15ノ夜【水面】
「もうそこにはあの人形はないわ」
そこに立っていたのは玲美だった。
アパートの階段を下りた場所で、小さな常夜灯に照らされながら、そよぐ風に黒髪を揺らしていた。
いや、実際は風など吹いてはいなかった。
「キミは、たま美姉ちゃんなのか?」
将也はそう言って直ぐ、それを自分で否定した。
「いや、そんなわけがない。彼女は俺より三歳年上だった。いま高校生のわけがないんだ」
将也は自分でも気付かないうちに、後ろへ少しずつ下がっていた。
「キミは誰なんだ。どうして俺をそんなふうに呼ぶんだ」
「あたしよ、マー君」
玲美は静かに笑った。
「違う。違う」
将也はぶるぶると首を横に振る。
「あなたがあたしを捨てたからよ」
「何を言ってるんだ。俺が捨てたのは人形だ」
そう言った将也は自分の言葉に背筋が凍りついた。
「お前は、やっぱりあの人形だったのか?」
そんなバカな事があるかと思いながらも、つい出た言葉だ。
「あたし、探したのよ。マー君」
「探したって、何を」
「マー君の家よ」
「俺の家?」
「探したわ。人形と一緒に」
「人形はお前だろ」
将也の声は震えていた。
「マー君……」
「その名で俺を呼ぶな」
将也は思わず叫んだ。
闇に閉ざされた記憶が蘇えった。
その名で呼ばれたくはない。
太い鎖でがんじ絡めに封印された記憶。
幼かった将也が自己の精神を防衛する為に深く葬り去って鍵をかけ、自分すら辿り着けないように固く閉ざした記憶。
……思えば、たま美もまた黒髪の美しい少女だった。
「マー君、危ないよ。ここは入っちゃいけないって書いてあるんだよ」
「だって、ここの方が大っきなザリガニがいるんだよ」
小学校二年になった将也は、たま美と一緒に大きな堀の岸辺にいた。
その堀は水田に水を引く水路に繋がる為、何時も水位があって危険な場所として指定された区域で、両脇は金網で囲われて立ち入り禁止になっていた。
しかし、こういう場所は誰かが必ず忍び入る。
その誰かの開けた金網の小さな穴は、子供たちの冒険心をくすぐるのだ。
夏休みのある日、学校の友達の家に遊びに行った帰り、たま美はその堀にいる人影が将也だと知って声をかけたのだ。
黄昏の迫る田んぼ周辺の草むらから、カエルの鳴き声が聞こえていた。
彼はいっこうにそこから出る気が無いので、仕方無しにたま美も金網の小さな穴を潜った所だった。
「ここは水が深いから危ないんだよ」
「大丈夫だよ」
そう言って将也が覗き込んだ先には、赤々と大きなハサミを振りかざすザリガニがいた。
将也は持って来た小さな網を静かに水中へ忍ばせた。
それに気付いたザリガニが、水草の茂る泥の中に素早く逃げ込もうとした。
将也はもっと深く網を入れる。その時彼の靴が湿った土で滑り、体ごと堀の中に転げ落ちた。
「マー君」
飛沫を上げて水の中に投げ出された将也を見たたま美は、声を上げた。
慌てて周囲を見渡すが、夕暮れの中に人影は無かった。
「マー君」
バシャバシャと水を激しく叩いて暴れる将也に向って、たま美は懸命に手を差し出した。
しかし、その手は全く届かない。
後に掴まる場所もないから、思い切って身体を伸ばせないのだ。
「マー君」
「たま姉ちゃん……」
小学二年生の将也にはその堀はあまりにも深かった。
水草の生える岸辺は浅いのだが、人工的に削った水路の中央は急激に深くなっている。
たま美は思い切って水に飛び込んだ。
泳ぎは決して得意ではなかったが、自分を慕う将也を助けないわけには行かなかった。
少女の中に眠る確かな母性本能が、そうさせたのかもしれない。
「お姉ちゃん」
「マー君。しっかり」
沈みかける将也をたま美は必死で支えようとした。洋服があっという間に水を吸って、思いの外身体が重くなる。
浮力に逆らって、身体が沈み込もうとする。
「早くこっちへ。頑張って上がるのよ」
将也はたま美に押されるようにして必死で堀の岸辺を這い上がった。無我夢中で伸びきった雑草にしがみ付いた。
岸辺の泥が足をすくい、踏ん張る事ができない。
濡れた手がすべり、やっと掴めたかと思うと雑草はブチブチとちぎれて、なかなか前に進めなかった。
何度も草を掴む手は、その葉で切られ赤い血が滲んでいたが、そんな事を気にとめる余裕は無かった。
後から必死で押し上げる力が加わって、将也は何とか岸に這い上がる事が出来た。
ほとんど力尽きていた。
たくさん水を飲んだ為に気持ちが悪い。
ずぶ濡れの顔を、涙が止め処なく伝う。
手足は岸辺の泥で真っ黒だった。
そして、将也がようやく息を整えて後ろを振り返った時、堀の水面は静かに波打っているだけで、たま美の姿は何処にも無かった。
暮色に染まる小さな雑木林から、ひぐらしの声がけたたましく鳴り響いていた。