16ノ夜【誘い】
将也の頬を涙が伝っていた。
自分では、何時の間にか彼女と遊ばなくなった理由は判らないと思っていた。
彼女が何処かへ引っ越したか、それとも大きくなった為に小さな自分とは遊ばなくなったのか。そんなふうに勝手に考えていた。
たま美は彼を救う為に全ての力を使い果たして、暮色に染まる褐色の水の中に沈んでいったのだ。
将也はその事を家の人には言わなかった。
彼女の家族は心配して周囲を探し続けたが、当然たま美は見つからなかった。
翌日警察に捜索願が届けられ、その二日後の朝、彼女は立ち入り禁止の立て札のある水路の中から発見された。
そして将也は自分に対する罪悪感を消し去る為に、記憶そのものを封印したのだ。
それは人が生きてゆく為に必要な、防衛本能が生み出す逃避行動だ。
「俺……俺、怖かったんだ。怖くてどうしようも無くて、たま姉ちゃんの事いえなかったんだ」
将也は子供のように泣き叫んだ。
「いいのよ。マー君」
将也は何時の間にか玲美の胸に抱かれていた。
自分から歩み寄って彼女の前で膝を着いた。
玲美も同じく歩み寄っていた。そして、その胸に将也の頭を抱え込む。
「いいのよ」
優しく彼女の声が、将也の頭蓋に響く。
「ボクが家の人に教えていたら、たま姉ちゃんは死ななかった?」
「もう手遅れだったわ。だからマー君のせいなんかじゃないのよ」
玲美は優しい口調で言った。将也は彼女の身体にしがみ付いた。
「大丈夫。大丈夫よ。マー君」
玲美の手が、将也の短い頭髪を撫でた。
「行こう」
彼女は静かに言った。
「行くって……何処に?」
将也は玲美を見上げた。
「あたしと一緒がいいでしょ。一緒に行こう」
玲美が将也の手を掴んだ。
ひんやりと冷たい感触が将也の手に沁み込む。
呆然と彼女を見つめる将也は、人肌とは違う異様な温もりを感じていた。
「ダメだ」
将也は我に帰って彼女の手を振り払うと、その場に立ち上がった。
「俺は行けない」
「どうして?」
今度は玲美が将也を見上げていた。
「俺は死んでない」
「死んでなくても大丈夫よ」
彼女は口角を上げて微笑むと、その言葉に付け加えた。
「大丈夫、これから死ねば」
玲美は、再び将也の手を掴んだ。その力はさっきまでの優しさの欠片もなかった。
「やめろ」
将也はそれを振り払おうとしたが、玲美の力はとてつもなく強くてビクともしない。
「あたしと一緒に行こう」
彼女は将也の身体ごとその手をズルズルと引っ張った。
優しい笑みとは裏腹に、その力は暴力的だった。
「違う、お前は人形だろ。お前はたま姉ちゃんじゃない」
「私がたま美よ。人形の魂と融合したのよ」
「融合?」
思わず抵抗する将也の動きが止まる。
「あたしが死んだ時、その魂はマー君にあげた人形に転移したのよ」
「ウソだ」
「ほんとうよ。それなのに、あなたはそれを捨てた」
風にそよいでいた彼女の黒髪が、孔雀の羽のように大きく扇状に広がって逆立った。
将也は彼女の手を振り払おうとしたが、手足に脱力感が広がって何時もと同じ力が出ない。
「やめろ、やめろ、やめろ」将也は何度も叫んだ。
ドンドンドンドンドン、ドンドンドンドンドン!
何かを激しくい叩く音が聞こえていた。
ピンポン、ピンポンピンポン!
ドアチャイムの音に混ざって再び何かを激しく叩く音。
ドンドンドン! ドンドンドン!
不規則な耳鳴りのように、喧騒が頭の中に入り込む。
「おい、将也! どうした、将也!」
遠くで自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
将也は目を見開いた。
真っ暗な世界が飛び込んできた。
何度か瞬きをすると、自分の居場所がようやく浮き上がった。
そこはアパートの自室。
彼は床に仰向けに横たわっていた。
ベランダへ出る大きな窓からは僅かな月明かりが注いでいる。
起き上がって周囲を呆然と見渡す将也だったが、玲美の姿は何処にも無かった。
ドンドンドンッ……再び音がして、それがドアを叩く音だとようやく気がついた。
「おい、どうしたんだ。将也!」
玄関の外から信二の声が聞こえていた。
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次回、最終話です。