第109話 うごく石像
魔国北部は、闇が空を覆い尽くし、荒野が広がる土地。
空気は毒気に侵されており、毒で満たされた湖が点在する。そんな過酷な環境で生活できたのは必然として強力な魔物ばかり。
北部最大の魔物の領域であるブラッドフォレストには、ワイバーンでさえも食物連鎖の最下層に位置付けられ、その天井は未知数だ。
北部とは、とてもではないが人族どころか魔族でさえも生きていける地域ではなかった。それが初代魔王がこの地を訪れる前の話である。
現在、アンデッドばかりであっても魔族が生活できるのはブラン城のおかげである。
初代魔王が建設したとされるブラン城には、大きく分けて二つの機能が備わっている。
一つは環境の浄化だ。毒素を孕んだ空気も湖も、ブラン城があるおかげで浄化され、ソフィアのようなか弱い存在でも生きることができる。
二つ目は、結界だ。北部には魔族でも手を焼く強力な魔物が多く存在している。シルヴィアたちの話によると東部ほどではないとのことだが、魔物の脅威から市民の平和を守るためにスタリカを守る結界が張られている。
「凄い……」
ソフィアは思わず感嘆の声を上げてしまった。
ブラン城は、魔国で見たどんな建築物よりもソフィアにとっては素晴らしいものに見えた。
おそらく、同じ土俵にある建物だからだろう。
機能性を重視した魔国の建築物は、ソフィアにとって異世界にある建物という認識だった。しかし、ブラン城は違う。この世界の建物でありながら、それでいて人間の国のどんな城や教会よりも、心が震えた。
黒と赤を基調とした色遣いは、暗いというよりもむしろ禍々しさを感じさせる。
左右非対称の建築で、床は漆黒の大理石。その上に上質な深紅の絨毯が敷かれている。その両脇に置かれたのは、今にも飛び出してきそうな……一瞬目があったような気がする三メートル近い巨像。
血のように赤い光が四角形の窓から差し込んでいた。
怖いはずなのに、目が離せない美しさがそこにはあった。
「いつ来ても見事だね! ほんと、初代は良い趣味してるよ!」
そう言って一人前を歩くフェル。
相も変わらずシルヴィアは気絶中のようだ。シルヴィアが入った棺桶とその上に乗ったトノを引く姿は酷くシュールだった。
とはいえ、フェルの言ってることはソフィアにもよく分かるため、首肯した。
「ええ、本当に……。フェルちゃんが好きなゲームのラスボスがいそうな雰囲気ですね」
「そうだよね!」
ソフィアの肯定に嬉しそうな表情を浮かべるフェル。
その無邪気な笑みは、禍々しい雰囲気が包み込むこの場でも場違いどころか、むしろ一枚の絵となっても可笑しくないほど似合っていた。
ソフィアがフェルの笑みに見惚れていると、フェルは少し考えこんだような表情をする。
「う~ん、パパにここに住むように勧めてみようかな……」
ポツリと呟かれたその一言。
静寂が包み込む通路ではよく響いた。ソフィアの隣では、アルフォンスがぎょっとした表情を浮かべる。それだけはやめてくれと切実に訴えかけているようだ。
(確かに、ここに魔王様が住んでいたら様になりますね)
ソフィアはそう思って、想像する。
ブラン城の奥、豪華な玉座に腰かける魔王。「よく来たな、人間ども!」と威圧感を出せば、それは人族の思い描く魔王の姿だ。
だが、悲しきかな……。
「ないね」
「それはない」
「ないですね」
「にゃぁ」
ソフィアと同じ想像をしていたのか、フェル、ロレッタ、アルフォンス、トノまでもが否定の声を上げた。
「玉座の間で、裸で酔いつぶれている光景しか思い浮かびませんね」
アルベルトという魔王を知っているからこそだろう。
賭博で負けて文字通り裸になって、缶を転がして寝ている光景……。魔王討伐に来た勇者もびっくりだろう。
魔王の玉座だと思ったら、ただののん兵衛が酔いつぶれているだけなのだから。威厳がないのは当然として、人としての尊厳さえもない。モザイク加工しなければ想像さえ憚られる光景だ。
「……うん、もう行こうか」
先ほどまでのテンションはどこへやら。
すっかり意気消沈したフェルは、ゆっくりとした足取りで前に進む。ソフィアたちもこの話題に触れようともせず、その後に続いた。
「それにしても、人がいない」
しばらくして、ロレッタが声を上げる。
「無人、と言う訳ではないですよね」
今日は北の四天王ヴラド=ドラキュリアと面会するためだ。
だというのに、出迎えさえもないのはどう言うことだろうか。アルフォンスに聞いても「いつものことです」と返されるだけだった。
(やはり歓迎されてはいないのですね)
魔王の勅令があるとはいえ、吸血鬼と人間の間にある溝はあまりにも深い。
歓迎されないのは当然だ。ソフィアも期待はしていなかったが、それでも人の気配がしないのは気になった。
「取りあえず、ソフィアたちはここを右に曲がったところで着替えを済ませてきてください……フェル様案内を頼みます」
「良いよ。じゃあ、お姉さんとロレッタこっちに来て」
「はい」
「分かった」
アルフォンスと別れると、フェルの後に続いて歩き始める。
先の見通せない廊下は窓から差し込む赤い光に照らされるだけ。迷路のように代わり映えのしない道を歩きながら、フェルの後ろを追う。
「フェルちゃん、道は分かるのですか?」
迷いなく歩くフェルに、不安そうに尋ねる。
正直、迷路のように入り組んだブラン城から、ソフィア一人では玄関まで戻ることも不可能だろう。
それ故に、フェルが更衣室の位置を知っているのか不安になった。
「ダイジョブ、ダイジョブ……モーマンタイだよ!」
そう言ってフェルは扉を開ける。
「……あれ、ここ男子トイレ?」
――ズルッ
ソフィアだけでなくロレッタもまた、思わずコケてしまった。
あれだけ自信満々に歩いていたというのに、結果が女子トイレではなく男子トイレ……。ソフィアだけでなくロレッタもまた不安な表情を浮かべる。
「本当に大丈夫なの?」
「だ、大丈夫だよ……あっ、そうか! さっきの道を左に曲がるんだった!」
フェルはポンと手を打つと、来た道を戻る。
その際、棺桶を思いっきり扉にぶつけているが、気にした様子もない。あの中には、シルヴィアが眠っているというのに……。
不安に思いつつも、ソフィアとロレッタはフェルの後に続く。
「……うん?」
ソフィアは不意に感じた視線に、その場に立ち尽くす。
しかし、周囲を見渡すが人はいない。あると言えば、規則正しく並べられた石像だけだ。
(気のせい、ですよね?)
気のせいだと自分に言い聞かせる。
ソフィアが足を止めている間にも二人の姿は遠くなって行く。振り返って、二人の後を追おうとしたソフィアだが……。
「『……』」
不意に石像と眼があった。
今にも動きそうなリアリティのある石像。少し無理な姿勢をしているせいか、足元がプルプルと震えているように見える。
互いに視線を合わせたまま動かない。
それは、一分だろうか、それとも十秒だろうか、それよりも短い時間かもしれない。だが、その時間が異様に長く感じてしまう。
(き、気のせい……ですよね)
ソフィアは一度目を閉じて、深呼吸をした。
そして目を開くと……。
『……』
そこには石像があった。
無理な姿勢ではなく、楽な姿勢で立っている。視線は合っていない。まるでソフィアの視線から逃げるように逸らしているではないか……。
気になって、ソフィアは石像に背を向ける。
そして、一気に振り返った。
『……!?』
石像が驚愕しているように見えるのは気のせいだろうか。
よく見ると、先ほどとは姿勢が違う。ソフィアは目をごしごしとこする。そしてもう一度背を向けてこの場を離れようとする。
「今っ!」
ソフィアは、バッと勢いよく振り返った。
『『……』』
「……」
……二体だ、二体に増えている。
いったい何があったというのか。まるで「交代の時間だよ」と現れた同僚と、それを静止しているように見えるではないか。
「お姉さん、どうしたの? 更衣室を見つけたけど、見当たらなくて」
すると、唐突にフェルから声を掛けられた。どうやら無事に更衣室にたどり着けたようだ。ソフィアが居ないことに気づいて、急いで探しに来てくれたという。
石像から視線を外し、フェルと向かい合った。
「フェルちゃん。……石像って動くんですか?」
「は? 何言ってるの、動くわけないじゃん」
「見て下さい、この石像! 他の石像と……あれ?」
ソフィアは石像を指さす。
そこには一体の石像が、他の石像と同じ姿勢で立っているではないか。まるで狐につままれたような気分で、ソフィアは口をパクパクとさせる。
「お姉さん、大丈夫?」
「……」
フェルに、不審者を見るような目で見られた。
その事実は、石像が動くことよりもソフィアにはショックだった。呆然と立ち尽くすソフィアだが、フェルに連れられて奥へと向かって歩くのであった。