迷子の迷子のメイちゃん
アタシは猫だ。
名前だってある。
メイ。それがアタシの名前。
花も恥じらう生後六ヶ月。
今は、のんびり日向ぼっこの真っ最中だ。窓際に差し込む日差し。ポカポカと暖かい。夏でも、日向ぼっこは気持ちいい。
アタシが住んでいるのは、マンションと呼ばれる家。今は、人間のつがいと一緒に暮らしている。
つがいのオスの名前は明。つがいのメスの名前は理恵。
この家に来る前は、アタシは別の家に住んでいた。一戸建て、と呼ばれる家。
アタシは、その一戸建ての持ち主に拾われた。
正確に言うなら、拾われたのはアタシのママ。アタシが、ママのお腹の中にいたときに。
人間は、アタシのママのような猫を「保護猫」と呼んでいる。
ママはその家で、アタシ達を産んで。
ママを保護した人は、アタシ達を引き取る人を探して。
明と理恵は、ママを保護した人からアタシを貰い受けた。アタシがまだ、生後二ヶ月の幼女のときに。
それから二人は、すっかりアタシのママ気取りだ。
でも、まあ、悪い気はしない。毎日のんびり暮らせる。食べ物にも困らない。
産まれたばかりの頃は、アタシは食べ物に苦労した。
ママが産んだ子供は、アタシを入れて五匹。その中でアタシは、一番体が小さかった。だから、他の兄弟に押し退けられて、ママのおっぱいを満足するまで飲めなかった。いつもお腹が減っていた。
それでも一応成長して、おっぱいじゃなく普通のご飯を食べるようになった。その頃には、他の兄弟達との体格差が明らかになっていた。
明と理恵に引き取られてからは、毎日満足するまで食べられる。ここ暮らしは、はっきり言って天国だ。
でも、いいことばかりじゃない。
アタシが、生後四ヶ月のうら若き乙女のとき。
病院ってところに連れて行かれた。そこで、予防接種という針を刺された。アタシの毛をかき分けて、なんかスースーする水みたいなのを塗られて。針の先端が皮膚に触れて、チクッとしたと思ったら。
いきなりブスッと刺された。
アタシは泣いた。痛かった。あれは痛かった。予防接種というのは、針から薬を出して体に入れるものみたいだけど、二度としたくない。針を体に刺して薬を入れるなんて、正気の沙汰じゃない。
「では、二度目の予防接種は、二ヶ月後くらいを目処にお願いします」
アタシに予防接種をした人が言っていた。明と理恵は、その人を「先生」と呼んでいた。
嫌な思いをした病院の臭い。先生という、アタシに予防接種をした人。それを、アタシは絶対に忘れない。
予防接種をした日、アタシはふて腐れた。だって、痛かったんだもん。家に帰るとベッドの下に潜り込んで、ずっと出て行かなかった。アタシは怒ったんだ。こうなったら、オシッコもウンチも、二人が寝るベッドの下でしてやるんだから。
復讐計画を立てるアタシと仲直りするためか、二人はその日、新しいおやつをくれた。チュオ・チャールというおやつだ。
食欲を誘う匂いに釣られて、アタシは、ベッドの下から出て行ってしまった。
理恵が手にしているチャールのチューブ。その開け口から出ている、美味しそうな匂い。理恵が手にしているチャールにフラフラと近付いて、一口、ペロッと舐めてみた。
美味しい!
アタシはすぐに、夢中になってチャールを貪った。
その日から毎晩、明と理恵はチャールをくれるようになった。
チャールをくれる合図は、理恵の歌。
理恵はチャールをくれるとき、その高い声で歌う。
「チャール、チャール♪ チュオ・チャールー♪」
理恵の歌を聞くと、ついヨダレを出すようになっちゃった。
毎日、夜が楽しみになった。
早く夜にならないかな。早くチャールを食べたいな。今日も楽しみだな。
そんなことを思いながら、窓際でうとうとしてた。
アタシが気持ちよく日向ぼっこをしていると、明と理恵が、何かを押し入れから取り出した。
アタシにも見覚えがある物だった。ゲージという、二人がアタシとお出かけするときに使う小屋。アタシは、あのゲージに入れられて外に行くんだ。二人に引き取られたときもそうだった。
それに、病院に行ったときもそうだった。
……あれ? なんか嫌な予感がする。
ゲージの蓋を開けると、理恵が、その高い声で歌い始めた。
「チャール、チャール♪ チュオ・チャールー♪」
チャールの歌だ! まだ夜じゃないのに、チャールをくれるの!?
アタシは窓際で素早く起き上がって、理恵のもとに駆け寄った。
ちょうだい! 早くチャールちょうだい!
理恵はチャールの歌を歌いながら、チューブから出したチャールを小皿に移した。その小皿を、蓋を開けたゲージの中に置いた。
わーい! チャールだ!
アタシは、蓋の開いたゲージに飛び込んで、夢中でチャールを食べた。
美味しい! 美味しい!
パタン。
後ろで何か音がしたけど、気にしない。
美味しい! 美味しい!
あっという間に、チャールはなくなっちゃった。
もっと食べたいなぁ。お腹いっぱい食べたいなぁ。
そんなことを思いながら、アタシは食後の毛繕いをした。
……あれ?
いつの間にか、ゲージの蓋が閉まっていた。薄暗いゲージの中。格子状のゲージの壁から、かすかに日の光が入ってきている。
お出かけするの? どこ行くの?
二人は、ゲージに入ったアタシを連れて外に出た。
「あれ? このゲージの蓋、少し壊れてない?」
高い声。これは理恵の声だ。
「あ、本当だ。買い換えないとな」
「じゃあ、メイの二回目の予防接種が終わったら、買いに行く?」
「そうだな」
二人の会話を聞いて、アタシの体の毛は逆立った。
予防接種!?
嫌な記憶が蘇る。皮膚にスースーする液体を塗られて、チクッとして、ブスッって刺されて。凄く凄く痛くて。
嫌だ!
アタシはゲージで暴れまくった。壊れかけのゲージの蓋が、カタカタいってた。でも、開かない。逃げられない。
アタシを入れたゲージを持って、明と理恵は何かに乗り込んだ。これ、知ってる。この臭い。車に乗ったんだ。
ヴゥーン、という小さな音を出して、車は走り出した。アタシ、車が走るこの感覚、嫌い。なんか気持ち悪い。
車はほんの少し走って、すぐに目的地に着いたみたいだ。病院。格子状になっているゲージの隙間から、その壁が見える。白い壁。でも、建物の全体は見えない。
嫌だ! 嫌だ! 帰るの! 予防接種、嫌い!
アタシは鳴いて暴れた。でも、どうにもならない。ゲージの蓋は開かない。カタカタと壊れそうな音を立てるだけだ。
アタシを連れて、二人は病院の中に入った。この臭い。嫌な記憶が蘇る。予防接種の記憶。痛い痛い記憶。
嫌だよ! 帰らせて! お家帰るの!
アタシは必死になって、ゲージの蓋に何度も頭を叩き付けた。前足でバシバシ叩いて、頑張って開けようとした。
パキン。変な音が蓋から聞こえた。パタンと、ゲージの蓋が開いた。
やった! 開いた!
アタシはゲージから飛び出した。ピョンと跳んで、床に着地した。
「あ! メイ!」
明が慌てて、アタシを捕まえようとする。理恵もだ。
嫌だよ。捕まるもんか。予防接種なんて、絶対にさせてあげないんだから!
アタシは、病院内を走り回って逃げた。アタシは人間より足が速いんだ。捕まるもんか。
でも、病院のドアは閉まっている。逃げ出すことなんて出来ない。あのドアは、アタシじゃ開けられない。
このままじゃ、いつか疲れて捕まっちゃうよ。嫌だよ。予防接種、嫌だよ。
アタシは明の足と足の間をすり抜け、理恵の背中を踏み台にジャンプして、ひたすら逃げた。捕まったら、やられる。痛い痛い予防接種をされる。
キィ、と少し高めの音が聞こえた。アタシは耳がいい。明が以前話していたけど、猫は、人間よりも遙かに耳がいいらしい。それに対して、視力はそんなによくないそうだ。人間で言うところの、0.1以下。よくわからないけど。
アタシは逃げながら、音がした方を見た。
病院のドアが開いてた。他の人が入ってきたんだ。
アタシは全力で走って、ドアから外に駆け出した。後ろから明や理恵の声が聞こえたけど、知らない。
予防接種をしようとするアンタ達の言うことなんて、聞いてあげないんだから!
外に出てからも、アタシはしばらく夢中で走った。
外って、凄く広い。固い地面がずっと続いてて、病院の周囲には凄く凄く高い建物があるの。
固い地面を真っ直ぐ走って、曲がり角があったから、アタシは左に曲がった。
走り続けて、また左に曲がって。そのまま少し走って。
疲れて、息が切れてきちゃった。
フーッと大きく息をして、アタシは立ち止まった。
思い切り走ったから、体が熱くなった。どこか涼しいところで毛繕いしたい。
アタシが歩いてる道のすぐ横には、車がいっぱい走ってる。大きくて重そうな車が、アタシの足よりも速く。怖い。あんなのにぶつかったら、死んじゃうかも。
少し歩いたら、人間の家があった。アパート、ってやつだ。ドアがいっぱい付いていて、車も三台停まっている。
アパートの前には、砂の地面があった。日陰になってて、涼しそう。
砂の上で休もうと、アタシはトコトコと歩いた。ジャリジャリとした砂。この感触が気持ちいい。ちょっとひんやりしてる。
アタシは砂の上で寝っ転がって、体中を満遍なく毛繕いした。砂の上って、落ち着く。涼しい。ようやく一息つけた。
毛繕いが終わると、アタシは砂に体を擦りつけた。寝っ転がったまま体をくねらせて、砂でジャリジャリ。
ジャリジャリ、ジャリジャリ。
ああ、気持ちいい。
涼しいところに来て体の火照りがなくなってくると、オシッコがしたくなった。砂の上だから、ちょうどいいや。アタシは起き上がって座り込むと、尻尾をピンと立てた。
オシッコ、オシッコ。シャー。
あー、すっきり。
あ、ついでにウンチもしたいかも。砂の上だからいいか。
アタシはお尻を少し上げて、思い切りお腹に力を入れた。
うーん……んんんんんんっ。
すっきりすっきり。ウンチはちゃんと、砂で隠すんだ。前足で砂を掻いて、ウンチにかける。ザッ、ザッ。ザッ、ザッ。うん、ちゃんとウンチが隠れた。
ウンチをしたら、なんだか気分がよくなってきた。とっても気分がいいの。思い切り笑って、走り出したい気分。
アタシは笑いながら走り出した。
あはははははははははははははははは!
アパートの日陰の中で、笑いながら走り回った。あはははははは! 楽しいな! 走って、近くの車の屋根に跳び乗って。笑って。笑って。
楽しいな。楽しいな。
外って、ちょっと怖いけど楽しいかも。
そんなふうに思い始めていたアタシの耳に、甲高い声が入ってきた。
「あ! 子猫だ!」
理恵の声とちょっと似てる。でも、違う声。この声は、頭の中にキンキン響く。ちょっと苦手な声だ。
「本当だ!」
見ると、人間の子供が三人、アタシの方を見ていた。オスかメスかはわからない。人間の性別なんて、見ただけじゃわからない。まして、子供の性別なんて。
人間の子供は、アタシの方に走ってきた。明らかにアタシを捕まえる気だ!
嫌だ! 怖い!
アタシは車の屋根から飛び降りた。人間の子供が迫ってくる。その足は遅いけど、体はアタシより遙かに大きい。
アタシは怖くて、逃げ場を探した。素早く、車の下に逃げ込んだ。
子供達は、車の下のアタシを覗き込んでいる。手を伸ばして、アタシを捕まえようとしてる。
嫌だ、嫌だよ。怖いよ。
来るな! アタシはシャーッと唸り声を上げて、子供達を威嚇した。口を開けて、鋭い牙を見せつけて。
でも、子供達は、全然怖がらない。なんで!? なんで!? アタシ、牙を見せて脅してるんだよ!? なんで怖がらないの!?
一番小さい子供が、強引に、車の下に入って来ようとした。アタシに近付いてくる。
嫌だ! 来ないで! アタシは肉球から爪を出して、こちらに向かっている子供の手を引っ掻いた。
「痛っ!」
アタシに引っ掻かれた子供は、その手を引っ込めた。
アタシは慌てて、車の下から出た。そのまま、全力で走って逃げた。
怖い! 怖いよ!
明! 理恵! どこにいるの!? 怖いよ! 助けてよ!
アタシは走る。
子供達が追いかけてくる。
アタシは道を左に曲がって、さらに全力で走った。
子供達はまだ追ってくるから、もう一回曲がり角を左に曲がった。そのまま、走り続ける。
走っていると、白い壁の建物が見えた。なんだか、見覚えがある気がした。建物の前に、車が四台停まってる。
アタシは、停まっている車の下に潜り込んだ。
追ってこないで。怖い。怖いよ。
薄暗い車の下で、アタシは体を縮めた。
ここ、どこなの? いっぱい走って動き回ったから、どこに来たか分からなくなっちゃった。
明。理恵。どこにいるの? アタシ、もう、お家帰りたい。お家帰って、日向ぼっこして、ゆっくり寝て。夜になったらチャールを食べたいの。
車の下で体を震わせていると、足音が聞こえてきた。でも、さっきの子供達じゃない。もっと重そうな足音。トコトコ。トコトコ。人間の足音。
足音は、車の前で止まった。しゃがんで、こっちを覗き込んできた。
「あ」
低い声。人間のオスの声だ。大人のオスの声。覗き込んでくる顔は、よく見えない。
「いたいた、この下」
「よかった。いたんだ」
「ああ。この下に逃げ込むの、見つけた」
「どうするの?」
「あれ歌えば出てくるんじゃないか? 持ってる?」
「うん。病院でもらってきた」
「じゃあ、歌って」
人間が何か話してる。二人いるみたいだ。オスとメスの人間。でも、車の下にいるせいか、音が少し反響して聞こえる。聞き取りにくい。
メスの人間が、すう、と静かに息を吸い込んだ。
そして──
「チャール、チャール♪ チュオ・チャールー♪」
え!? 反響して聞き取りにくいけど、この歌って……。
「チャール、チャール♪ チュオ・チャールー♪」
チャールの歌だ! 絶対そうだ!
アタシは車の下から駆け出した。
チャール!? チャールくれるの!?
この美味しそうな匂い、間違いない! アタシの前にヒョイッと差し出されたのは、チャールだった。
わーい! チャールだ!
アタシは夢中で、目の前に差し出されたチャールを食べた。
美味しい! 美味しい!
「よかった! ちゃんと戻ってきたんだ!」
人間のメスが、アタシを抱え上げた。チャールをアタシの口元に差し出したままで。
アタシはチャールを食べながら、抱きかかえた人間を見てみた。
理恵だった。アタシにチャールを食べさせてるのは、明だった。
チャールを食べ終えた。あっという間になくなった。
食べ終えると、アタシは理恵にしがみついた。爪を立てて、離れないようにギュッとしがみついた。
怖かったんだから! 凄く怖かったんだから! 知らないところを走り回って! 子供に追いかけられて! 一生懸命逃げてきて! 凄く怖かったんだから!
チャールは美味しかったけど!
「もう、メイ。心配したんだから」
しがみつくアタシを、理恵は抱き締めた。ちょっと震えてた。
「まあ、でも、ちゃんと戻って来れたんだな」
「うん。よかった」
「じゃあ、中に入ろうか」
アタシを抱っこしたまま、理恵と明は歩き始めた。
あれ? 中って? もしかして、アタシ、自力で家に帰ってきたの?
キィ、とドアを開く音。
ドアが開いた瞬間に、嗅ぎ覚えのある臭いがアタシの鼻に入ってきた。
あれ? この臭いって。
アタシの嫌いな臭い。アタシの嫌いな場所の臭い。
病院の臭い。
「じゃあ、二回目の予防接種、しようか」
ンにゃっ!?
明の声を聞いて、アタシはオシッコを漏らしそうになった。さっきしたばかりだから、出なかったけど。
病院の中にある個室に、アタシは連れて行かれた。
「すみません、先生。連れて来れたんで、お願いします」
死刑宣告みたいな、明の声。
嫌。嫌。
イヤーっ!!
……結局アタシは、今日もやられた。チクッとして、ブスッと刺された。
予防接種なんて、大嫌いだ。
主演のメイさん。現在、オトナの色気漂う4歳❤