと呼び名を変えるのが吉田なりの礼儀だ。「ミネストローネって言う
んだけどね、イタリア語で具沢山って言う意味らしいよ」
ベーコン、玉ねぎ、人参、カブ、キャベツ、ポテト等をトマトベースのスープでジックリ煮込む、イタリアでは家庭的なスープ料理だ。「特に細かいレシピは無いんだよこのスープ。店やシェフによって入る具には個性があるんだ」どちらかと言うと気の短いシェフだけど、ジックリ時間を掛けて作るスープや煮込み料理を得意としている。
「おもしろいと思わないか? 個々の素材だけでは有り得ない味が一緒に時間を掛けてひたすらコトコト煮込むとこんなに深い味わいになるんだよ。時間が無いからって強火でガーってやっちゃうと雑な味になるんだよ」
「夫婦の関係も一緒じゃないの?ジックリ時間を掛けて付き合えば良い味わいが出てくるんじゃないのかしら。強火でガーはダメよ」
オヤジさんと奥さんにそんな事を言われ、彼は黙ってスープの皿を見つめ、そしてジックリと味わっている。「それともう一つ。スープはね、笑って作ると美味しく出来るんだってさ。物理的にそんな事はある訳無いけど、要はあせらず気持ちに余裕を持って食べてもらう人の笑顔を想像しながら作りなさいって事だろうね」酔いも醒めてしまったのだろうか、彼に笑顔が消えていた……
「今日は私達調子に乗ってチョッとお説教じみちゃってごめんなさいね」
「え?あ、いや、どうもスープご馳走様でした……」急に口数が少なくなってしまった彼はとぼとぼと家路について行った。
「気を悪くさせちまったかなあ……」「そうね、あの夫婦の事情も知らないのに私達、勝手な事ばかり言っちゃたもんね……」次の週に一度も訪れなかった彼。ふたりは自分達のお節介を反省し少し落ち込んでいた。
週末の夜はいつもより忙しい。その日の土曜日もテーブル席が後ひとつしか空いていなかった。
「カランコロン♪」と音をたててドアが開くと吉田が入ってきた。
「テーブル席空いてますか? 今日はふたりなんで......」彼の後ろにはチョッとお洒落をした、かわいらしい女性が立っている。「ちょうどひとつだけ空きテーブルが有りますよ。さあ、どうぞどうぞ!」奥さんに案内されてふたりが席につくと、シェフも忙しい手を休めて会釈する。
「はじめて連れて来ました、僕の妻です」「いつも主人がお世話になっているようで、有難うございます」照れくさそうに奥さんを紹介している彼。シェフがカウンター越しに笑顔で声を掛ける。
「オーダーは、まずミネストローネでよろしいですか?」
「はい、お願いします!」ふたりは声を合わせて答え、お互いを見て微笑んだ。
fin
読んで頂いた方の心が少しでも暖かくなれば幸いです。