第三話
第三話
カフェだ。おっさんの容姿からは全く結構連想し難い、と言うより連想したくないほどに気品のある、そこは俺が今まで避けてきた場所だった。
なぜなら俺は、…コーヒーが苦手だからだ。苦いものは苦手で当然だ、と釈明したい。
「さぁさぁ入った入った。暖かいコーヒーでも出してやるよ、金は働いてくれたらそれでいいよ」
「金取るのかよ」
「悪魔的ジョークだよ」
先刻、ドヤ顔で魔法をひけらかしていた『悪魔』とはとても思えないほど柔らかい口調で俺を招いた。
なおさら胡散臭い。図々しい。ふてぶてしい。
「なな、お前の後輩を連れてきたぜ」
おっさんがそう言うと、店のカウンターの奥からまだ俺と同い年くらいの若い女性、というか、女子がでてきた。
長い髪を一つくくりで束ね、可愛らしいエプロンをつけ、左腕に水色の宝石のような玉のついた腕輪をしている。
「はじめまして。水面ななです。君が新入りくんか。話に聞いてたよりもずっと真面目そうじゃん」
俺の顔をまじまじと覗き込んでそう言った。ただでさえ友達の少ない男子高校生が、同年代くらいの女子と話すことはおろか、目を合わせたことだってないのに、いきなり覗きこまれたら目を合わせにくいよ。
「緊張してるの?ほっぺが赤いよ」
こいつ、ぶっ飛ばしてやろうかと本気で思った。おっさんをこれでもかと言わんばかりに睨みつける。目の前のななという女子は頭にクエスチョンマークを浮かべたようにきょとんとしている。
「はじめまして波空仁火斗です。若輩の身ですが何卒よろしくお願い致しましゅ」
…噛んだ。我ながら丁寧に挨拶したつもりだったのに、第一印象が…阿呆だと思われる。最悪だ。
「おいおい、俺の時はあんた誰だよ、とか言って睨みつけて来たくせに。可愛い女の子相手じゃ恥ずかしくて噛んじまうのか。はー、お前も相当可愛いなぁ。わっはは」
(この野郎、人がいなかったら本当に殴りかかってるぞ、たった今発生した俺にとっての大問題を嘲笑いやがって。)
「君、歳いくつ?」
ななさんは笑顔で聞いてくる。
「七月に誕生日を迎えて今は十六歳です」「そっか、私は十七歳だからお姉さんだ」「歳ひとつ違うくらいでお姉さんなら俺は何さんだよ」
いちいち横槍を入れてくる辺りが鬱陶しい、小説感をなくして言えば、うざい。
それとお前は…
「おじさんでしょ!」
とななさんは俺より一足早くつっ込む。これがたったひとつの歳の差なのか、と関心した。
「いつから俺はおっさんになっちまったんだよ。なぁ、なな。歳とるのって嫌だなあ、俺もお前らと同じくらい若ければなぁ」
酒でも飲んでいるのかと思わせるような物言いとその絡み方に、何故だろう、おっさんは昔からおっさんなのだと観取した。
「ななさん、俺はどんな仕事したらいいですか。なんでもしますよ」
「おっ、なんでもしてくれんのか、それなら、新入りは適当に便所掃除でもしてくれよ」
どこまでもこのおっさんはふてぶてしい。働かせて貰う身でありながらにそう思う、思いたくなくてもそう思ってしまうくらい腹が立つ。
「お前に聞いてねえよ」
と聞こえるように大きな声で言ってから、ななさんの顔を見る。覗き込む勇気はおよそ俺にはない。
「ななでいいよ。敬語も使わくていいし。そうだなー、とりあえず私の仕事見て手伝ってくれる?」
おっさんと違って、このカフェのように気品があって、だけどどこかゆとりのある言い方と口調でななさんは言った。
「わかりました」
「だから敬語じゃなくていいってば」
「わかったよ」
おっさんは頬を赤らめている自覚さえある俺の顔に、中学生が恋バナをしている時のようなにやにや顔で視線を送る。
その日、俺の初めての仕事は、まあ、思ったよりも呆気なく終わってしまった。
ななが一人でこなしてしまったこともあるけれど、しかし、俺の不器用さとポンコツさが露呈しなくて何よりとにかく一安心した。
「仁火斗、今日の仕事は終わった事だし帰るよ」
(あれ?)その言い方だとまるで俺とななの住んでいる家が隣合っているみたい、そうでなければ同じ家に住んでいるような言い方だけど、当然、俺の帰る家はななと同じ家じゃないし、隣合っているわけでもない。
「早くー、置いてっちゃうよー」
…これ以上置いていかれるのは嫌だった。だからななに着いていこうと思い、ななの背中を追って歩いた。
俺って奴は俺が思っているより、全く、単純な奴なのかもしれない。
何もかもどうでもいいことなんてないんだ。
あれ、ここはカフェの裏だよな?
到着したそこは改築工事、とまでは言わないけれど、せめて修繕工事は必要だろう、上に三部屋、下に三部屋、計六部屋のボロアパートだった。
「仁火斗はあそこの部屋ね」
そう言いながらななは、二階の真ん中の部屋を指さした。
どうやらここに住むらしい、働いたことはないから定かじゃないけれど、これもある種の住み込みだろう。
「ななはどこに住んでるの?」
何かあるなんて期待は全くしていない、全く。ただ少し、ほんの少し気なっただけに過ぎない。
「私の部屋は仁火斗の左どなりの部屋だよ」
あまりにも急展開すぎる始まりが故に、読者がついていけてるのだろうかと一抹の不安を覚えたが、そんなことは俺の考えることじゃない。
急展開だけれど、割と素直に、こうなる運命だ、と始めからわかっていたかのような妙な落ち着きさえあった。
「おじさんのことだからまだまだ聞かされてないこともたくさんあると思うけど、その辺は明日にでものんびり説明するよ。今日はおやすみ」
「ありがとう、なな。おやすみ」
これから、俺はこのボロボロのアパートで生活していくのか、マンションは三人家族だった俺には少し広いくらいだったし、親がほとんど家にいなかったからより広く感じていたけれど、さて、このアパートはどれだけ広いんだろう。
と、そんなことを思いながらこれから始まる新生活の拠点となる目の前の部屋の扉を勢いよく開けた。
否、開かなかった。
「ごめんごめん、鍵渡すの忘れてた」
「俺も鍵もらうのすっかり忘れてたよ」
勢いよく扉を開けようとしたことを、いや違う、勢いよく扉を開けようとして開かなかった羞恥を弁解にもならない弁解で誤魔化そうとしたけれど、ななはくすくす笑って自室に入っていく、その様子を見届ける。
いや、よくよく考えたら笑われるのは筋違いだろうと思ったけど、ななが笑っていると安心する。
ガチャり、と大きな音が鳴るくらい思い切り鍵を回し、今度こそ勢いよく扉を開けた。
「ただいま」
一度も訪れたことのない部屋に、まるで今まで自分が住んでいたかのように、(最も俺は自宅に帰って『ただいま』なんて言ったことないんだけれど。)それが俺にとってのありふれた日常のごくごく当たり前の言葉のように、清々しい気持ちで挨拶した。
まぁ、普段から挨拶している人間なら清々しい気持ちなんて微塵もないんだろうけど。
再三再四驚きの連続だ。今まで誰かが住んでいたのか、それともあのおっさんが用意したのか、はたまたななが用意したのか、この部屋には家具一式が揃っていた。それどころかちょっとしたインテリアまで備えてある。何故だろう、落ち着く、落ち着ける。
てか待てよ、俺の家の家具とほとんど同じじゃねえか。
未だかつてないほどの経験を、俺はまだ整理しきれてはいないのだけれども、禍々しい中指の指輪も輝いて見えるほどの奇跡体験をしたんだ。
そう思うと今までの人生が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
これから訪れる更なる奇跡は、刺激的で喜劇的で、時に悲劇的かもしれないけれど、きっと俺を激的に変えるんだ。
これからの人生を俺はそう言いきれる自信がある。
とても摩訶不思議な一日だった。
風呂の沸かし方が今ひとつ分からなかったのでシャワーを浴びるだけにした。やはりご丁寧にシャンプーとリンスとそれからトリートメントとこれ以上はきりがないので省略するけれど、生活用品は全て揃っていた。
まるで俺がここに来ることを、この部屋が知っていたかのように。…というのも生活用品は用意周到、準備万端、俺が普段使用しているものばかりだった。勝手に引越しでもしたんだろうか。
考えるだけでは結論に至らないどうでもいいことを考えながらベッドに入った。
…久しぶりに温もりを感じた。