1
「おはようございま、す・・・」
扉を開けながら口から出たのは、いつも通りとは言えない変に小さな声。
それを耳にしたら、焦りがにじみ出ている、と自分でも分かった。
今日も気持ちいい快晴。
ここに初めて来てから、もう二週間も経っているのに。かつてないほど緊張している理由は、十分理解している。服を選ぶことにもいつもより倍以上の時間をかけて。普通に普通に、と繰り返しつぶやきながらクローゼットをかき回したのだ。
昨日はベリルと門番にさんざんからかわれて、逃げるように家に帰ったせいか。何となく、会うのが怖い。
部屋の中を見回すと、彼がソファに座っている。
ベリルの姿は見当たらず、余計に焦る。
いつかと同じ体制の蒼羽が。わざわざ体をひねり、こちらを見ていて。
少し笑って自分の隣を示す。座れという意味なのだろう、と近付き。
体の中で存在を主張する心臓をなだめながら、彼の横に腰をおろす。
「お、おはよう、ございま、す・・・」
そっと、蒼羽を見上げると。
昨日初めて見た、とろけるような笑みを浮かべて自分を見ている。
「っ、うあぁ。蒼羽さん、その笑顔、心臓に悪いです・・・」
一瞬、普段の無表情に戻って蒼羽が口を開く。
心外だ、とでも言っているようで。
「何でだ?」
「えぇ? だ、だって、かっこよすぎるもん・・・」
うつむいてつぶやくと、視界の端から蒼羽が腕を伸ばしてくる。
「自分じゃ分からない」
そう言って腰を引き寄せると、笑いながらキスを落とされてしまった。
そのまま抱きしめられて髪を優しくなでられ、更に頭の上に柔らかいものが触れる。蒼羽がそこに口付けていると遅まきに気付いて。もうどうすればいいのか本当に分からなくなってしまう。
昨日以前とは、明らかに。
明らかに、変わっているのだ。彼との関係が。
「っ、そ、蒼羽さん・・・」
「ん?」
「えっと、ベリルさんはどこですか?」
慣れないこの状況は、何か心臓や体に悪い気がする。心からベリルの助けが欲しかった。
「・・・庭。それより、敬語。やめろ」
くす、とこちらの気持ちを見透かしたように笑われて。
「うぅ、なかなか抜けないし・・・。あぁ、そうじゃなくて、これ、なんかよくない気がする」
「そうか?」
髪をなでていた手を、今度は耳に移して、そっとピアスに触れる。耳の上の辺りを甘噛みされて。全身に電流が走った。
「っにゃ!・・・もう、蒼羽さんってば。ベリルさんにこういう所、見られたくないです」
何というか、彼は、いつも通りだ。
彼の感情が、こちらへと向けられていること以外は、いつもの蒼羽だった。彼のペースで事を進める、というところが。おかしな感覚だが、蒼羽という濁流にのまれていくようだった。
半分、泣いているような状態の声で訴えられて。
仕方なく彼女を離した。顔をのぞき込むと、目にうっすら涙を浮かべてこちらを見ている。その表情がたまらなく。ああこれは、可愛い、と表現すればいいのだ、と思い。もう一度手を伸ばそうとした。
「緋天ちゃん、来たのー?」
ぱたん、と玄関の扉が閉まる音がして、それに続いてベリルの声が聞こえた。ほっとした表情の緋天を目の当たりにして、そんなに嫌なのかと思ってしまう。
「っベリルさん・・・朝から蒼羽さんスマイルに心臓をわしづかみにされてしまいました・・・。これ絶対、体に悪いですよ」
緋天の言葉を聞いて、ベリルは驚いた声を出す。
「え? 何それ? 蒼羽が笑うのって珍しいけど、そんなにすごい?」
「えっとね、苦笑とか、薄く笑うとか、そういうのじゃないんです。すーごい、かっこいい感じに、にっこり笑うのが蒼羽さんスマイルなんですよ!」
ソファ越しに緋天とベリルは話を続ける。
彼女は、自分と話すよりもベリルと言葉を交わす時の方が自然だ。すっかり打ち解けている様子を見て、何やら面白くない気分になった。たとえその話の核が自分にあるとしても。
「・・・私も今までそんなの見た事ないよ。そうだなぁ、見た事あるのって、嘲笑とか、薄く笑う、だし。もう、蒼羽、君は・・・緋天ちゃんの前でだけ普通の人っぽいんだから。困ったもんだねぇ」
ベリルがため息をついてこちらを見た。そこには、からかう種が出来たと言わんばかりの笑み。邪魔をしたベリルを容赦なく睨む。
「あぁ、ほら睨まれたし。緋天ちゃん、本当に蒼羽でいいの? 後悔しない? なんか、蒼羽ってすごく嫉妬しそうだよ・・・」
「ええ? 蒼羽さんが? 考えられないー。蒼羽さん、いつも冷静って感じですよ?」
「そうかな・・・何しろこんな蒼羽初めてだしなぁ。緋天ちゃんに対しては、普段の蒼羽と違う行動取るし。これからが大変だって」
少し真面目な顔をして、ベリルが緋天に言う。その表情にたじろいで、緋天は自分を見た。
「えっと・・・蒼羽さん? ヤキモチ焼いてくれる?」
彼女の期待するような顔を見て、口を開こうとしたら、ベリルの視線を感じた。満面の笑みで、こちらを見下ろしている。
「ベリル、・・・変な事吹き込むな」
「はいはい。えーと、今日も、緋天ちゃんセンターだね。何か進展あった?」
ベリルが話題を変えて緋天に向き直る。
触りたい、ともう一度彼女の細い腰に手を伸ばしたくなったが、ベリルの前でそれをしたら、緋天は嫌がるのだろう。
「うーん。なんか、あそこ、あたしがいなくてもいい気がするんですけど・・・いつも質問してる途中で、研究者の人達で議論が始まって、それでその場が盛り上がって終わるんです」
困った顔で緋天が笑って言った。
「ああ。あの人達もねぇ、学者肌っていうのかな。まだ具体的にどうするか、方向が定まらないせいもあるかも。しばらく付き合ってあげて」
ベリルが苦笑して説明する。
「はーい。じゃあ、そろそろ行ってきまーす」
そう言って元気よく緋天はソファから立ち上がる。それに続いて立ち上がって、口を開いた。
「俺も行く」
「え? 蒼羽さんも用事あるの? わぁ、一緒に行ける」
嬉しそうに自分を見上げるその笑顔を、誰にも見せたくないのだと確信した。
「緋天ちゃん・・・いつか何かに騙されるよ? 蒼羽は他の奴らに見せつけに行くんだから」
自分の行動の意味を、これからセンターで何をするのかを。把握しているベリルは自分を見て、そして緋天に余計な情報を与える。やめろと声に出したかったが、それをここで口にして、彼女がどんな反応を見せるか分からない。
「え? 見せつけるって何をですか?」
「・・・緋天ちゃんに決まってるでしょう。センターの奴らが手を出さないように。まあ、それは正しいとしても、蒼羽の下心には気付くようにしないと」
「ええ? あたしなんか誰も気にしてませんって。それに蒼羽さんは本当に用事あるんでしょ?」
「・・・ああ」
笑顔で見上げられて、頷いたのだが。本当はベリルの言う通りで。
「ほらねー。蒼羽さん、そんな変な事する必要ないもん」
緋天の激しい勘違いに、さすがのベリルも何も言えないようだった。
ちらりとこちらを見てから、小さく首をふる。彼の方でも、何かしら思うところがあるのだろう。
「・・・緋天ちゃん・・・はい、これお弁当。気を付けてね、・・・蒼羽に」
「え? ありがとうございます。ベリルさん、またお母さんモードに入ってるし・・・。じゃあ、本当に行ってきまーす」
元気に出て行った緋天と、隣に並んだ無表情の蒼羽を見送って。
その様子に笑みがこぼれつつも不安になる。蒼羽が人並みに、常識的に。彼女と付き合っていけるのかと。そんな疑問で頭がいっぱいなのだ。それに加え、先ほどの様子を見る限り、緋天は緋天で彼の発言や行動をそのまま受け止めている。
「あーあ。これから蒼羽が暴走しそうで怖い・・・」
先程自分を睨みつけた彼を思い返し、既に独占欲でいっぱいだな、と悟った。
程々にしてくれればいいのだが、と今後のことを思い、息を吐いた。新たな悩みが増えた気がする。