奔流(1)
「え、それで叶江おばさん、会社がつぶれても別れなかったんだ」
「騒がなかったの?」
「騒いだよ」
「騒いだんだ。そりゃそうか」
「でもね、おじさん相手だと喧嘩にならないんだよね~」
放漫経営と先々代から続く散財で、再建の見込みはまったくなかったが、花実は素直に現実を受け入れた。
花実は派手で美しい妻におずおず伝えた。
「あのね、僕は相続放棄しようと思うんだ」
叶江はまるで興味なさそうだった。
「ふーんそれで、生きて行けんの?」
「うん、借金は大丈夫なんだけど…僕、普通のサラリーマンになるからお手伝いさんとか無理で…」
「は?何言ってんの?嘘でしょ!?」
「もうちょっと小さい所に引っ越して…家財もだいぶ整理しないといけないけど…いい?」
「やだもう。最悪!」
「それでごはん作って掃除洗濯できたの?そもそも、おばさんって料理作れるの?」
「花嫁学校に通ってたから一通りはできるらしかったよ」
れいらは笑った。
「信じられない。ちょっと想像できない」
「おばさんいわく、私は優秀だからやろうと思えば何でもできるのって言ってたよ。優秀だからってそこはほら、強調してた」
この店は昭和五十年代には珍しく、喫煙席と禁煙席を分けている。
喫煙室は赤い椅子、禁煙室は黄色い椅子だ。
仕切りはないワンフロアなので、同じ空間で何人もが煙草をくゆらせているのに、空調設備がよほどうまく働いているのか、不思議なことにまったくといっていいほど禁煙席に煙の臭いはしてこなかった。
れいらは手を伸ばして咲菜の背を軽くたたく。
「まあ、要はブタだからって関係ないってことだ。さきなもさ、気にすんなってことよ。いい人なんでしょ?」
「そうだけど…」
咲菜は携帯の電源を切って机に置きながら指摘した。
「まあちゃん、さっきからメッセージ入ってるよ」
「あー」
真亜子の茶色の瞳に翳りが落ちた。ふわふわと肩に垂れかかる髪を押さえて携帯にかががみこみ、れいらは咲菜に催促した。
「で?写真は?」
「ダメ!」
「さっきあんなにのろけたくせに、写真見せないなんてあり?」
「せっかく今、気持ちが盛り上がってるところに、容姿のこと何か言われるのが怖いの!」
咲菜はありったけの力を振り絞って言い返した。拳を握って爪がてのひらに食い込んでいた。
「れいらちゃんは、ひとを本気ですきになったことないでしょ」
「ない!」
れいらははっきり答えた。
「ないよ。恋愛しないのがおかしいこととも思わない。そういう考えの子けっこういると思う」
頬が真っ赤になっている咲菜に向かって、れいらは容赦なかった。
「叶江おばさんは潔いわ。好きで付き合ってるんなら顔のこと気にするなんて相手に失礼でしょ!」
咲菜の表情が急にゆるんだ。握っていた手から力が抜け指を開いた。れいらの腕にそっと触れ、小さな声で言う。
「ありがと」
咲菜は立ち上がった。
「おトイレ行って来る」
「行ってらっしゃい」