第102話 空への恐怖
そして、迎えた当日。
ソフィアの姿は、マンデリンの第一大通りにある軍事関連施設にあった。ここには滑走路があり、マンデリンで唯一飛行機が飛ぶことができる場所である。
「こ、こんな鉄の塊が空を飛ぶのですか……」
ソフィアは、ただ呆然と飛行機の姿を見ている。
何度見ても、信じられない気持ちでいっぱいだ。翼も羽も持たない人間にとって、空を飛ぶことは誰もが夢見ることだろう。
だが、いざ飛行機を見ると感動よりも、不安の方が大きかった。
そんなソフィアの不安を知らずに……
「飛行機かぁ、ちょっとだけ操縦させてくれないかな」
と暢気なことを言うのは、フェルだ。
なぜ彼女がここにいるのか、どこから嗅ぎ付けたのかは分からないが、今日ソフィアが飛行機に乗って北部へ行くのを知っていた。
案の定、自分も飛行機に乗るためついて来てしまったのだ。
(フェルちゃんがいれば、墜落しても安心なような気がしますが……なんでしょうか、この湧きあがる不安は?)
目を輝かせて飛行機を見る少女の姿は、思わず微笑ましく思えてしまう光景だ。
しかし、ソフィアを含めて軍事関係者たちは、フェルの一挙一投足を警戒していた。そして、この場には他にもいる。
「ふぁあ……眠い。家に帰りたい」
小さく欠伸をすると、眠たそうに目をこする少女。
ロレッタだ。建前として、北部へ料理の文化交流へ行くのだ。ソフィア一人だけというのはおかしな話で、他の料理人も連れて行くことになった。
しかし、ここで一つ問題が生じた。
いないのだ、暇な料理人が……。
マンデリンでは、ソフィアのような異邦人でさえも雇うほど人手不足。この状況で一人抜けられると非常に困ったことになる。
と、そこで焦点に当てられたのが、ロレッタである。
人事採用部として、再来年の卒業生の勧誘を始める頃。
アニータとしては断固反対の姿勢を取ったが、それは却下された。代わりにジョンを残して、ロレッタはソフィアに付いて行くことになった。
そして、ロレッタ以外には……
「だから、私は絶対に行かないと言っているだろう! 放せ!」
「まぁまぁ、良いではないか、良いではないか」
「くっ! フェル、貴様!」
フェルに腕を掴まれて引き摺られているシルヴィア。
膂力はシルヴィアの方が圧倒的に上にも関わらず逆らえないのは、フェルの固有スキルだ。
個人に対する重力を大きくしているようで、足元には無数の罅が出来ている。
シルヴィアが何故ここにいるのかというと、シルヴァからの推薦があってのことだ。フェルのお守りは誰もやりたがらず、テディでさえももろ手を上げてシルヴィアを送りだした。いつものことだと深々とため息を吐きつつも拝命したシルヴィアだったが、移動手段が飛行機だと聞いた瞬間、目の色を変えた。
「私は、絶対に飛行機には乗らないからな!」
意外と言えば意外な事実。
シルヴィアは高いところが怖いのだ。普段は凛々しい表情を浮かべているシルヴィアであるが、今日ばかりは目に涙を溜めて抗議している。
そんな可愛らしいシルヴィアの姿に、普段の憂さ晴らしを兼ねてフェルが強引に連れて行っているのだ。
「だいたい、お前が行くなら、転移で行けば良いだろう。わざわざ、時間のかかる飛行機に乗る必要はない」
尤もな意見だ。
きっとこの場の誰もが同じことを思っただろう。しかし、フェルは「分かってないなぁ」と言って指を振った。
「旅の醍醐味は過程であって、結果じゃないんだよ。旅先でお土産を買いに行くのなら、それはショッピングで、旅というのはその過程を、思い出を作ることなのだよ」
「旅じゃなくて、これは仕事だからな!」
「同じようなものだよ?」
((((……ダメだ、こいつ))))
話を聞いていた誰もが思った。
可愛らしく小首をかしげているフェルの姿に、何を言っても無駄だと悟ったシルヴィアは首をうなだらせる。
「ですが、シルヴィア。飛行機の方が車よりも速いのは事実ですから……」
――諦めて一緒に乗りましょう
ソフィアがそう言葉を続けようとした瞬間だった。
「……て行く」
シルヴィアがポツリと呟いた。
「え?」
「飛行機に乗るくらいなら、北まで走って行った方が良い」
「ワイルドすぎませんか!?」
シルヴィアの返答に思わず声を上げてしまったソフィア。
隣では、フェルがゲラゲラとお腹を抱えて笑っている。そのためか、重力が軽減されたようでシルヴィアが立ち上がるとやる気を見せた。
「シルヴィア、考え直してください! どれくらいはなれていると思っているんですか!?」
「たかが千キロを少し超える程度だ。問題ない」
「あっ、千キロでしたか……って、ちょっと待って下さい! 千キロって、普通は無理ですよね!」
「人間基準ならともかく、魔族であれば獣人でなくとも問題ない」
シルヴィアの一言に、ロレッタに視線を向けるとぎょっとした表情を浮かべる。おそらく……いや、間違いなく千キロも走れないのだろう。
「なんなら、お前らも一緒に走るか?」
フェルとロレッタに視線を向けて、ニヤリと笑うシルヴィア。
まるで肉食動物が草食動物を見つけたような凶悪な視線だ。視線を向けられたロレッタは、顔を青くして首をぶんぶんと横に振る。
そして、お腹を抱えていたフェルは硬直すると、すぐに激しく首を振り始めた。
「無理、死んじゃう。インドアには十キロも歩けない」
「わ、私は……あ、アウトドアでも、そう言うのはちょっと……」
「なに、心配はいらない。すぐに楽しくなって来ると思うぞ」
シルヴィアが満面の笑みを浮かべて、二人に近づく。
未だ重力の戒めは解けていないのか、アスファルトの地面がミシミシと悲鳴を上げる。そんな二人の姿を見て、ソフィアはふと思った。
(なんか、一人だけ寂しいですね……いや、千キロは無理ですけど)
一人、疎外感を覚えて悲しくなっていた。
と、その時だった。
「馬鹿者が!」
ガツン!と大きな音が鳴り響く。
一瞬何事かと思ったソフィアであったが、すぐに何が起こったのか理解する。シルヴィアの背後にはいつの間にか現れた壮年の男性が立っていたのだ。
「っ!? ち、父上!?」
何故ここに。
そんな思いで涙目になりながらも父親を見るシルヴィア。そう、突如現れた男性はシルヴィアの父親であるシルヴァ=フラットホワイト。魔王軍の四天王の一人で、南部の統括者でもある。
初対面の時の体たらくが嘘のような凛々しい佇まいである。
「使者殿と顔合わせに来たのだ。ここには……まぁ、少し厄介ごとがな……」
「厄介ごと?」
ソフィアがポツリと呟くと、表情を引きつらせるシルヴァ。
何か聞いて欲しくないことなのだろう。敢えて追求するつもりはないが、シルヴァはその話題から逸らすようにシルヴィアを叱り始めた。
「それはそうと! お前は、どうして走って行くなどという話をしているのだ!」
「安全のためです! こんな訳の分からない鉄の塊で空を飛ぶなど、リスクが高すぎる。安全に向かうのであれば、陸を走って行った方が安全です!」
「それも一理ある」
(一理あるんですか!?)
シルヴィアの反論に頷くシルヴァ。
声には出さないが、ソフィアだけでなくフェルとロレッタも内心では絶叫していることだろう。
やはりこの父あって、この娘有りということなのだろう。
しかし、シルヴァの話には続きがある。
「だが、ダメだ! 飛行機の運航は既に決めている。実の娘であろうと、大人しく乗って行ってもらうぞ!」
「そ、そんな……」
シルヴァの無情な一言に、絶望したような表情を浮かべるシルヴィア。
「……まぁ、俺は絶対に乗らないがな」
シルヴァのその一言は誰にも聞かれることなく、消えていくのであった。