胸をつぶす圧迫感
「…2番線、ドアァ閉まります。駆け込み乗車ご遠慮くださぁい…」
どこかやる気のなさそうなやかましいアナウンスの声は、両耳にイヤホンをした少年の耳には入らなかった。気だるそうな、今にも気絶してしまいそうな顔をした少年だ。抱き抱えているひどくくたびれた様子の高校の鞄をつぶすように押し込み、彼は電車に乗った。
15分ほど電車に揺られ、ようやく少年は席を確保することができた。端の、片方が壁になっている席…彼にとってそこは特等席だった。
疲れた。寝たい、早く寝たい。
まだ朝だというのに、少年の死にかけの魚のような目はそう訴えていた。車窓から暖かい朝の日差しが差し込む特等席に腰掛けた少年は、おもむろにスマホを取り出し、ぽちぽち弄ってプレイリストを変えると、少年は壁に頭をもたれかけ、目を閉じた。学校に着くまであと20分ほど。朝の二度寝には十分な時間だった。
学校に着き、無言で荷物を置く。斜め前の男子生徒が少年を見て何やらくすくす笑っているのを知っていながら彼は無視を決め込んだ。もう慣れたことだ。今はそんなことより三度寝を決めみたい気持ちであった。
…無口で、面白くなくて、モテるほど顔も良くない。誰もこんな俺なんかに興味はないだろう。ゆっくり寝ていよう。
そう思っていたのに。
「なーに寝てんだよ」
突然、背中を叩かれた。見るとハンドボール部の関だった。彼とは2年間同じクラスだ。
眠たくてたまらなかったので、少年はモゴモゴと何やら訳のわからない言語を呟くことしかできなかった。
「何言ってんのかわかんねえぞ、腹から声出せ」
また背中を、今度はかなり強めに叩かれた。流石に少
年もイラッとして、
「…寝不足だから寝させてくれって言ったの。あと痛い」
若干強めの口調で返したが関はそんなこと気にも止めずにゲラゲラ笑った。
「部活入ってないお前が寝不足!?そりゃ大事件だな」
あまりにもわざとらしい“驚き”の仕草を見せる。それを見て周りの男子生徒がくすくす笑い始める。
うるさい。やめてくれ。
「うるさい、戻れ」
少年が関を睨むが、やはり関は笑い続けている。
「はいはい」
去り際、「じゃあな、数学32点!」と関がそこそこ大きな声で言った。にわかにクラスのくすくす笑いが大きくなった。少年の斜め後ろの女子に至ってはバカ笑いだ。
「…何が面白いんだか」
突っ伏しながらボソッと少年が呟くが、その声は誰にも届かなかった。もうその時点で、少年は誰にも見向きもされていなかった。ひとたび笑いのネタとなって終わりなんだろう。
…何でもいいが、ホームルームまでは寝ることにしよう。
そう心の中で呟き、再び目を閉じた。
秋の日は短い。つい最近までしつこいほど照っていた太陽も、15時ごろには傾き始めていた。
「…だからさ、いるかいないかわかんない変なやついるじゃん、クラスに1人は。ああゆうの全員集めてカラオケ連れてったらどうなるか気になるくね」
「えーそんなことしたらお前が死ぬじゃん」
やたらと声がでかい一年生の集団を、くたびれた鞄を持った少年が早歩きで追い抜かす。シワシワに枯れた葉が彼の足にいくつか潰された。
何やら後ろで盛り上がっているがそんなことどうだっていい。早く、一刻も早く帰りたかった。
…いつになったら終わるんだ、こんな生き方。
17歳になったばかりの少年は、有り余るほど残っているであろう自身の寿命を恨めしく思った。
高校には受験をして入った。最初の一年は、そこそこ友達もできたが、部活には入っていない、ゲームもあまりしない、趣味といえば散歩や読書といった感じで、あまり話の合う人間と巡り会うことはなかった。
一年生の中頃の時期だった。ある程度の人間関係が出来上がり、波のようなものができ始める時期。波に乗れていないーそうだと、波に乗っている人間たちに判断されたーが、コミュニケーションは取れてそこそこやりがいのある…要するに陰陽どっちつかずの人間を標的にした、姑息な嫌がらせが横行し始めた。
少年もそのうちの1人であった。もとより、大人や友人に頼れるほど強い心を持った人間ではなかった彼は、ただ黙って標的が変わるまで耐えることにした。
頭を叩かれてようが、過度に注目を浴びさせられようが、筆記用具を隠されてようが、耐えた。必死に。
最終的には少年の目論見通り、学年が変わる頃には少年に対する嫌がらせも鳴りを潜めて行った。
が、これは自分のターンが一度終わっただけということ。学年が変わったとはいえ、一体いつまた自分が標的にされるかわかったものではなかった。
だから、逃げることにした。そんな状況から、できる限り。口数を減らした。いつ裏切られるかわからないので、友達ともあまり関わらなくなった。ひとりでいることが多くなった。標的にしてもつまらないと、そう判断されるほどの人間になろうとした。
夏休みが明ける頃には、もはや誰も自分のことなど興味がないであろうという自信すら湧くほど無口になっていた。
確かに嫌がらせの標的にされることは格段に少なくなった。が、その結果今、少年は誰にも見向きもされないー最も関など一部の人物は別だがー孤独な存在になっている。
そんな、自分を殺すような生活を半年も続けていれば、少年の心と自信がすり減るのは無理もなかった。
「…はあ」
無意識に、無気力なため息が出る。少年は、家の近くの橋の上で、ぼーっと川…というか川を泳ぐように流れる枯れ木を眺めていた。
最近になって、こういう一点を見つめ、ぼーっとする時間が増えた。授業中も、寝る前の時間も…最近寝不足なのはそのためであった。天井を眺め、気がつけば2,3時間が経っている。
誰も自分のことなど必要としていない、そんな人間ならば嫌がらせなど受けるはずがない。
だが、そんな自分に、生きている意味などあるのであろうか…
どこかを見つめながらそうを考えることも少なくはない。
…何分経ったであろうか、川を流れていた枯れ木が、少年の視界から消えようとしていた。
不意に、強めの風が吹きつけた。
「…あっ」
少年が思わず声を出したのは、はずみに片耳のイヤホンが河川敷のほうまで落ちてしまったからであった。少年は思わず橋から身を乗り出す。
幸い、イヤホンは川には落ちていなかった。土手の、コンクリートになっているところに転がっている。
仕方ない、取りに行くか。少年はそう思い、橋から土手の方まで走っていった。駆け足で階段を下る。
「…あったあった」
数分の捜索の果て、イヤホンは見つかった。少年は安堵のため息を漏らす。
段々と空が黒くなり始めている。早く帰ろう。そう思った。もと来た階段を登り始める。一段、一段。
突然、立ちくらみがした。まるで体を回転させた後かのように、視界が大きく揺らいだ。
寝不足のせいであろうか、それとも…
再び、強い風が吹きつけた。運の悪いことにその風は、立ちくらみを起こした少年の体に直撃した。
バランスを取ることができない。視界が反転する…
少年の体が、階段から落ちた。意識が、途切れた。
「…ん」
川のせせらぎの音と、十月にしては妙に暑いと感じる陽の光で、少年は目を覚ました。
まだ視界がぼやけてる。…そうだ、俺はイヤホンを取ろうとして…階段から…あれからどれくらい経ったのだろう…
少年は、ぼやける目を擦った。
はっきりと、目の前の景色を見たはずの彼は、もう一度、さっきよりもはるかに強く、目を擦った。
「…なんだよこれ」
思わず声が出た。
そばを流れるのは近所の、汚い橋の下の、ちっぽけな小川ではなかった。澄んだ水の、少年が今朝乗った電車と同じくらいの横幅の大河が、さらさらと音を立てて踊っていたのだ。
それだけではない。少年の倒れていた場所のすぐ近くには、巨大な山がそびえ立っていた。これもまた、少年の近所にある地形ではない。一体なんなのだと、山を見上げたとき、少年は気づいた。
空には、虹色に輝く鱗粉のような薄い何かが舞っていた。これもやはり、少年の地元では…というか、少年の人生全体ですら、ただの一度も見たことのない現象である。キラキラと美しく輝くそれは少年の手に触れるとふっと消えてしまった。
…夢か。変な夢だろう、これ。
少年は思い切り自分のほおをつねった。
痛かった。あとに残るなんともいえない痛みが、少年の受けた衝撃をより一層強くしていた。




