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自分の横を歩く、蒼羽を見て。これは夢かもしれない、と昨日から何度も繰り返した疑問が頭をよぎった。
「蒼、羽さん?」
「ん?」
そう言ってこちらを見下ろすその目は、とても優しくて。こんな幸せが自分の身に舞い降りていいのだろうかとも思う。
「あ、あのね?」
さらに夢ではない事を確かめる為に。勇気を出して蒼羽に伺う。
「・・・手、つないでもいい?」
蒼羽が驚いた顔で見返してきたので。調子にのって、お願いなどしなければよかった。
ため息をついた瞬間、右手に暖かな感触。蒼羽の左手があった。
「え? あれ?・・・つないでもいいの?」
「・・・何で駄目だと思うんだ?」
急に自分が言った事が恥ずかしく思え、うろたえる。若干、彼の眉間には皺が刻まれているような気がする。
「え、えっと。何となく、・・・蒼羽さん、そういうの嫌いそうだし」
「別に嫌じゃない。・・・ベリルとか他の奴なら嫌だけど」
真面目な顔で紡がれる、その返答がとても面白く感じた。まさか彼の口からそんな言葉が出てくるなんて思いもしなかったから。つい笑みがこぼれる。
「蒼羽さんとベリルさんが手つなぐなんて、あたしだって嫌だよ」
一人で笑っていると、蒼羽が戸惑ったように自分を見て。それもまた新しい笑みを誘った。ああ、きっと何でこんなことで笑えるのか、と思っているに違いない。
「や、もう、止まらない、お腹痛い・・・」
「・・・大丈夫か?」
「はぁ、もう蒼羽さん、大好き」
笑いながら、こぼれ落ちた言葉に。笑顔になった彼がつないだ手を離して、腰を引き寄せる。
完全に足が止まってしまった。
「う、なんか蒼羽さん自然にそういう事するし。外人さんっぽい。あ、もしかして、こっちの人はそうなの? キスとかあいさつ?」
「まあ、日本よりは欧米の生活に近いかもな」
蒼羽はまた真面目に答える。答えたその声が頭の上で響いて、熱がひかない。そう言えば、先程も彼の体温に戸惑ってしまったのに、蒼羽の方は、そんな様子を少しも見せない。
「・・・あたし、そういうの慣れてないし、恥ずかしいのに・・・。なんか蒼羽さん余裕だし、えっと、今も、かなり、心臓に悪いよ・・・」
蒼羽の腕に引き寄せられて、またもどうすればいいか分からずに、声が小さくなってしまう。呆れられてしまうかも、と思えばこそ。
「じゃあ慣れろ」
「っ、慣れろって・・・いつか、どきどきしすぎで心臓壊れるかも」
「・・・お前の嫌がる事はしない」
静かな声でそう告げられる。
何となく、それがとても大事なことを伝えているようで。
「え、・・・あの、蒼羽さんがこういう事するの嫌じゃないよ? 他の人なら絶対嫌だけど。ただ、慣れないからびっくりするの・・・。だから、頑張って慣れるようにする。えっと、うーん・・・」
蒼羽が納得する言葉を必死で捜そうとすると、優しい声が降りてくる。
「分かってる」
「え? 今の、分かってくれた・・・?」
「ん。手、つなぐ方がいいか?」
「う、うん。歩くのには、そっちの方がいいな」
ワイン色の髪と目が日の光に透けて、とてもきれいで。黒いシャツからのぞく鎖骨も、何かの芸術品のように思えた。せっかく落ち着いたのに、心臓がまた高鳴り出す。
蒼羽の手がまた右手に触れて。そっと包まれたその暖かさには、安心感と、心拍を上げる何かの半分ずつ。
誤魔化すために、つないだ手を振ってみて、前方の門を見た。
「あれ? 今日はいつもの門番の人いない・・・。お休みかな?」
「当番があるからな。日によって、いる時間帯が変わるんだ」
「そっかぁ。今までここ通る時、いつもいたから変な感じがする・・・」
蒼羽の体温に気を取られないようにしようと思い、声に出したその小さな疑問は。思いがけず、隣の蒼羽に拾われて、門番についての知識を得ることができた。こうやって少しずつ、蒼羽をとりまく環境について知っていくのが、なんだか嬉しい。
「あぁ、本当にマロウの言った通りだ・・・」
手をつないで仲良く歩いてくる蒼羽と緋天を見て、部下が大きなため息をついた。
「こんにちは」
肩を落とした彼に、近くまでたどり着いた緋天が声をかける。
「・・・あ。こんにちはっス。・・・はあぁ」
「早く開けろ」
「うあ、そ、蒼羽さん。す、すいません」
「申し訳ありません。こいつ、昨日からずっとこんな調子で」
慌てて扉を開けながら、涼しい顔をする彼に頭を下げた。心なしか、蒼羽の口元はため息をつく部下を見て、少し緩んだように見える。
「大丈夫ですか? なんか元気ないですね・・・」
「あ、緋天さん、こいつの事は放っておいて下さい。何日かすれば元に戻りますよ」
思わず蒼羽の表情を追っていたら、心配そうな声音が耳に届く。原因ははっきりと分かっていたので、即座に彼女に答えを返した。
「うーん、早く元気になるといいですね。あ、今日はいつもの人はお休みなんですか?」
「いつもの? ああ、マロウの事ですか? あいつは、今日は午後からです。緋天さんが帰る頃にはいますよ」
「ありがとうございます。じゃあ、帰りにまた」
「はい。行ってらっしゃい」
「はーい。行ってきまーす」
「お前。元気出せよ・・・。緋天さんもそう言ってただろうが」
二人を見送って、さらにため息をついた部下を見やる。あまりに情けないその様子に、こちらまでため息が出てきそうだった。
「隊長ー。オレ、もう再起不能っす」
「ったく。しょうがねーなー、お前は。まあ、俺もかなり驚いたけどなぁ。あの蒼羽さんが・・・。実際、今、目にするまでは半信半疑だったな。マロウが言う事だから、疑いようがないのになぁ・・・」
彼女の細い指に絡む、蒼羽の左手。
はじめに遠目でそれを見たときは、マロウの言葉の真偽に決着がついた、と思っただけだった。しかし、緋天と言葉を交わしながら、蒼羽の指先を間近で目にした直後、利き手を使っているのか、と驚いたのを表に出さないようにするのに必死だった。
「オレ、けっこうマジだったのにぃ・・・。マロウの奴、うれしそうにオレの側で話しやがって・・・」
「こら。マロウに八つ当たりするなよ」
今までの蒼羽ならば、間違いなく、利き手を塞ぐような事態を避けただろう。
それを、躊躇いもなく緋天を優先して、その手を使っているということは、よほど彼女が大事なのだ。
「蒼羽さんには、・・・ああいうお嬢さんが必要なんだよ。お前は知らないだろうけどな、あの子は十四の時からずっと予報士やってんだ。いつも厳しい顔でな。気を抜く場所もない。普通の大人でもこなせない事を、遊びたい盛りのガキがやってたんだよ。いつか壊れちまうんじゃねぇかと思ってた。人間らしい顔が見れて、俺は安心したね」
話しながら甦った記憶の中。蒼羽の表情を思い出した。
ほんの少し前まで、彼の表情が良い意味で変わるなんて思いつきもしなかった。普通に考えれば異常と言ってもいいはずであるのに、そういう人物なのだろうと慣れてしまっていたのだ。
「うぅ、そんな過去があったなんて・・・。すいません。オレ、これからは蒼羽さんの事、応援するっス」
「うんうん。まあ、お前にはアウトサイドの子は良く分からんだろ? 蒼羽さんは予報士だから、アウトサイドの事も良く分かってるし支えられる。な? お前には今度、街の若い娘を紹介してやるよ」
しばしの沈黙の後に、素直と言えばいいのか、単純と言えばいいのか、あっさりと部下が態度を変えた。
嬉々とした表情を浮かべ、こちらを伺ってくる。
「アテがあるんすか? やったー。約束っすよ。近い内に紹介して下さいよ? オレ、今、女の子になぐさめて欲しいんす」
「・・・うちの女房の従妹なんだけどな。その娘がこの前、女友達の五、六人集めるから、若い男を紹介してくれって言ってんだよ。俺達の中で独身の連中を会わせてやろうと思ってた所だ」
「うぅ、隊長、大好きだー!!」
部下が簡単な人間で良かった、と思いながら。彼の緋天への気持ちが本気だったなら、とその先の面倒ごとを、一瞬想像してしまい、背筋が冷えた。
「あぁ、蒼羽。今日も緋天さんを送ってきてくれたんだな」
センターに着いて、オーキッドが蒼羽を見て嬉しそうに笑う。
その目線が、一瞬、彼とつないだ手に向けられたのが分かった。ベリルと同じ、口元をからかうような笑みに変えて。
「・・・ついでに情報部に顔を出してくれ。免許の書き換えがどうとか言ってたから」
「はい」
何かを言いかけたオーキッドが、一度口を閉じて、蒼羽に向かう。従順に返事をした彼は、その左手をそっと離して背を向けた。あっというまにその背中は廊下の奥へ。急に心もとなくなった気がして、下を見てしまう。
「・・・ベリルから聞いたよ。緋天さんは蒼羽を選んでくれるんだね? 私としては嬉しいんだが、蒼羽は少し難しい所があるんだ」
オーキッドが真面目な顔で自分をのぞきこんできて。
ああ、違うのに、と思う。
「・・・えっと、あの、蒼羽さんがあたしを好きになってくれた、って言う方が正しいと思います。選ぶなんて・・・恐れ多いです」
説明している内に慌ててしまってそれが恥ずかしくて。けれどもオーキッドは破顔する。
「ああ、そうだね。変な言い方をしてしまって申し訳ない・・・ん? 蒼羽が戻ってくるぞ」
「あれ? 本当だ・・・蒼羽さん、どうしたの?」
自分でも笑顔になっていくのが良く分かった。蒼羽が目の前に来て腰を引き寄せる。
「・・・忘れ物」
そう言って、彼の唇は右頬をかすめた。それから、唇に小さなキスあっという間。先ほどと同じように、すぐに蒼羽の背中が見えて、それを見送るしかない。
視界に入る人々の、その目が一様に丸くなっていて。つい先ほどまではざわついていたのに、静寂が訪れている。
「っそ、蒼羽さん・・・」
我に帰って情けない声を出ると同時に、爆発的などよめきに部屋が包まれた。
「・・・今のは見せつけに来たんだな。蒼羽も面白い事をするようになったなぁ・・・」
「ええ? なんかそういう問題じゃないです・・・恥ずかしいのに」
今度こそ、ベリルと同じ、からかいの笑みを口元に浮かべたオーキッドが。
「こんな時に言うのも気が引けるが、あの子をよろしく」
楽しそうに、そう言った。