第107話 裏路地の混沌
遅れて申し訳ございません。
体調を崩しておりました。
人気の少ない裏路地。
表通りはアンデッドによるカーニバルで賑わいを見せているが、裏路地は真逆。……そこら中に半透明な生き物が漂っているが、おそらく見間違いだろう。
「……」
血の気の引いた顔で、膝を抱えて地面に座るソフィア。
服は肌蹴ており、首筋は露出している。日焼けをしたことがないかのような真っ白な肌には、小さな傷が二か所。出血の跡が残っていた。
絶望したような表情を浮かべるソフィアとは対照的に……。
「んっ、あぁ……」
陶酔したような艶のある声を漏らすエリザベート。
先ほどの甘美な味を脳内で反芻しているのか、頬を紅潮させ唇を指でなぞる。そこには、十代前半の幼子の容姿に似合わない色気があった。
二人の間で何があったのか。
ソフィアの首筋に残る傷跡とエリザベートの口元に浮かぶ朱を見れば、一目瞭然だ。半ば強制的に、お礼をすることになった。
とはいえ、エリザベートとて遠慮があったのだろう。極上の血を前にして、僅かに残った理性をフル稼働し、ソフィアへの負担を最小限にした。多少の貧血はあるが、それでも倒れるほどではない。
「……もう、お嫁に行けません」
地面に「の」の字を書くソフィア。
肉体的なダメージはそれほどでもないが、精神的なダメージは致命的だった。
「そ、外で、あんなはしたないことを……っ!」
思い出しただけでも、頬が紅潮する。
結果的に見れば、ソフィアはエリザベートに血をあげただけ。吸血鬼であれば、気にすることのない普通の行為だ。
だが、その過程がソフィアには問題だった。
「気にすることはありませんわ。吸血行為は、相当気持ちが良いらしいですから」
艶っぽく笑うエリザベート。
核心を突いた言葉に、ソフィアは耳まで真っ赤にして、壊れた家電製品のように頭から煙を噴き出す。
そんなソフィアを見て、再び吸血衝動が湧きあがって来たのだろう。エリザベートは、鼻血を流して呼吸を荒くする。
「ひっ!」
ソフィアは背筋に冷たいものが走るような感覚に、すぐに正気に戻った。
目の前には、本能的に危機感を覚える幼女の姿がある。可愛らしい容姿なのだが、今のソフィアにはワイバーンよりも恐ろしい鬼のように見えた。
反射的に距離を取るソフィア。あられもない姿を晒しているが、服を整える余裕もないのだろう。
「どこへ行くつもりですの?」
追ってくる吸血鬼。
憐れな子羊は、壁際に追い詰められて逃げ場を失ってしまう。一歩ずつ近づいてくる吸血鬼の姿に、憐れな子羊は顔面蒼白だ。
唇から覗くのは、小さいながらも鋭さを感じさせる犬歯。真っ赤な舌が、唇をなぞる仕草は、幼い美貌でも見惚れるだけの魅力があった。
しかし、そんなエリザベートの仕草の一つ一つが、ソフィアにとって恐怖の対象である。
「エ、エリザ……落ち着きましょう?」
「あら、私はいつも落ち着いておりますわ?」
(絶対に嘘ですよね!?)
ソフィアは反射的に叫びそうになった。
エリザベートの目が血走っているのだ。理性の箍が外れて、今にも襲い掛かってきそうな雰囲気さえある。
絶体絶命。
(こんなことなら、安易に血を上げるなんて言わなければ良かった……)
後悔先に立たず。
圧力が掛っていたとはいえ、逃げる手段はいくらでもあった。そのことを今さら悔いても遅いだろうが、悔いずにはいられなかった。
エリザベートの手が、再びソフィアの首筋に触れそうになったその時だった。
――ズシン!
大地を強く揺らし、裏路地に新たな来客が訪れる。
姫のピンチに訪れるのは白馬の王子。では、ソフィアの前に現れる存在はというと……。
「にゃぁ」
現れたのはスマートな馬ではなく、肥満体系の猫。
共通点は白い毛並みくらいだろうか。コンクリートの地面に罅が入っていることから、困惑しながらも、ダイエットの必要性を考え始めるソフィア。
吸血鬼エリザベートから姫(笑)ソフィアを救うのは、王子トノ……。
(分かってはいましたけど、こういう時はもっとドラマチックな展開があっても……)
ソフィアとて、年ごろの乙女である。
絶対的なピンチに訪れた救世主に、ドラマのような運命的な出会いを期待してしまう。だが、現実は物語よりも奇なり。
現れたのは、デブ猫。
口に咥えるのは花ではなく、『スタリカ名物 アンデッド焼!』。食い意地だけはしっかりとしている。今から食べようとでも言うのか、袋を地面において開け始めた。
「「……」」
トノと眼があった。
ソフィアもトノも無言で見つめ合う。しばらくして、ソフィアとエリザベートを交互に見て事情を理解したのだろう。
『邪魔したな』
そう言って、ソフィアに背を向けた。
その際、しっかりと袋を咥え直しているのだから、ちゃっかりしている。
「ここは助けてくれる場面じゃないんですか!?」
反射的にソフィアは叫んだ。
また、トノが人語を話したような気がしたが、この状況では些事である。ソフィアは、目に涙を溜めて、トノを呼び止める。
「ようやく見つけた。私のアンデッド焼を返してもらう」
トノの進行方向に現れたのはロレッタ。
不動明王の如く威厳をもって立ちふさがる。その目的は、トノが咥えているアンデッド焼。
「ロレッタさん、助けて下さい!」
ソフィアは反射的に叫んだ。
「あれ、ソフィアにエリザ?……ソフィア、服を整えた方が良い。下着が見えてる」
「えっ」
ロレッタの緊張感のない指摘に、ソフィアは自分の姿を見る。
エリザベートに集中して、自身の姿に気を回す余裕がなかったのだ。ロレッタの指摘を受けて、自分の姿を確認する。
呆然としていたソフィアは、甲高い悲鳴を上げると慌てて体を隠す。
「させないっ!」
だが、ソフィアの姿などこの一匹と一人には関係ないのだろう。
ロレッタがソフィアの姿に気を取られた一瞬の隙に、トノが壁を足場に跳躍する。体型からは想像できない敏捷性だ。
後手に回ったロレッタは、一瞬で風の魔法を使用すると宙を跳ねるトノを打ち落とそうとした。
「にゃっ!」
ソフィアの耳には『甘い!』とトノが言ったように聞こえた。
トノは自分に向かってくる魔法を前足で弾くと、そのまま着地をする。猫とは思えない戦闘力だ。
やれやれと言った表情をすると、トノはアンデッド焼を傍に置く。
「「……」」
睨み合う両者。
その緊張感から、空気がビリビリと殺気だち始める。猫と妖精が、人形焼きを求めて争う構図。
周囲を漂う半透明ななにかは、一匹と一人が放つ魔力から逃げるように去って行く。
(私よりも食べ物ですか……)
ソフィアは、傷ついていた。
危機的な状況にあるというのに、目の前で起こるのはアンデッド焼を巡った争い。「私のために争わないで」と言える立場に憧れたことがある。
だが、ソフィアは今回もそれを言える立場にない。今それが言えるのは、傍らに置かれたアンデッド焼。
この光景を見て、悲しくならずにはいられなかった。
「さて、ソフィア。続きを……」
「ひぇ! この状況を考えれば、諦めませんか!」
「もう少し、後ほんの少しで良いですわ」
「信じられますかっ!?」
もはや、退路は残されていない。
ロレッタとトノはというと、濃密な魔力を纏っているというのに、やっていることは子供の喧嘩だ。
ポコポコと効果音を立ててじゃれている。
救援要請をしたいところだが、きっと助けてくれないだろう。再び、エリザベートの手がソフィアに届こうとした瞬間……。
「やっと見つけた、探すのに手間取っちゃったよ」
「フェルちゃん!」
まさに絶体絶命のピンチに現れる救世主だ。
この時ほど、フェルの登場を嬉しく思ったことはない。ただ、ひとつ気になるのは……。
(な、何故棺桶……)
混沌とした場が更に混沌とする。
ここは人通りが少ない裏路地。宙には半透明な何かが浮かび、吸血鬼が憐れな子羊を襲う場。猫と妖精がアンデッド焼を求めて争い、天災と恐れられし堕天使が棺桶を引き摺って現れる場所。
表通りのアンデッドカーニバル。
裏通りの混沌。スタリカには、安息の地がないようだ。