16
「緋天!!」
蒼羽が部屋の中に飛び込んできた。
体を震わせて、緋天が泣きじゃくっているのを、全員が遠巻きにしているのを見て、蒼羽が一瞬、鋭い表情で睨む。
「緋天!!・・・緋天」
緋天の体に手を回して、蒼羽がその目を覗き込む。
「大丈夫だ。落ち着け」
そう言って、優しくなだめるものの。
蒼羽に触れられる事を嫌がって、その腕から離れようともがく緋天を。きつく抑えこむ蒼羽。その顔に苦痛の表情が浮かんでいた。それでも緋天の目に視線を合わせて口を開く。
「何もいない。もう終わった。怖くない」
その声に反応して、彼女の体からようやく震えが消えた。
―――何もいないよ。もう終わったから。怖くない。
優しい声。背中をなでる、暖かい手。
「もう大丈夫だから。ちゃんと見ろ。怖くないから」
―――大丈夫だよ。ほら。周りを見て。怖いものは、もういないよ。
ワイン色の髪。同じ色の、目。
「・・・誰?」
―――おにいさん、だれ?
「緋天ちゃん!蒼羽だよ!!」
―――ウィスタリア。
「・・・そう、う?・・・ウィ、ス?」
―――うぃ?す?
「蒼羽だよ!!」
―――はは。ウィストでいい。
「・・・ウィ、スト」
―――ウィ、スト?
「ウィスト」
―――ウィスト。
―――そう。ウィストだよ。よろしくね。
気が付くと、目の前に呆然とした、蒼羽の顔が見えた。
「・・・蒼羽さ、ん?」
名前を呼んで、その目を見ると、笑みが浮かぶのが見えて、安心する。
そのまま、きつく抱きしめられて、蒼羽に体を預けた。
緋天が、ウィスト、と発音した時、蒼羽の体が強張るのが判った。隣に立つオーキッドにも、もちろん、自分にも。同じ種類の緊張が走って、緋天の次の言動を待つ。
すぐに緋天が、蒼羽の名前を呼んで、その目も現実を映している事が判明して、ものすごい安堵感が押し寄せたのだけれど。
「・・・蒼羽さん」
「ん?」
蒼羽が緋天の目をのぞく。その目はまだ涙にぬれていたけれど、しっかりとした光で、蒼羽を見返した。
「・・・思い出した」
「緋天ちゃん!!待って! ごめん、ちょっと待って」
何かを伝えようとする緋天を遮って、声を上げた。その話題を口にするには、この場は他人が多すぎる。
「さあ、みんな。確かめる事は、全て確かめた。仕事に戻れ。今の件については、追って連絡する」
叔父が、自分の意志を悟って、人払いをした。関係のない者達が次々と部屋を出て行く。
「緋天ちゃん。蒼羽も。椅子に座って」
記憶をこじ開ける時が、またやってきた。
昨日よりも、さらに奥深くへ。
蒼羽が緋天を立たせるのを横目で確かめて、部屋の扉をしっかり閉める。
オーキッドが厳しい顔で、テーブルについた。
「・・・叔父さん」
「ああ。我々も、いつまでも記憶を押さえ込むのは、良くない」
自分も座って、全員が座ったのを見て、言葉を出す。
「緋天ちゃん。何を思い出したか、ゆっくり、話して」
16年前へ。
蒼羽と同じ、ワイン色の髪と、その目を。鮮明に、記憶の底から呼び戻した。
「あの・・・小さい時、山に行って」
緋天がおずおずと話を始める。
「いつの間にか、一人になってて」
蒼羽が厳しい顔で宙を見る。
「・・・何か、怖いのに、追いかけられて」
うつむいていた顔を緋天が少し上げる。
「気付いたら。知らない人が、目の前にいて。なだめてくれて」
緋天の目が、蒼羽の顔を、しっかりと見る。
「・・・その人、蒼羽さんに似てた。・・・名前、教えてくれて」
蒼羽が緋天の目を見返す。
「あたし、うまく、その名前言えなくて。だから、ウィストでいい、って。でも、本当は・・・。その名前は・・・蒼羽さんと同じ、」
「ウィスタリア」
蒼羽が、はっきりと、その名前を発音する。
「・・・俺の父さんだ」
ゆっくりと、緋天がうなずいた。
彼が、いなくなった、その日。
緋天は、ウィスタリアに、会っていた。