第15話 メルディさん、ぎゃふん
図書館でアンドリュー=オルクと出会ってから三日が経つ。
ソフィアは、履歴書の添削のため公共職業安定所マンデリン支部の従業員メルディ=サキュの許に訪れていた。
「メルディさん、さぁいつでも良いですよ」
ソフィアは、意地の悪い表情を浮かべると、空となった袋を名残惜しそうに見つめるメルディに言い放つ。
メルディは、その言葉に正気を取り戻したのだろう。視線を袋からソフィアに移す。
「……本当に言わなければいけない?」
メルディはサキュバス族の中でもかなり際立った容姿だ。
魅力的な女性に上目遣いで言われれば、特殊な性癖を持つわけでもない男性であれば何でも言うことを聞いてしまうだろう。
だが、残念なことにソフィアは女性だ。つまり……
「だめですよ。賭けに勝ったのは、私なんですから」
ソフィアは、メルディに可愛らしい笑みを浮かべる。
直前に、ソフィアとメルディはある賭けをしていたのだ。
その賭けに勝ったのはソフィアで、負けたのはメルディ。そのため、メルディには、契約を履行する必要がある。
「うぅ……」
メルディもそれを理解している。
だが、恥ずかしいのだ。そのため、恨みの籠った視線を向けるものの、ソフィアはまるで柳に風といったように笑みを崩さず、視線でメルディを急かす。
これ以上、駄々をこねても回避できないと判断したのだろう。
メルディは腹を括ることに決め、息を吸って肺に空気を満たすと……
「ぎゃふん!」
顔をリンゴの様に真っ赤にしつつも、半ばやけ気味にそう言い放ったのだった。
時刻を遡ること半刻前。
「うん、大分良くなったわよ」
メルディが、ソフィアの持ちこんだ履歴書の下書きから視線を上げると微笑みを浮かべる。言葉の意味を理解したソフィアは、緊張した面持ちからまるで花が咲いたかのように表情を明るくさせた。
「本当ですか!」
「ええ。これなら言いたいことは、しっかりと伝わるわ。あとは、チェックを入れた箇所の言葉が少しおかしいからそれを直して清書すれば大丈夫よ」
「はい!」
メルディから履歴書を返されると、ソフィアは嬉しそうに受け取る。
そして、カバンからファイルを取り出すと履歴書をしまって鞄の中に戻す。それを見届けたメルディは、心配そうな表情をしてソフィアに問いかけた。
「けど、本当にいいの?」
「はい?」
突然のことで、ソフィアはメルディの問いかけの意味が分からないのだろう。
膝の上に鞄を乗せた状態で、首を傾げる。
「魔王軍の事よ。
貴方ならば、別の企業と言う手もあるんじゃないの?今は、景気も悪くないことだし、他を探せばいくらでも見つかると思うわよ」
「ああ、そのことですか……」
ソフィアは、メルディの言っている意味に気づいたのだろう。
確かに、メルディの言う通り魔王軍に拘る必要はない。
シュナイダーというマンデリン一の料理人がいると言う魅力はある。だが、シュナイダーに劣るとは言え、マンデリンには腕の立つ料理人はいくらでもいるのだ。
メルディの言葉に、ソフィアは一息吐くと言った。
「私は運命と言う言葉を信じています」
「えっ?」
ソフィアの突然のカミングアウトにメルディは間の抜けた声を上げる。
そんなメルディの様子を余所に、ソフィアは続けた。
「人と人との出会い。それには、必ず理由があると考えています。だからこそ、シルヴィアに出会ったことや魔王軍の求人票を見たこと……シュナイダーさんやアンドリューさんとの出会いには、意味があった。昔、母が言っていた言葉です。私も、最近ではそう思うようになりました」
「だからこそ、魔王軍に決めたの?他にやりたいことはないの?」
「ありません……ただ、魔王軍にはマンデリン一の料理人シュナイダーさんがいます。その人の下で学び、いつか追い抜きたい」
メルディは、普段のソフィアの様子からは感じられない強い意思を感じたのだろう。ソフィアと視線を合わせた後、頬を緩める。
「ふふ、そんな顔もできるのね……分かったわ、もうこれ以上何も言わない。頑張ってきて」
「はい」
メルディの激励の言葉に、ソフィアは頬を緩ませる。
そして、カバンの中に視線を落とすと……
「あっ」
そこには、お店で購入したおしゃれな袋が入っていた。
中身はソフィアが昨日作ったクッキーだ。メルディに食べてもらおうと持ってきていたのだが、渡すのを忘れていた。
「メルディさん、昨日クッキーを焼いて来たのですが、もし良ければ食べて下さい」
「わざわざ作って来てくれたの?」
「いえ、お気になさらないで下さい。
シルヴィアの同僚の方にキャロットクッキーを作って欲しいとせがまれまして。クッキーにニンジンを混ぜると言う発想がありませんでした。作っているうちに、楽しくなって作り過ぎただけですよ」
アッサム王国にはミキサーがなかった。
手作業だとかなりの手間がかかるため、今までニンジンをクッキーに混ぜると言う発想がなかったのだ。 キャロットクッキーを作っているうちに、カボチャやほうれん草、トマトなど冷蔵庫に入っていた野菜を使って大量に作り過ぎてしまった。
せっかくだからと考え、メルディにお裾分けに持ってきたのだ。
「そうね。いい機会だから、貴方の料理の腕を見せてもらおうかしら……魔王軍一の料理人を目指す貴方のね」
メルディは、ソフィアからクッキーの入った袋を受け取ると言った。
ただ、言葉とは裏腹に試しているような表情ではなく、冗談で言っているのだろう。ソフィアは、メルディの内心を理解して微笑んだ。
「二人から太鼓判を押されていますから、絶対に「ぎゃふん!」と言わせて見せます」
「ふふっ。美味しかったら、いくらでも言ってあげるわよ」
ソフィアの言葉に、メルディは微笑むと承諾する。
そして、この瞬間賭けは成立したのだった。
「言いましたね、絶対ですよ」
「ええ、もちろん。だけど、私の基準はかなり厳しいわよ」
メルディは以前の話し方からシュナイダーとはそれなりに親しい関係にあるのだろう。
シュナイダーの料理を食べた経験も多そうで、舌が肥えている自覚があるようだ。そのため、簡単にはぎゃふんと言うことはないだろう。
「望むところです」
「じゃあ、開けさせてもらうわ」
メルディはそう言うと、ピンク色のリボンの結び目をほどく。
そして、袋の中を覗いた。
「……っ」
メルディは、袋の中に詰められたクッキーを見て、鋭く息を吸う。
そして、何を思ったのだろうか。メルディは、ティッシュを机に敷くとその上にクッキーを並べた。
「綺麗ね……」
野菜特有の色が付けられた円形のクッキーを並べ終えると、メルディは呆然と呟く。
料理スキルは、味だけでなく見た目にも影響を与える。
そのため、並べられたクッキーはごく普通の形であるにもかかわらず、野菜特有の色で染色され、色とりどりに輝いていた。
これだけでも、ソフィアの料理スキルが高いことは一目瞭然だ。
だが、メルディはクッキーに魅了され、その考えに至らなかった。そして、どれから食べようかと、宙に手を彷徨わせている。
「これにしようかしら……」
先ほどの話を聞いていたからだろう。
メルディは、オレンジ色のキャロットクッキーを手に取ると口に運ぶ。
「……!?」
口に含んだ瞬間、メルディの目が見開く。
そして、サクッと小気味が良い音を響かせる。
「あ、あの……」
ソフィアは、メルディの食べたキャロットクッキーにかなりの自信があった。
実際に、キャロはあまりの美味しさに大げさではないかと思うほど感激していたのだ。シルヴィアも、キャロほどではないがとても喜んでいたのだ。
メルディが一口食べて硬直してしまい、不安そうに声を掛ける。
「な……」
メルディが、口を開いた。
そして、半分となったクッキーを見る。
「何よ……」
信じられない。
そう言った様子で、視線をソフィアに移す。
「何よ、この美味しさ!美味しすぎるわよ!」
そう言うと、メルディは残り半分を口に運ぶ。
「このキャロットクッキー、とても美味しいわ!口の中に広がるニンジンの香りと素材の持つ甘さがはっきり分かる。それでいて、砂糖は控えめで……何枚でも食べられそうだわ!」
デザートは毎日食べても良いと思えるが、食べ過ぎると糖分が多いため太る。この女性特有のジレンマは、世界共通だ。
ソフィアも、それを意識してニンジンの甘さを残しつつ、砂糖は少なめに作り上げた。饒舌に語るメルディの勢いにソフィアは気圧されてしまう。
メルディは、再び視線をティッシュの上に乗せられたクッキーに戻す。
次は何を食べようか迷っているのだろう。今にも鼻歌を歌いそうなほど上機嫌にクッキーの上で手を彷徨わせたのだった。
そして、瞬く間に七種類のクッキーは完食されたのだった。
「怒られたじゃない」
「私も、窘められましたよ」
そして、現在。
やけ気味に「ぎゃふん!」と言ったためだろう。周囲のお客様に迷惑になっていると、メルディは先ほど上司から叱られていた。
ただ、責任の一端はソフィアにもあるのだ。そのため、ソフィアにも角が立たない程度であるが苦情を言われてしまった。
互いに顔を見合わせると、苦笑してしまう。
「そう言えば、これだけは言っておかないといけないわね」
「どうかしましたか?」
突然、改まった態度を見せるメルディにソフィアは首を傾げる。
「貴方、魔王軍は諦めなさい」
「えっ?」
――先ほどと言っていることが違うのですけど……
ソフィアは、突然のメルディの言葉に戸惑う。
だが、メルディはソフィアの戸惑いを余所に言葉を続けた。
「そして、パティシエを目指してこの近くで店を開くのよ!」
「はい?」
「貴方の腕は、大衆料理を作るのではなく美味しいお菓子を作るためにあるのよ!だから、魔王軍ではなく……」
――私利私欲に塗れた理由ではないですか!?
メルディの言葉に、ソフィアは叫びそうになるのを堪える。
「失礼します!」
このままではいけない。
そう考えた、ソフィアは鞄を手に取り立ち上がる。そして、メルディに背を向けた。
「ちょっと、待って!話を最後まで……」
メルディは、ソフィアに制止の声を掛けるが、最後まで言うことができなかった。
何故ならば……
「メルディさん?先ほど、お静かにと申し上げたはずですよね?」
メルディの背後には、青筋を立てた上司が居たからだ。
錆びたブリキ人形の様に振り返るメルディの表情は真っ青で、僅かに額に汗が浮かんでいる。
その結果、メルディは遠くなって行くソフィアを引き留めることはできず、後ろ姿を見ることしかできなかった。