榎崎くんは平方根を教えてくれる
朝の教室。
いつも通り予鈴の五分前に、榎崎くんは読んでいた本を閉じて鞄にしまいます。
その一瞬を見逃さないのが、私です。さすが私。
サッと椅子から立ち上がり、スッと榎崎くんの机の横に立ち、そっと持っていた紙を両手で榎崎くんの前に掲げます。
本をしまう体勢から顔を上げた榎崎くんは、急に目の前に現れた紙を見て、ちょっと驚きます。
そのちょっと驚いた表情のまま、紙の上方の私の顔を見て、下に戻って紙を見ます。
ちなみに榎崎くんの席は窓際のいちばん後ろなので、もし私が持っている紙が榎崎くんへの恋文だとしても、この持ち方なら教室のみんなからは見えません。
「……榎崎くん、どう思いますか?」
沈黙に耐えられなくなって、榎崎くんの思いを尋ねます。
「んー……どう言ったらいいものか」
榎崎くんは足を組んで腕を組んで、私の方を向いて悩んでいます。
「早く答えてほしいです。こうやって見せてるのも恥ずかしいですから」
顔赤くなってないかな、私。両手で紙を持ってるから、隠すこともできないです。
「えーと……本気なんだよね?」
「もちろんです。真剣に考えた結果が、これです」
女の子の本気を疑うなんて、榎崎くんはちょっと失礼です。
「それもそうか、ごめんね」
許しますから、どう思うかを教えてください。
「じゃあ、一緒に――」
はい、読んでくれてるみなさん、本当にありがとうございます。
第四話にして、ようやく甘酸っぱい青春がはじまるのか、と期待された方もいるかもしれません。
しかし、残念ながら私が持っている紙は、決してらぶ・れたーなどではございません。
うれしはずかし恋の予感とは正反対、数学の小テスト平方根ばーじょん、二十点満点で二点の私の答案なんです……!
恥ずかしいっていうのは共通してましたね。
というか、そもそも! この勉強好き好きくんは、女の子に興味あるんですか?
好きです、なんて告白しようものなら、高校生の間は学業に専念したいからごめんねベイビー、とか言うのではないでしょうか。
あ、考えたらちょっと悲しくなってきました。お話の続きに戻りましょう。
「――平方根の勉強しようか」
「わーい、ありがとうございます、榎崎くん」
お礼を言う私の顔を不思議そうに見上げる榎崎くん。まずい、声に元気がなかったみたいです。
「大丈夫、平方根はちゃんと理解すればできるようになるよ」
榎崎くんは、優しいです。
「はい! よろしくお願いします!」
椅子を寄せて榎崎くんの隣に座ります。いまは、平方根を教えてもらいましょう。
「あ、ノート……」
「いや、この答案があればいいよ」
腰を浮かそうとした私に榎崎くんが言います。そうですね、私の答案は伸びしろを感じる素晴らしい教材です。
「さて、平方ってどういう意味?」
「へいほー、へいほー……小人が歌っているやつです」
「違うし、ふざけてるし、ヘイホーじゃなくてハイホーだし」
タイミングよく、コツッコツッコツッとペンのお尻で机をたたく榎崎くん。怒られちゃいました。
「平方は、にじょう。同じ数のかけ算のことだね」
そっちですかー、とおでこに手をやります。あちゃー。
「平方の根っこ、にじょうのもとになるのが平方根」
「……さんのにじょうがきゅうになるから、さんはきゅうの平方根?」
榎崎くんは頷きながら、さんかけるさんいこーるきゅうを答案の余白に書きます。わーい正解です。
「でも惜しいな。にじょうしてきゅうになるのは、もうひとつある」
「……まいなすさん!」
さっきの数式の下に、まいなすさんかけるまいなすさんいこーるきゅうを書きます。今度こそ、わーい正解です。
「じゃあ、にじょうしてご、になるのは?」
にじょうして、ご? そんな数あるのかな。にかけるにはよん、さんかけるさんはきゅうです。
「整数じゃなくてもいいよね」
なるほど、確かにそうです。目からうろころころ、灯台もとくらくら。
「うーん……にーてんに、ぐらい?」
榎崎くんは、にーてんにとにーてんに、のかけ算を計算してくれる。よんてんはちよん。すごい近い!
もうひとつ、にーてんさんとにーてんさん、のかけ算もする榎崎くん。ごーてんにーきゅう。超えちゃった!
榎崎くんは、書くのを止めない。
にーてんにーごかけるにーてんにーご、ごーてんぜろろくにーご。
にーてんにーよんかけるにーてんにーよん、ごーてんぜろいちななろく。
にーてんにーさんかけるにーてんにーさん、よんてんきゅうななにーきゅう。あ、惜しいです。
にーてんにーさんごかけるにーてんにーさんご、よんてんきゅうきゅうごーにーにーご。
「榎崎くん……」
このままだと、榎崎くんが永遠に数学の世界から帰ってこないかもしれない!
そう思った私は、いっしょうけんめいな榎崎くんの右手の袖をつまみました。
なぜか手が動かしづらいぞ、と我に返る榎崎くん。袖をつまんでいる私を見つけて、ちょっと恥ずかしそうに微笑みます。
「……ごめんね、どこまで計算できるだろうって思っちゃった」
「おかえりなさい、榎崎くん」
私は榎崎くんの袖を放します。きゃっち安堵して、りりーすです。
「ただいま……?」
首をかしげながら言う榎崎くん。かわいい。
「さて、計算したからわかるけど、にじょうしてご、になる数はにーてんにーさんほにゃららほにゃらら」
ほにゃほにゃ言う榎崎くん、かわいいなあ。
あっ! まずい、勉強に集中しないと!
首を振って、かわいいモードを解除します。
「きれいな数にならなくて、いちいちにーてんにーさんー……なんて言うの大変だから、ここで使うのが?」
「るーとです!」
正解、と言いながら答案に書いてあった、るーとごを丸で囲む榎崎くん。
「このるーとの記号は、きれいな数にならない平方根を表現するのに使うんだね」
「きれいな数になるやつだと、使えないんですか?」
最初に話したきゅうの平方根とか。
「一応、書くことはできるよ」
そう言いながら、ぷらすまいなするーときゅう、と書く榎崎くん。
「でも、きゅうの平方根はきれいに出るから」
ぷらすまいなするーときゅうの隣に、いこーるぷらすまいなすさんを書く榎崎くん。
「簡単に書けるから、その方がいいんですね」
「そうだね。でも、おかげでるーときゅういこーるさんってことがわかったから、このまま次にいこう」
いい質問だったみたいです。やったー。どんどんいきましょう!
「るーとごかけるるーとご、いくつになるかな」
るーとごは、ごの平方根で、にじょうしてご、になる数ですよね。
「ご、です」
右手をパーにして答えます。
「じゃあ、るーとにじゅうごは?」
るーとにじゅうご? にじゅうごの平方根かな。
「ご、です」
今度は左手をパーにして答えます。なんとなく、両手をふりふり。榎崎くんは気づかなかったです。下ろしましょう。
「同じ値になるってことは、この式が成り立つ」
るーとごかけるるーとごいこーるるーとにじゅうご、と書く榎崎くん。
「かけ算ができるんですね」
榎崎くんは頷いて、るーとにかけるるーとさんいこーるるーとろく、と書きます。ふむふむ。
「これを使って、問題を解き直してみよう」
答案の中、間違えた問題のひとつを指す榎崎くん。
「るーとじゅうに、を簡単にしなさい……」
にるーとろくって書いて、ばっどばつばつだったやつです。
「……わかりました! るーとよんかけるるーとさんだから、にるーとさん!」
るーとよんは、よんの平方根だから、にになります!
「はい、よくできました」
わーい! よくできましたをもらいました。コレクションしておきましょう。
確かに榎崎くんの言う通り、仕組みを理解すれば簡単かもしれないです。
「あとは有理化だけど……」
そう言いながら、時計を見る榎崎くん。あ、もう予鈴が鳴ります。残念、ここまでですか。
「もしよかったら、今日のお昼休みに時間取ってもらっていいかな」
終わらなかったからね、と申し訳なさそうな榎崎くん。
「……むしろ、いいんですか?」
すごい嬉しいのを隠して、申し訳なさそうに聞き返す私。
うん、と榎崎くんが頷く。思わず笑顔になってしまう私。隠しきれなかった。恥ずかしい。
「すごいスピードでお昼ごはん食べます!」
「ふふ……そんなにかからないから、ごはんはゆっくり食べな」
こぶしを握り込んで宣言したら、ちょっと笑われました。
「とりあえず、ここまでは解き直せると思うから」
答案に線を引いて、私に渡してくれる榎崎くん。半分ぐらいのところに線が引いてあります。
「時間見つけて、確認しといてね」
「わかりました!」
元気よく返事をして、椅子を戻して座ります。
少しでも確認しようかな。
そう思って答案を見ると、榎崎くんが書いてくれた数式とか計算がたくさん。
なんだか嬉しいです。えへへ。がんばります。
「ひとよひとよにひとみごろ……」
「榎崎くん?」
「ひとなみにおごれや……」
「奢ってほしいんですか?」
「ふじさんろく、おーむなく……」
「榎崎くんが数学の世界にいってる」
「によよくよく……」
「によによ言ってる榎崎くん、かわいい」
「なに、むしいない」
「いなくてよかったです」