第114話 黒い影
ヴラドとの面会から時は経ち、時刻は夜十一時を回った。
ソフィアたちの対面に座るのは豪華な服を身に纏った三人の男性。彼らは、ソファにもたれかかり、憮然とした表情を浮かべている。
「却下だ。交渉の余地などない、疾く去ね」
真ん中に座るリッチの男性が、ソフィアとアルフォンスを見て言い放った。
そして、続けるようにして他の者たちも口を開く。
「同意するのは癪だが、今回ばかりは私も同感だ。そもそも、北部に追いやられた我々が、何故人間を招き入れなければならない。貴様らがスタリカに足を踏み入れただけでも虫唾が走るのだぞ」
その隣で頷くのは、年配の吸血鬼。
ソフィアたちを見る目は、まるで怨敵を見るような感情が宿っていた。
「私も、この件については少し……」
明確な拒絶を示された。
彼らの表情に浮かぶのは、嫌悪。エリザベートのような若い者たちが浮かべる好意でも、ヴラドのような無関心でもない。
明らかに人間という種族を恨んだ者のする目である。
「まぁ、そうなるであろうな」
この結果は分かり切ったことであると言った態度で頷くヴラド。
そして、その視線をアルフォンスへと向けた。アルフォンスはヴラドからのアイコンタクトの意味を察して、アルフォンスは鞄から書類を取り出した。
「これは?」
「魔王様からの提案でございます」
アルフォンスの言葉に、それぞれが書類を手に取って目を通す。
機密に関わることのため、ソフィアは目を通すことはできない。しかし、大凡の察しはついた。
「これはっ……!?」
反応を示したのは、消極的な否定を示した若い吸血鬼。
彼は食い入るように書類を見つめ、そしてその表情に喜色を浮かべた。他の二人は、表情こそ変えないものの、一考の余地があると見える。
「如何でしょうか?」
書類を軽く読み終えたことを見届けたアルフォンスが尋ねる。
古参の二人は、表情を険しくしているものの、若い吸血鬼はアルフォンスに対し深く頷いた。
「この提案が誠であれば、新派としては異存はありません」
「ありがとうございます」
若い吸血鬼の言葉に、アルフォンスは笑みを浮かべ礼を述べる。
その一連のやり取りを見ていたフェルが小声で隣のシルヴィアに尋ねた。
「ねぇ、ねぇ、あれって何なの?」
「さぁな。だが、概ね内容に見当はつく」
「えっ、どういうこと?」
シルヴィアの言葉に、困惑を深めるフェル。
「察しろ」と言いたそうなシルヴィアであるが、相手がフェルであるため深くため息を吐くと、小声で説明した。
「政治的な駆け引きだ。中央からしてみれば、人間との国交回復に十分なメリットがある。だが、北部としてはメリットが少ない……いや、一部の国民感情を考えるとデメリットしかないのだ」
「うんうん」
「と言っても、人間に悪印象を抱いているのは三百年の時を生きた者ばかり。全体的に言えば少数、しかし発言力があるのは分かっているな」
「うん、うん……?」
「お前も知っているだろうが、露店に売られている輸血パックはブラッドフォレストで採れる代替品でしかない。……私には分からないが、欲求は満たせても美味しくはないということだ」
「ウンウン」
「血液の売買は、奴らの既得権益。血液は治療用にも利用されるため、規制が厳しく供給量が少ない。値段は割高であるため、大半のアンデッドたちは代替品に頼らなければならない状況だ。ここまで話せば分かるな?」
「ナルホドネ!」
ようやく分かったかと頷くシルヴィアだが、ソフィアとロレッタは気づいている。
フェルが何一つ理解していないことを。だからこそ、ロレッタがボソリと呟いた。
「姫様のうんは、分かんないからとにかく頷いておこうっていう意味だから」
「なに?」
「そ、そんなことないよ!?」
シルヴィアから視線を向けられると、慌てて首を横に振るフェル。
どうでも良い事だが、ここをどこなのか分かっているのだろうか。交渉の場で、何とも緊張感のないやり取りが繰り広げられている。
「「「「…………」」」」
当然、真面目に会談をしているアルフォンスたちの耳にもそれが届いていた。
先ほどの熱も冷めてしまったのか、その表情は「子供の遊び場じゃない、すぐに出て行け」とでも言いたそうだ。
しかし、フェルはこれでも魔国の姫。
ある意味では、魔王の代理人と言える存在だ。例え、話の内容を理解していなくても、つまみ出すことはできない。
「……要するに、血液の売買についての規制が緩くなる。国交が回復すれば、人間の血液が流通するってこと」
「……ウン、ワカッタ」
「後で説明する」
シルヴィアもロレッタも、フェルに理解させることを諦めたようにため息を吐く。一方でソフィアは静かに思考を巡らせた。
(確かに、シルヴィアやロレッタさんの言う通り。国交回復は、発言力のある古参の者たちからの反発は大きい。彼らの意見を無視するのは、最悪の場合国が割れてしまう。それに、国交回復は人間の持つ魔族に対する恐怖を和らげてしまう)
最大のデメリットを頭に浮かべる。
そして、それに釣り合うメリットを探し始めた。
(北部からすれば、吸血鬼などアンデッド族に必要な血液の供給量が増えるのはメリットです。しかし、代替品がある以上、古参の者たちを敵に回してまで進める必要はありません。尤も、規制の緩和は長期的に見ればプラスであることには違いありませんが)
ソフィアはチラリとリッチと吸血鬼の男性に視線を向ける。
彼らにとっても有利な条件が書き記されているようで、先ほどとは違い一考の余地があるようにも見える。
しかし……。
「だめだな」
年配の吸血鬼が、ため息交じりに言った。
リッチの男性も同様に、バサリと書類を机の上に投げた。
「確かに、血液については魅力的な提案だ。近年では、他種族からの血液の供給量も減って、不満が高まっている。既得権益を持つ者への配慮もしっかりとされている。実現すれば、確かに問題が解決することだろう。だが、それで三百年前の恨みが消える訳ではない」
「しかり。しかし、勘違いしないでいただこう。何も我々は人間が憎いからと言って、今回の話を断るわけではない。将来的なリスクを勘案しての判断だ」
「そうですか」
アルフォンスに落胆の色はない。
それに気づいたソフィアは思った。
(つまり、今回の交渉カードはただの見せ札ということですか……。切り札は別にある、ということなのでしょうね)
ソフィアは、一連の流れから察した。
そして、思考を巡らせる。
(切り札、となるといったいどんなカード? 北部が喉から手が出るほど欲するような、そんなカード。いいえ、将来的なリスクということは、保証を欲している?)
ソフィアは、彼らの表情を見る。
その目からは、人間という種族に対する明確な憎しみが浮かんでいた。そのことに、ソフィアは違和感を覚える。
それは、年若い吸血鬼の男性も同じだろう。
当時を知らないからか、何故人間というか弱い種族にこれほど憎しみを抱くのか理解していない様子だ。
「もしかして……」
ソフィアは、ふと違和感の原因に気が付く。
再び、リッチと年配の吸血鬼の目を見た。その目にはあまりにも明確過ぎる憎しみが浮かんでいたのだ。
(三百年も昔のことを今なお、これほどまでに恨める? まったく風化せずに?)
人間、怒りなど三十分も続けば長い方だ。
種族の違いがあるだろうが、三百年の時は吸血鬼にとってもかなり長い。それこそ、力のあるノーブルくらいしか生きることはできないくらいの長い長い時間。
その時間の中で、一切褪せることなく恨み続けられるだろうか。そして、ソフィアは一つの結論が頭の中をよぎった。
「憎しみ……ではなく、恐怖?」
ソフィアがそう呟いた瞬間だった。
一瞬だが黒い影が年配の吸血鬼とリッチの背後に待ち構えていたように現れた。ベールに包まれた人形のようななにか、それがクスリと笑ったような気がした。
「「……っ!?」」
ポツリと呟かれた一言。
普段であれば、気にならないくらいの声色。しかし、二人の耳にはよく響いてしまった。そして、ソフィアの考えが真実であったように、二人の表情が一変する。
「ふざけるな! 私があのような家畜にも劣る存在に恐怖するだと! 本気で言っているのか!?」
「しかり! 人間風情が調子に乗るのも大概にしろ!」
激しい憤怒の波動。
それは、矮小な存在でしかないソフィアには死そのものだった。襲い来る波動に、死を幻視しそうになったその瞬間……
「そこまでだ」
「うん、ちょっと冷静になろうか」
吸血鬼の男性はヴラドに転ばされ、足蹴にされていた。
そして、リッチは無機質な瞳を浮かべたフェルが喉元を押さえて壁に押し付けている。一人状況に付いて行けていない若輩の吸血鬼は困惑の表情を浮かべていた。
「大丈夫か?」
ソフィアを庇うように前に出ていたシルヴィアから声を掛けられる。
だが、強者の憤怒の波動の余波を受けたソフィアは、その声に答えることはできなかった。生を実感するように荒い呼吸を繰り返し、その瞳の焦点は定まらない。隣にいるアルフォンスも、ソフィアほどではないが顔色が悪かった。
「今日の会談はここまでだな。少し頭を冷やせ」
ヴラドのその言葉によって、初日の会談は幕を閉じるのであった。