仔猫、拾いました
思ってもみない事とはいつも突然にやってくる。
例えば奮発したコートを初めて着て、意気揚揚と家を出た矢先に車に泥水をかけられたり。
または二日酔いで気分最悪な日に偶然財布を拾い、謝礼の金一封を手に入れたり。
結果の善し悪しはあれ、人が考えも予想もしない事というのは、いつも唐突に舞い降り、周囲に混乱を来す。
けれど、この出来事に関しては、確かに降って湧いた災いに違いはなかったけれど、深く考えたら必然と呼べなくもない出来事だったかもしれない。
扉を開けると、ドアベルがちりんと澄んだ音をたてた。いつもは気にならないその微かな音が、この時ばかりは恨めしいと苦々しく感じながら、小さな人影が無人の店内に滑り込んできた。
空き巣のような風情で侵入してきたのは、まだ十歳にも満たないようなあどけない顔立ちの少女。肩にかかる奔放に巻いた栗色の髪を、大振りのボンネットで形良く押さえ、あちこちをレースで縁取りした深紅のケープとスカートを纏っている。履き慣らした光沢のある黒い靴が、白いソックスによく映えていた。
その姿は、他の場所で眼にしたなら間違いなく周囲の風景を歪にしただろう。けれど、アンティーク調の椅子とテーブルが配され、壁という壁を塞ぐ戸棚に並んだ可愛らしい木工品の数々――そのほとんどが童話をモチーフにした小物達――に見守られ、年代物の掛け時計がコチコチと古びた音色で時を刻む、この浮世離れした様相の店内においては、まるで違和感を感じさせない。それほどその装いは少女に似合っていた。
少女は忍び足で店内を進み、髪と同色の大きな瞳に緊張を湛え、用心深く周囲を警戒した。見つかったら大変だ。
「薔薇紅?」
不意に背後から声をかけられ、いたずらがばれた時のように、少女の肩がびくりと跳ね上がった。
冷や汗を浮かべながらそろそろと振り返ると、奥の厨房から金髪の男が顔を覗かせていた。
男は二十五歳前後の外見で、ややくせのある淡い金色の髪と、整った容貌に不釣り合いな少々覇気の欠ける表情をしている。いつもやる気の感じられない双眸は、右が青、左が赤茶のオッドアイ。
「だ、ダニー…」
少女は栗色の髪を揺らしながら、ゆっくりと己の保護者を呼ぶ。ダニーと呼ばれた男が、エプロンで手を拭きながら近づいてきた。
「お帰り、どうしたの?」
「な、なんでもないよ?」
「その割には、自分の家に入ってくるのにコソ泥みたいにぬきあしさしあしだね」
淡々とした指摘に、少女の体が再度びくりと波打った。
男の名はダニー、本名はダニエルといい、この喫茶『フェアリーテール』のマスターだった。対する少女は薔薇紅。ダニエルに養われている双子の姉妹の片割れだ。
「な、な、なんでもないったら」
と言いながらも、少女の視線はあちこち迷走し、早くこの場を立ち去りたい気配でいっぱいだった。普段は煩いほど元気で、周囲がまごつくほどはっきりとものを言う彼女が口籠もるのは、大抵後ろめたい隠し事がある時と相場が決まっていた。
曰く、何処かのガラスを割った。
曰く、水溜まりに飛び込んで、服を汚した。
曰く、プランターの花を全て首ちょんぱにした。
必死に自分から眼を逸らす薔薇紅を、ダニエルは腰に手を当てて静かに観察した。そして、ケープの下に突っ込まれたままの両手に視線が止まり、やがてその妙な膨らみに気付く。
「薔薇紅、何を抱えているの?」
核心をつかれ、薔薇紅は顔の半分を占めている瞳を、驚愕によって更に大きくした。
「何にも持ってない!」
「顔に嘘だって書いてあるよ」
「書いてない!」
「いーや、書いてある」
しばらく喚いてじたばたしていたが、当然そんなことでは誤魔化し切れない。薔薇紅はやがて観念し、その場にしゃがんで、ケープの中に隠していたものを取り出した。
それは、産まれて1ヶ月そこそこの子猫だった。
それも、三匹。
よくこの小さな手で抱えていられたもんだと、ダニエルは少し感心して、自分も腰を屈めた。
「どうしたの、これ」
「裏の原っぱにいたの…ねえ、飼ってもいいでしょ?」
それはどこの家庭でもよくある頼みごと。珍しくもない光景。
しかし薔薇紅は自分が無理なお願いをしている事を重々承知していた。
食物を扱っているからペットは飼えないと以前に言われていたからだ。
それでも、見つけてしまったからにはどうしても放っておけず、自分の部屋でこっそり飼おうと持ち帰ったけれど、見つかってしまった。だから、とりあえずダメ元で頼んでみようと思い直したのだ。
真っすぐな眼差しで見上げる薔薇紅に、ダニエルは笑顔で言った。
「ああ、いいよ」
一瞬、自分は何をあんなに頭を痛めていたのか考えてしまう程、あっさり了解してくれた。
ぽかんと口を開けていたが、驚きの衝撃が去ると、薔薇紅の胸にじわじわと嬉しさが広がった。
飼ってもいい、その言葉が頭の中を跳ね回った。
「ほんとに!?ほんとにいいの!?」
「ああ、いいよ」
しかし安請け合いをしたダニエルの背中に、何か硬いものが押しつけられた。
「いいわけあるか」
ダニエルの背後、モップの柄を銃口のように突き付けて、アルバイトの佐伯梓が立っていた。
「あれ?モップなんか持ってどうしたの?」
「二階の拭き掃除をさせたのはあんただろ。あんたはこんな所で何をしてんだよ」
怒気を孕んだ梓の声に、ダニエルはゆっくり振り返りながら、眉間に縦皺を二本刻む梓の顔を眼にするだろうと思った。しかし予想に反し、刻まれているシワは三本だった。
梓はすらりと背が高く、ポニーテール気味に纏めた黒髪に切れ上がったアーモンド型の瞳をした、凛々しい顔立ちの娘だった。十六歳とは思えぬ程常識的、かつかなり自立した意志の持ち主で、曲がったことが嫌いな一本気な娘だ。
彼女はこの春から入ったバイトにして、この喫茶店におけるダニエル以外の唯一の従業員だった。
梓は容姿に相応しい少年っぽい口調でダニエルを非難した。
「下でこそこそ何をやってるかと思ったら案の定ろくでもないことやってんだから」
「あっ!」
乱暴に子猫を取り上げた梓に、薔薇紅が抗議の声をあげ両手を伸ばしてきた。それを無視して二人を睨み付ける。
「飲食店は動物厳禁。触った奴は手を洗え。あと服も消毒しろ」
「梓は神経質だなぁ。ちょっとくらい大丈夫だって」
「大丈夫じゃない!大体何で私がこんな注意しなきゃなんないんだよ、ほんとはあんたの役目だろうが!」
無責任な物言いの店長を怒鳴り付けた。入店以来、使う店主と使われるバイトという立場は完全に逆転している。
というのも、十中八九彼女の言動の方が正しいからだ。
「全く、食中毒でも出たらどうすんのさ」
「出たら考えればいいよ」
のほほんと問題発言をするダニエルに、梓はこめかみを押さえてため息をついた。彼女にはこれが冗談だとは断言できない心当たりが山程あるのだ。
このダニエルという男は、一見白石の美青年然で、作り出す菓子も繊細そのものなのだが、その一面からは想像もできないようなとんでもないずぼらなのだ。
初めてキッチンに足を踏み入れた時の悪夢が甦った。
いつ使ったのかも分からない食器が、シンクの中で何かのオブジェのように高く積み重ねられ、作業台にはケーキの生地や何かの液体がこびりついたボウルやら器具やらが無造作に放り出され、床はモップをかけられた事がないのではと思われる程濁り、べたつき、変色した小麦粉と思われる茶色い粉が、あちこちにほこりのように積もっていた。
この惨状を目撃した日には、危うく本気で役所に通報するところだった。
そんな、昔と呼ぶには新しすぎる過去を思い返し、梓の背筋に悪寒が走った。自他共に許す綺麗好きの彼女にとって、不潔は犯罪に等しい。
「全く、冗談じゃないわ…」
ぶつぶつ言いながら猫をつまみ出そうとする梓の腕に、薔薇紅が必死の形相でしがみついてきた。
「捨てないで!お願い捨てないで!」
「何を言ってんの、捨てないでどうすんの」
「やだやだお願い捨てないで!」
最初は耳も貸さなかった梓だが、あまりのしつこさになんだか自分が悪いことをしているような気分になってきた。そんな彼女の変化を敏感に察し、輪の外で傍観を決め込んでいたダニエルが野次を飛ばした。
「ほーら、だんだん自分が悪人に思えてきたよー。冷血漢してる気になってきたよー」
「なってない!」
激しく否定し、それから急に思い直したように、梓は膝をついて薔薇紅に視線を合わせた。
「薔薇紅、捨てないでって言ったって、じゃあこの猫どうするの?」
ゆっくり言葉を選びながら、梓は諭すように言い聞かせた。
「お店はペット禁止、それでなくても、あんた一人でなんて世話できないでしょうが」
「そんな事ないってば!ちゃんと面倒みるもん!」
たまりかねて叫んだ薔薇紅に、梓は首を振る。
「まだ自分の事もちゃんとできないあんたには無理だよ」
「そんな事ない!ちゃんとできる!世話するから!」
「じゃあ朝六時に起きられる?自分のごはんの前に子猫の食事の支度ができる?」
思わず押し黙った少女に、梓は再度告げる。
「ね、ペット飼うっていうのはそういう事なんだよ。初めから終わりまで責任と苦労が付き纏うの。捨ててきなさい」
「…できないよ」
「じゃあ他に誰か飼ってくれる人見つけるんだね」
「そうだ、梓が飼ってやればいいじゃん」
今まで黙って見ていたダニエルが助け船を出すように言った。薔薇紅の顔がぱっと輝く。
「そうだよ、梓は一人暮らしだし!」
素晴らしい思い付きに盛り上がる薔薇紅に、梓は難色を示し、渋い顔をダニエルに向けた。
「うちのマンションペット禁止だし、それにほとんど家にいないのにペットなんか飼えないよ」
「猫なら多少ほっといても大丈夫じゃない?」
「そんな無責任な真似できないね。面倒はあんただけで十分だっての」
耳に痛い言葉に、ダニエルは苦笑を洩らす。
「ねえダニー、ダニーから梓に言って!飼っていいって言って!」
諦めきれない薔薇紅は、ダニエルの方がまだ取りつく島があると判断し、彼の元へ駆け寄った。
「そうはいってもねぇ…」
無造作に金髪を掻き上げ、弱った表情で眼をそらした。そんなダニエルのエプロンの裾をぐいぐい引っ張る。
「ねえ、ダニー、お願いだよぉ…おねがいぃ…」
涙ぐみ、潤んだ声で、それこそ子猫のように訴える薔薇紅に、反対意見に傾いていたダニエルの気持ちがあっさり折れた。
「うん、やっぱりいいよ」
「ほんと!?」
いつの世でも、大人は子供に甘かった。
「…ダニエル」
いつの間にか薔薇紅の真後ろに立った梓が、無表情のまま低い声で囁いた。
「もう掃除洗濯食事の世話諸々のアフターサービス、しないよ?」
ごく低温のその一言は、生活力皆無のダニエルにとって、恫喝以外の何物でもなかった。
ダニエルは薔薇紅に笑顔を向けたまま、先程より少しだけ引きつった笑顔で言った。
「捨ててきなさい」