第零話
第零話
朝。いつも通りの朝。
僕はまだ半分くらい開いていない、重たいまぶたを懸命に上げ、あくびをしながら、朝食にトーストを二枚、イチゴジャムをたっぷりと塗って食べ、コーヒー片手に新聞を読む。
なあんて、悠長にしているほど暇じゃない。早く仕事の準備にかからねば、飛行機は僕を置いて空の彼方へと、虚しく消えていく。
…親友が、憧れが、虚しく消えていったのは、今からもう十年くらい前のことになる。
否、置いていったのは僕だった。
っと、今日もまた感傷に浸って、準備をすっかり忘れていた。急がないとまた不気味で薄気味悪い、高校生が不敵な笑み浮かべながら急かしにやってくる。
ピンポーン、とインターフォンが、僕しかいない小さな部屋に鳴り響き、コンコンとノックする音が続いて響く、部屋にも心にも。
「あと五分待ってくれ」
ドンッ!ドンドン!ガンガンガンガン!ただでさえ防御力の低いドアなんだから力いっぱいに殴るのはやめて欲しいけれど、遅れているのは僕に違いないから叱るに叱れない。
それから僕はあたふた、おろおろとしながらもようやく準備を終え、オンボロアパートのオンボロドアを開けると、さっきまでドンドンガンガンドアを叩いていた無礼者とは思えないほど礼儀正しく起立している高校生は、僕よりも早く挨拶した。
「おはようございます仁火斗さん。今日も元気なご様子で、これはこれはボクも嬉しく思う所存でございますますですよ」
彼女の目は真っ黒い。何を考えているのかまるで分からない、検討もつかない、けれど彼女と僕の考えていることはいつだって同じだ。否、似て非なる。
「君は相変わらず謎だなぁ」
「おやおや、仁火斗さん挨拶がまだですよ。それに、純粋無垢な高校生に対して謎だなぁなんて、全く失礼極まりない。やれやれですよ」
「おはよう。君は一体全体何者だい?」
と、いつもどおりに、半分呆れ気味に僕は尋ねる。
「ボクは何者でもあり何者でもありません」
そう言ってナニカくんは僕に笑顔を浮かべる。何を考えているのかまるでわからない、真っ黒い不気味なその目にはおよそ僕は写っていない、何も写っていない、ただひたすらに、どこまでも、尋常じゃないくらいに、黒い。彼女はくるりと一回転する。彼女の美しくすぎるほどに美しいそのターンに魅入ってしまい、吸い込まれそうになる。
その姿は、さながらブラックホールだ。
「おや、仁火斗さんトレードマークがありませんよ」
そう言って彼女は僕の左手を、大袈裟に振り下ろした右手の人差し指で指し示しす。
「ほんとだ。大切な指輪をつけ忘れるなんて、僕としたことが迂闊だったよ」
「…そのセリフ昨日も聞きました」
こんな所で立ち話に花を咲かせている場合ではないと、急いでオンボロアパートのオンボロドアを開け棚の上にある、紅い輝きを放つ魑魅魍魎の指輪を手に取ろうとした。
「ばあ!」
「うわぁ!なんだよ、びっくりした。目玉が飛び出るかと思ったよ」
「目玉が飛び出た時は僕の目をくり抜いて差し上げますよ」
(差し上げられてたまるか、君の不気味な目なんて。)というセリフを呑み込んだ。
フッフッフッ!ナニカくんは不敵な笑みを浮かべた。いや、君の場合は不敵な笑みって例えるより、不気味と例える方がしっくりくるよ。
「オンボロアピールはいいですから早くしてくださいよ。未成年を待たせるなんて全く、仁火斗さんは不躾だなぁ。それに、立ち話をしている時間が無いほどに時間がないのにそんなにのんびりぬくぬくしていては遅刻してしまいますよ。ああそうだ、忘れたとは言わせませんよ、この前だって仁火斗さんがボーっと写真を眺めながら感傷に浸っている間に飛行機がボクらを置いて飛びったって行ったじゃないですか。しかも、指輪を忘れていくだなんて、ドラえもんが四次元ポケットを忘れてのび太くんを助けに行くようなものですよ。一体何をお考えなのですか?いいえ、あなたは何も考えていませんね。ボクには分かります。全く、愚かだなあ。ほらほら、急いでください。めくるめく展開が待ち受けてるボクとあなたの物語を、主人公であるあなた自身が遅刻だなんて。最初の数ページが白紙で始まる小説のようなものですよ」
「背後から驚かせて急かしているだけの描写でページを埋めかねないセリフをつらつらと、のべつまくなしに述べた君に急げと急かされる筋合いは毛頭無いよ」
「ええ、間違いありません。こんな言い合い不毛ですね」
彼女は再び笑顔を浮かべた。
指輪をはめた。
こんな指輪がなければ、僕はこんなおぞましい仕事はしていないだろうし、不気味なナニカくんと仲良くお話することもなかっただろう。けれど、この指輪がなければ出会えてさえいなかったのかもしれない。
普段から指輪を置いている棚の上にある写真を見て、毎度のように感傷に浸る。
そこには僕の大切な仲間が写っている。骨肉の争いの末に。…これ以上は、言えない。
「やっと、準備を終えたようですねえ。それでは参りましょうか。仁火斗さん、ボクたちの大冒険に!!」
「はぁ、大冒険なんてしねえよ。それに、君がボク達なんて言ったら僕が脇役みたいじゃないか、この物語の主人公は僕なんだ。もう少し語らせてくれよ」
「大分、自己主張の激しい主人公ですね。最近はそういう主人公ウケませんよ。逆にウケるー」
バカにしたような口調で僕をからかう彼女は、どこか、からかい上手の○木さんみたいだ。もっとも、そんな可愛らしいもんじゃないけど。
そんなこんなで僕の物語が始まります。