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精神科医本田シリーズ

本能

作者: anonymous writer

一、


「アルジャーノンに花束を」という小説の序盤に、知的障害者である主人公チャーリーが、担当の医師たちから、知能を向上させる手術を受けたネズミのアルジャーノンについて、以下のような説明を受ける描写がある。アルジャーノンが、人間のチャーリーでもなかなかゴールまでたどり着けないような複雑な迷路を駆け抜ける動機は、ゴールに置いてあるチーズなんだよ、と。


つまり、知能を向上させる施術を受けたアルジャーノンでさえも、所詮はネズミ、ブーストさせた知能の用途は「食欲」という本能的な欲求を満たすことに過ぎないのだ、ということが読み取れる描写だが、僕としては人間についても同じようなことが言えると思う。


人は、自分の行動を正当化するための崇高な理念をでっち上げる(言っている本人もその理念を真剣に信じているケースもままあるようなので、ひょっとしたら「でっち上げる」と言う言い方は適切ではないかもしれないが)ことが得意である。日本の過去の偉人を振り返ってみても、例えば織田信長なら「天下統一」、伊藤博文のような明治の元勲なら「西欧列強に負けないような国造り、すなわち富国強兵」のような高邁な理想を掲げていたが、僕個人の穿った見方からすると、彼らも所詮は自らの生存の保証や、食欲や性欲などの本能的な欲求を満たすために足掻いているうちに、(政敵を倒したりして)引くに引けないところまで行ってしまって、それがゆえに自分の行いを正当化するためにそのようなことを言っていたのではないか?と、邪推してしまう(現に、織田信長はともかくとして、伊藤博文は稀代の女好きで知られていたようだ。)。


こんな大きな話をしなくとも、もっと卑近な例もいくらでもあるだろう。その辺の会社経営者も、大体は手を変え品を変え、「世のため、人のため」ということを理念に掲げているものだが、実態は我利我利亡者だったりする。そして、このように深層に渦巻く自らの強欲を、聞き心地の良いきれいな言葉でメッキする理由は、結局のところ「自分は金持ちになりたいんだ!他人をこき使って楽をしたいんだ!そして、女にもモテたいんだ!」と自分の本性を正直にさらけ出してしまえば、しまいには誰も付いてこなくなるからに他ならない。


少々毒を吐いたが、僕がこうして小説を書いているのも、突き詰めると金銭欲や承認欲求など、自身のちょっとした煩悩を満たすためと言える。結局のところ人間の根幹にあるのは本能で、知性とは、それを社会との齟齬が生じないように上塗りする性質のものに過ぎないと言えるだろう。そこのところを見誤ると、人間を正しく理解できなくなるような気がする。


くどようだが、人間にとっては本能が主で、知性が従なのだ。ちなみに、人間が幸福に感じられる状態というのは、本能的な欲求を、すべてとは言わないまでも社会との齟齬を生じない形で満たすことができている状態を指すのだろう。そして、当然のことだが人間は誰しも幸福になりたいと願う生き物でもある。このように考えると、社会の中で他人の本性(本能的な欲求)を垣間見ることがあっても、そう簡単に他人を非難することはできないとわかる。自分も抑えがたい欲求を抱えて現状に一喜一憂している存在に過ぎないのだから、他人を指さした指は、必ず自分の方にも向かってくるのだ。


二、


ところで、僕は作家を志して医学部を中退した、元医大生だ。今でも医学部にいた頃のクラスメイトの一部とは交流があって、その中には精神科医になった者もいる。彼(本田としよう)に起こった出来事について考えることは、人間の心における、本能の働きを軽視することの危険性について知るための、良い事例になるように思う。


本田は学生の頃から、内向的な青年だった。だからこそ、僕と気が合ったのかもしれない。合コンなどの学生の集まりには滅多に顔を出さない僕だったが、本田とは月に何度か、一緒に食事をしに出掛けたものだった。


話す内容はいつも決まって、文学と心理学についてだった。本田は、僕が大学を退学する以前(僕は、3年次に大学を退学した)にすでに、精神科医になることを決めていたようだった。彼は精神分析を中心とした心理学の本をたくさん読んでいて、フロイトの心理性発達理論や、ユングの夢分析などについて、私見を交えながら僕に話してくれた。本田は普段は物静かな男だったのだが、僕との会食で精神分析について語るときは、かなり饒舌になった。そういうときの彼は豊富な知識をまくしたてるように話したので、僕は大体、ただ黙って聞いているだけだった。


本田は文学にも造詣が深かった。彼は日本文学を中心に幅広い著者の作品を読んでおり、お気に入りの著者は、村上春樹氏だった。僕の方は専ら海外文学に興味があったので、お互いの関心の範囲はまったく被っていなかったのだが、それが逆に、お互いがお互いにない視点や知識を供給し合うことになって、彼との文学についての会話は心地良いものだった。


このように、僕の数少ない医大生時代の友人だった本田だが、若い頃にできた絆と言うものは思いのほか強いようで、僕が医大生でなくなってからも、彼とは年に数回程度は会っていた。僕は非常勤の塾講師として生計を立てながら作家を目指して小説を書き続ける生活で、本田の方は無事に医学部を卒業して晴れて精神科医になり、お互いの価値観も随分変わってしまってはいたのだが、不思議と僕たちの交流は何年も続いた。


三、


精神科医になってからしばらくは、本田の仕事は順調そうだった。彼は、郊外の小さなメンタルクリニックで、勤務していたようだった。僕と会ったとき彼は嬉々として、臨床現場で出会った珍しい患者や、自身が興味深く感じた出来事について話してくれた。彼が時折、


「今日は、妄想状態にある統合失調症の患者さんが、大物芸能人のAが離婚したのは自分が念を送ったからだ、と言って譲らなかったんだ。」


などと、症状がひどい患者さんの様子を引き合いに出して笑いのネタにしていた(本人がどう思っていたのかはわからないが、少なくとも僕にはそう思えた。)ことには若干の違和感を覚えたものだったが、彼の医師としての腕前や評判は悪くなかったようで、仕事の愚痴をこぼすことは、ほとんどなかった。


しかし、彼が精神科医として働き出してから数年が経った頃、彼に変化が見られるようになった。それまでとは打って変わって、彼は日本の精神障害者に対する福祉制度や、社会の中での精神障害者に対する差別や偏見などについて、延々と不満を述べるようになった。


彼が言うには、日本には障害年金や医療費補助をはじめとした精神障害者を救済するための様々な福祉制度があるが、そのいずれも不十分である、ということだった。さらに俗に「5分診療」と言われる精神科医の短時間での診療も、現場のマンパワーの不足を考えると致し方ない部分もあり、一人一人の患者さんにじっくり向き合う時間的、体力的な余裕が作れないことについても、度々不満を漏らした。


僕は精神科医ではないから、精神科医療の現場にどのような問題があるのか、本当のところはわからない。かと言って、現場で働いていた医師であった彼が言っていたことを否定するつもりはないし、きっと、彼が言っていたような側面もあったのだろう。


しかし、僕も随分年を取った今になって思うのは、どのような職業に就いているにせよ、人間一人ができることなど限られているし、彼の結末が示すように(詳しくは後述する。)、強すぎる正義感や、他人への共感は、人生のバランスを崩すことにつながりかねない。


今の僕には、そのことがよくわかる。僕は未だに塾講師と作家としての活動を続けているが、いずれの職についても言えることは、僕にできることは、その場を少しだけ明るくすることに過ぎない、ということだ。塾講師で言えば、突き詰めて言うと僕ができることは、一日一日の授業を、「この先生の話を聞いて良かった。ためになった」と、少しでも生徒に思ってもらえるようにしていくことしかない。もちろんそのような積み重ねの結果、成績が上がったり、志望校に合格したりすれば、尚良い。


しかしそれとて、僕が一生懸命教えて志望校に合格させた生徒が、大学で何らかのトラブルに遭ったり、入学後に理想と現実とのギャップに苦しむことになってしまったりすることも、ないわけではないだろう。しかし残念ながら、僕にはそこまで責任を取ることはできない。また、仮に志望校に合格したことが結果論で言えばその生徒の人生を台無しにすることに繋がってしまったとしても、僕は僕なりのベストを尽くしただけに過ぎず、生徒の側が僕を恨むことはまずないだろうし、仮に私を恨んだとしても、それは筋違いというものである。


作家としての活動も同じことだ。自分が書いた作品が、世の中に影響を与えるかもしれない、などと考えること自体が馬鹿げている。結局、世の中の多くの人たちは他人が書いた本などそこまで真剣に読んでいないものだし、ここでも僕にできることは、「この本を読んで良かった」と少しでも思ってもらえるように、その場限りの楽しみや喜びを、提供することに過ぎないのである。


四、


今の僕ならば、当時の本田に良いアドバイスができるかもしれない。しかし、当時の僕はまだ前述したような境地には至っていなかったし、彼の義憤に駆られたがゆえに生じた不満に対して、


「そんなことがあるのか。それはおかしいな。」


と、当たり障りのない様子で共感を示すことしかできなかった。


それからさらにしばらく経って、僕たちも三十代に入った、ある年のことである。その年の年始に、いつものように彼からの年賀状が届かなかったことを不審に思った僕は、彼に電話をしてみたのだが、奇妙なことに、何度かけても繋がらなかった。


それまでは、月に一度くらいは放っておいても向こうからメールの一通は届いたものだったし、本田は几帳面な男で、何件もの不在着信を放っておくような男では、決してなかった。


虫の知らせのようなもので、僕は何か嫌な予感がした。そういえば、数ヶ月前に最後に会ったときは随分やせ細っていたような気もするし、妙なことも言っていた(以下は、そのときの彼とのやり取りの回想である)。


「最近、お寺に座禅を組みに行っているんだ。」


本田は痩せたことで普段以上に際立った印象の大きな目をギラギラさせながら、それまで僕たちが話していた学生時代の教授についての回想から、唐突に話題を変えた。


「座禅か、人間の精神に関心が深い君らしいな。」


僕がそう答えると、彼は僕の言葉を意に介さない様子で、


「座禅は良いよ。無になれるから。僕は常々思うんだけど、人間の煩悩、もっと言えば本能ほど醜いものはないんじゃないかと思うんだ。君も、この国の政治家の腐敗っぷりはよくわかっているだろうし、僕の同業者でも、精神障害者を相手に弱者ビジネス、つまり一番汚い形の金儲けをやっている連中はいくらでもいる。もっと言えば、精神病で苦しんでいる患者さんたちも、醜いと思う。あの連中も結局は自分のことしか考えていないし、病気が酷いうちは『先生、気分が落ち込んで仕方ないです』、病気が治ってきたら治ってきたで『仕事が満足にできなくて、経済的に苦しいです』とか、助けを求めてばかりで。」


と、僕と視線を合わさないまま、学生時代に精神分析について語っていたときのように、早口で言い立てた。


「でも、そんなこと言ったって、人間は誰しも欲望を持っている生き物だし、患者さんたちも実際に苦しんでいるんじゃないか?君だって、金がないと困るだろう?」


と僕が問いかけると、彼は噛みつくように、


「君は何もわかっていない!いいかい?僕はもう何年も地獄のような臨床の現場で、人間の心に真摯に向き合ってきた人間なんだ。過去に、ブッダやキリストのような人間の心の在り方について説いた偉人はいたかもしれないが、今の僕は精神医学の最先端の知識を修め、それをベースに治療という実践を繰り返してきたのだから、人間の心の理解において、彼らよりも上の存在なんだ。所詮彼らは、何千年も前の人間に過ぎないからね。」


と強い口調で言って、一息ついた。そしてさらに、


「人間は知性のある動物なんだ。そして、本能は知性で抑え込むことができる。知性を以て考えれば、自分の幸福だけを追求することが、いかに利己的で醜いことかがわかるだろう。僕は今、座禅など東洋的な瞑想を治療に取り入れることで、患者さんたちに『幸福を追求することの不毛さ』を教育できないかと考えているんだ。」


と話を締めくくった。


五、


今にして思えば、あの時点ですでに様子がおかしいと気が付くべきだったのだが、本田の攻撃的な物言いはその時にはじまったことではなかったから、僕は大して気に留めていなかった。


僕はすぐに、彼の勤務先に連絡を入れた。案の定、職場の方でも、もう一週間以上連絡が取れていないということだった。そこで、職場から本田の両親の連絡先を教えてもらい、その日のうちに僕は彼の両親と共に、本田が一人暮らししていたマンションに向かった。


マンションの大家からもらった合い鍵で彼の部屋に入ると、中は死のような静寂に包まれていた。玄関からは、人のいる気配がまったく感じ取れなかった。僕たちは玄関から伸びる廊下を進んで、左側にあるリビングのドアノブに手をかけ、恐る恐る回した。


すると、部屋の中にはドアの右手側の壁(そちらの側には家具はなく、絵などもかけられていなかった。殺風景な白い壁が、ただ広がっているだけであった。)に面するように、床に胡坐をかいて座っている本田の姿があった。彼は目を閉じたまま、背筋をピンと立てて、ただそこに座っていた。


僕たちが近づいても、彼は反応する素振りを見せなかった。彼に近づくにつれ、僕は彼の頬が異様にこけていることに気が付いた。長袖のシャツからはみ出た手にも、筋が浮き上がっていた。


「本田!何をしているんだ!」


僕が声をかけると、彼は身動き一つせずにゆっくりと目を開いて、


「座禅を組んでいる。もう、何日も、こうしている。僕は本能を超越できたようだ。この体験を、患者さんたちにも伝えなければ。」


と、か細い声で呟くように言った。僕は、はっとした。本田は、他人の欲望や、幸福を追求する本能を、「醜い」と言っていた。だから、自分の中に存在する欲望すらも、否定せざるを得なくなってしまったのだ、と。


その後、本田は病院に運ばれたが、彼の食欲が回復することはついになかった。僕は、友人を一人失うことになった。


この話からわかることは、人間の本能を否定することは、生物が生きることそのものを否定することに行き着いてしまう、ということである。自らの醜さや愚かさを受け入れることも含めて、多少の「清濁併せ飲む」ことがなければ、人が生きていくことは、できないのではないか?本田の死を目の当たりにした今の僕は、そんなことを思っている。


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