仔猫、お届けに上がりました
仕方ないこととはいえ、梓はどうにも後味が悪かったので、せめてもと思い小さな段ボール箱を持ってきてやった。
「ほら、これに入れて、元いた場所に返しておいで」
言われた薔薇紅は、諦めきれないらしく唇を尖らせていたが、どう粘ってもここで飼えないという事は認めたらしい。しょんぼりと俯く薔薇紅の腕に、子猫を入れた段ボールをぽんと入れた。
「まあまだ日も高いし、そんなにすぐ戻さなくてもいいんじゃないかな?ほら、薔薇紅」
ちょうどいいサイズの空き箱を探す梓の傍らで、何やらごそごそやっていたダニエルが、嬉々とした面持ちで小さな板を差し出してきた。
それは、段ボールで作ったプレートだった。マジックで大きく『ひろってください』と書かれている。
ご丁寧に首にかける紐までつけた段ボールプレートを、まるでメダルを授与するように薔薇紅の首にかけた。
「これ持って歩いてれば、案外誰かが拾ってくれるかもよ。試してごらん?」
ダニエルはプレートの出来栄えを確認し、満足そうによしと頷く。そして薔薇紅の頭を優しく撫でて付け足した。
「五時の鐘が鳴っても見つからなかったら、梓の言う通り元いた場所に返すんだよ。いいね?」
「…うん、わかった」
素直に頷く薔薇紅。そんな二人のやり取りを、梓は一抹の不安を感じながら見つめた。
あのプレート、勘違いする人が出るんじゃないだろうか…
そんな妙な心配を、梓は頭を振って振り払う。
とたとたと幼い足音をたてて薔薇紅が出ていくと、梓は深々とため息をついた。
「あー、仕方ないとはいえ何か嫌な気分」
「住居の方でなら飼っても問題なかったんじゃないの?」
「だけどやっぱり不衛生だよ。人が出入りするからドア開いてること多いし」
「でもちゃんと世話するって言ってたし…」
「ペット飼いたい子供は大抵そう言うもんなの。飽きたら誰が面倒見るの、結局私だろ」
梓は少女たちに甘い上読みの浅いダニエルにあからさまな苦言を呈した。
そしてふと、さっきからのやりとりが子育てに悩む夫婦の会話のように感じられて、一瞬そんな思いに至った自分が何だか酷く不愉快だった。
「もうやめやめ、とにかくこの話は終わり」
片手を振って会話を打ち切り、そしてふと店内を見渡して、遅蒔きながらここに居て然るべきもう一人の不在に気付く。
「あれ、そういや雪白は?」
「まだ寝てるんじゃないかな。雪白は寝るのが大好きだから」
「いくら土曜だからって寝すぎじゃないの?」
「いや、昨日珍しく遅くまでビデオ見てたみたいでさ」
「ふーん、なんのビデオ?」
「ウルトラ怪獣大全集」
何気なく訊ねた梓は、その返答に思わず絶句した。
「…それ、あんたの趣味じゃないの?」
客足が途切れ、梓がテーブルを片付けていると、隣接した住居スペースのドアが開き、中から薔薇紅と背格好がよく似た少女が姿を現した。
腰まである淡く柔らかい金髪に、澄んだ水色の瞳。色白の肌に白いシフォンのワンピースを着た大人しい印象の少女だ。
「雪白、やっと起きたんだ」
メニューを拭きながら声をかけると、薔薇紅の双子の姉である雪白が、無言でこくりと頷いた。雪白は勝ち気な妹娘とは対照的に、気弱そうな造作の女の子だ。そして外面が内面を裏切ることはない。
いつもおどおどした光を宿すスカイブルーの瞳が、今日はねむたげに垂れていた。
「…あずさ、ばらべには?」
まだ半分夢の世界にいるようなぼんやりした様子で、雪白が舌ったらずに妹の行方を訊ねた。
「出かけたよ、夕方までには帰ってくるでしょ」
メニューについた紅茶の染みが気になり、拭き取るのに夢中な梓は上の空で返事をする。
「くそ、さっきの客メニュー敷いたまま飲み食いしたな…」
ぶつぶつと文句を言う彼女のエプロンを、雪白が引っ張った。
「あずさ、ばらべには?」
「だから出かけたってば。心配しなくても五時前には帰ってくるよ」
適当にあしらっていたが、雪白は立ち去る気配を見せず、言葉が分からないか耳が聞こえないかのようにいつまでも梓の足元で、エプロンをつまんだ体勢のままぼーっと立ち竦んでいた。
置物のように微動だにしない雪白に、けれど寝呆けた少女のそんな態度には慣れている梓は特に気にも止めず、マイペースにメニューを拭き終えた。
そして仕上げにテーブルを一拭きすると、一つ頷いて雪白を振り返った。
「雪白、ご飯食べる?お昼に作ったチャーハン残ってるよ」
問われた雪白は何を考えているか全く読めない大きな瞳で梓を仰ぎ見ると、やがて覚醒して間もないため感情の乏しい声で、それでも一言、端的な答えを口にした。
「たべる」
壁にかけられた古風な柱時計と、役場が流す夕刻のサイレンが同時に鳴り響いた。
売り上げを確認していた梓はレジから顔を上げ、時計に目を向ける。くすんだ銀色に輝いている、凝ったデザインの長針と短針が上下一直線に並んでいた。閉店時間だ。
カウンターの椅子から立ち上がり、皺になったエプロンを軽く払う。
「ダニエル、もう店じまいしていいー?」
店の一番奥にある厨房へ、一応呼び掛けをすると、丸い曇りガラスのはまった扉の向こう側から「いいよー」と、ややくぐもって間延びした返答が投げて寄越された。
入り口を開けて外に出ると、既にオレンジ色の夕陽は影を潜め、薄墨を流し込んだような空気がたゆたうように広がっていた。
寂寥感を煽る黄昏と宵闇の混ざった微妙な時間帯。その中を横切り、梓はいつものように表に立て掛けてある、本日のお勧めメニューを箇条書きにした立て看板を折り畳む。それを片手で支えながら、格子窓風にガラスのはまった入り口にかかる『OPEN』と書かれた木の看板をひっくり返して『CLOSED』に変え、立て看板を両手で持ち直すと、暖かく柔らかい光の満ちる店内へと取って返した。
立て看板を定位置に戻した時、ふとそれまで念頭から消え失せていた疑問と、それに連動した微かな不信感が鎌首をもたげた。
「…あれ、そういや薔薇紅…」
独り言のように呟いて店内を見回す。いつも客がいようがいまいがお構い無しに飛び回っている深紅のドレス姿は影も形も無く、片割れの白い少女が一人、椅子に座って足をぶらぶらしながら本を読んでいるだけだった。
「んー…家の方かな」
男前に黒髪を掻き上げながら、梓は確認のためダニエル達の住居の方に足を運んだ。この時点で、梓は薔薇紅が帰宅していないという可能性は考えていなかった。どんなに遊びに夢中になろうと、雪白も薔薇紅もそういう基本的な部分はきちんとわきまえているのだ。
しかし、普段店にいない場合の潜伏先であるリビングは明かりがついておらず、隣接したキッチンも二階の寝室ももぬけの殻だった。一時間かそこら人がいなかっただけではあり得ない室内のがらんどうな冷気に、梓はようやく怖気に似た焦燥に襲われた。
階段を駈け降りると、明日の仕込みをしているダニエルの元へ直行した。
「ダニエル、薔薇紅がまだ帰ってないみたい」
焦りの滲んだ梓の顔に、ブルーベリーのソースを作る手を休めぬまま、ダニエルは両違いの眼差しを向けた。
「家にもいない?」
「いない、ずっと誰も居た形跡無いよ」
心理的な動機に心臓を締め付けられながら、落ち着こうとつとめる梓の強張った様子を前に、ダニエルはいつもと何ら変わらぬ呑気な口調で応じた。
「まー、お腹が空けばそのうち帰ってくるよ。ほっといて大丈夫」
子供の心配をするのが仕事である保護者の言葉とは思えない無責任さに、梓は込み上げてくる怒りに肩を震わせた。
「あのね!そんなわけにはいかないでしょう!」
「平気だって、犬猫じゃあるまいし」
「私ちょっと探してくる!」
止める間もなく、梓はエプロンをつけたまま店を飛び出し駅前まで走った。少女と出かけたことのあるスーパーや雑貨店、思い付く限りをすべて覗いた。目立つ格好をしているので、もし人込みに紛れていれば発見するのは造作もないのだが、そんな予測に反し、薔薇紅はどこにもいなかった。
梓が追い詰められたような心境で店に戻った、ちょうどその頃。
高台に位置する『フェアリーテール』には、駅へと通じる道に繋がる正面階段ともう一つ、店の裏手へ下る細い階段が存在する。
そちら側は繁華街とは程遠い、民家もまばらな閑散とした佇まいが点在するだけの、人通りも少ない区域だ。昼間もあまり日当たりのよくないその狭い道路は、その時には完全に夜の相様で、大の大人でも一人で歩くことを忌避したくなるような物寂しい風景が広がっていた。
そんな通路の白々とした街灯の下に、不自然に目立つ赤い姿があった。
薔薇紅は、梓が子猫を入れるために用意した段ボールにすっぽりはまりこんで、淵に足を引っ掛けるようにして座り込んでいた。
本来入るべき子猫達は薔薇紅の膝に抱かれ、三匹寄り添い丸まって眠っている。
薔薇紅は店を出てからしばらくうろついた果てにこの有様に収まっていた。子猫を捨てることも家に帰ることもできないのでは、他にどうすることもできなかった。
無為に時間を持て余し、ただじっと無言で宙を見つめていた時だった。唐突に獣が唸るようなエンジン音が響き、横合いから照らされた眩しい光に、薔薇紅は思わず顔をしかめた。
赤いランプをくるくる光らせている、白と黒の二色塗りの車が一台、彼女の前で止まった。
「お嬢ちゃん、こんな所で何してるの?」
助手席から現れた若い男が、驚いたように薔薇紅に訊ねた。薔薇紅は焦げ茶色の瞳で訴えるように見上げ、その帽子を被った男に、首からかけた看板を持ち上げて見せた。
それを眼にした途端、男の表情が氷結し、何やら慌てた様子で、運転席に座るもう一人に何事かを早口に伝えていた。
薔薇紅は膝の上に被せる形で『ひろってください』の看板を持っていたため、男達は子猫の存在に気付かなかった。
「異国の地でいろいろと大変だとは思いますけどね!こんな小さな子に家出させるような接し方はどうかと思うんですよ!」
半ば涙眼になりながら、その若い警官は立ち尽くすダニエルに猛然と抗議した。
「私にもこの子くらいの娘がいて何かお悩みがあるのならいつでもご相談に乗りますから!どうか一人で抱え込まないで下さい!」
「………へ…ぇ?」
言われたダニエルは猫背気味に背中を丸め、呆然としながらそんな間抜けな声を洩らした。突然の訪問客とその訪問内容にとても理解が追い付かず、相手にはかばかしい返事もできなかったのだ。
半狂乱になって説教を始めた警官と、その後ろで真紅のランプを光らせているパトカーと、後部座席で窓に張りつくようにこちらを伺っている見覚えのある少女と、サイレンの音で集まってきた野次馬らを放心状態で見つめることしかできなかった。
そんなダニエルの背後、開け放たれた扉の内側で、あちこち駆け回って汗みずくになった梓が、顎が外れたような表情でその光景を凝視していた。
予想だにしないどころか完璧に予想の範疇外の出来事に思考が麻痺し、何も反応できなかった。