第100話 聖女と第三皇子、魔国へ
時刻は午後五時を僅かに回った頃。
空が夕暮れに染まった時刻に、フローラやアレンたちは研修所に現れた。外で待っていたソフィアを見て感極まったのか、目に涙を溜めてフローラが感情の赴くままに抱き付く。
「ソフィアちゃん、お久しぶりです! 元気にしていましたか? 寂しくはありませんでしたか? 私は、ソフィアちゃんに会えなくて寂しかったです」
と、早口で捲し立てるフローラ。
その普段の冷静沈着な印象とは裏腹の行動には、ソフィアだけでなくアレンの部下たちも呆気にとられた様子だ。
ただ、フローラの護衛たちはこの光景を予想していたのか特に表情を動かすことはない。もはや悟りの域に達しているのではないかと思うほど晴れやかである。ただ、兄であるオーギュストは、一人だけ目を剥いている。
まるで、狐に抓まれたような信じられない光景を見るような目だ。
「フローラちゃん、こうしてまた会うことが出来てうれしいです。見ての通りピンピンしていますよ」
と、笑顔を見せるソフィア。
ただ、思った以上にフローラの抱きしめる力が強い。痛みを感じるほどだ。それに、触り方もくすぐったいのだ。
おそらく、同性同士でなければ、すぐに兵士たちが飛んできてフローラを取り押さえていただろう。
周囲からの視線が集中して恥ずかしい気持ちもあるが、それだけフローラが自分と会えることを楽しみにしていたのだと納得し、笑顔を浮かべて迎えている。ただ、その背後では……
「お姉さん、その態度がヤンデレを悪化させるんだよ。いや、突き放しても何するか分かんないけど……」
というフェルの呟きが聞こえたような気がした。
とはいえ、今は鉄壁の猫を被っている。そして、その足元にはたらふく食べて仰向けで腹を擦っているトノの姿があった。
きっと、そう簡単に猫が剥がれることはないだろう。足元にいる猫は少々頼りなく感じてしまうが。
「ソフィア、久しぶりだな!」
「お久しぶりです。アレン様も元気そうで何よりです」
「ソフィアもな。元気な姿を見て安心した」
フローラに抱き付かれた体勢のまま、アレンが声を掛けて来る。
相変わらず女の子みたいな容姿をした皇子である。尊大な口調と男物の服は、お世辞にも似合っているとは言い難い。
丁寧な口調で、ドレスを着た方が似合うのではないか。
……いや、流石に無理があるだろう。
(そう言えば、昔女装をしてもらったことがありましたね)
ふと思い出すのは、かつてソフィアがフェノール帝国を訪れた時のことだ。
お忍びで城下町を歩くために、ソフィアが提案したことこそが女装。普段の服装よりも似合っており、侍女と共に思わず感嘆の息を吐いてしまったほどだ。
本人は鏡の前で石のように硬直してしまっていたが。
そして、案の定城下町でアレンが皇子であることを見抜いた者はいない。それと同時に、男であることに気づけた者もいないのだ。
(流石に、自分の兄に口説かれている光景は、驚きましたが……)
実の兄にさえも気づかれない。
それどころか、口説かれる始末。あれには、流石のソフィアも驚いたというレベルではなく、正直引いてしまった。
「……な、なぁ。なにか嫌なことを考えなかったか?」
ソフィアが何を考えているのか分かったわけではない。
ただ、何かを感じてしまったのだろう。鳥肌を立てて腕を擦るアレン。やはり、彼にとってあの時の光景は未だにトラウマなのだろう。
「気のせいに決まっているではないですか? ただ、ソフィアちゃんはあなたのことを少し見ない内に可愛らしさに磨きがかかったと驚いているだけですよ」
ソフィアから離れず、そんなことを言うフローラ。
アレンはその言葉に表情を凍らせるが、ソフィアを一瞥した後、満面の笑みを浮かべてフローラに言った。
「まぁ、どこぞの狡猾な白蛇と比べれば心が澄んでいるからな。……少しは心が綺麗になれば、可愛らしくなるんじゃないのか?」
「ふふっ。女性は少しミステリアスな方が美しく見えるものですよ。尤も、最近のお猿さんはメイクの技術が上がったみたいで、少しは見習った方が良いかもしれませんけどね」
と、互いに視線を合わせず会話をする二人。
ソフィアは、その光景を見て懐かしく思いながらも、どこかほっこりとした気持ちになる。
「二人とも仲が良いですね」
「「「「「「「「えっ?」」」」」」」」
ソフィアの一言に、声を漏らす者たち。
まるで「目は大丈夫か?」と疑うような視線を向けて来るが、ソフィアにはその正確な意味が理解できない。
一方で、フローラもアレンも笑顔を浮かべているものの、口元を引きつらせている。
そのことに、ソフィアは首を傾げた。
「確かに見方によっては、仲が良いね」
『同族嫌悪じゃねぇの?』
「あっ、うまい……って、今の誰の声!?」
という会話が再び後ろから聞こえて来た。
ソフィアの耳にも聞きなれない声が聞こえて来たような気がする。だが、ソフィアの後ろには、フェルとアニータ、それからいつの間にか消化を終えたトノの姿があった。
他に誰もいないはずなのに、不思議だ。
「申し訳ございませんが、立ち話はここまでにして……あちらが本日泊まる建物になっております。積もる話もあると思いますので、そちらでされると良いと思います」
ここで話を続けても仕方がないと、アルフォンスが研修所に手を向ける。
「あちらだと? 話によると、マンデリンという都市はこの辺りにあるのではないか?」
アルフォンスの言葉に怪訝な表情を浮かべるアレン。
近くに都市があるというのに、わざわざこんな場所に立てられた建物に泊まる理由が分からないのだろう。
それは他の者たちも同様だった。
ただ一人、フローラだけは別の点を気にして、ソフィアに視線を向けた。
「ソフィアちゃんは、どちらで泊まるのですか?」
唐突な質問。
一瞬意味が分からなかったが、すぐに理解するとソフィアは答えた。
「私はいつも通りマンデリンに戻って、シルヴィアの家の自室で寝泊まりしますよ」
「そう、ですか……」
目に見えて落胆をするフローラ。
次の瞬間には、離れた場所に立つシルヴィアとロレッタたちに視線を向けた。それも一瞬の事で、その動作に何の意味があるのかソフィアには分からなかった。
すると、似たように不満を持ったような表情を浮かべるアレンが、アルフォンスに尋ねた。
「何故、こちらに泊まるのだ? ここから近いのであれば、そちらで泊まるべきだろう?」
当然の疑問だ。
フローラもアレンも他国の重鎮。近くに都市があり、宿泊施設があるというのに、何故か宿泊目的ではない建物で寝泊まりをすることになる。
疑問に思わない方がおかしいだろう。
アルフォンスもこの問いかけは想定できていたため、すぐに返答をする。
「いきなりマンデリンの都市は少々刺激が強いと判断しまして」
「刺激が強い? どう言う意味だ?」
アルフォンスの説明に、より困惑した表情を浮かべるアレン。
だがそれと同時になにかよからぬことを企んでいるのではないかという表情を浮かべている。
アレンに引くつもりはないようだ。
そして、それはフローラも同じことであり、二人の護衛も二人の気配を感じてアルフォンスに視線を向けた。
「明日の方が良いと思いますが?」
念のため、もう一度尋ね返す。
だが二人の返答は首を横に振るだけ。つまり譲る気がないと言うことだ。それからしばら時間が立ち、アルフォンスは決断を下した。
「仕方がありませんか。百聞は一見に如かずと言う言葉がありますからね。分かりました、一先ずこちらについて来て下さい。」
アルフォンスがそう言うと、クリスタルマウンテンとは反対の森に入って行く。
そこから数分もすればマンデリンの光景を見ることができるだろう。ソフィアもアルフォンスの思惑に気づいて、フローラを伴ってマンデリンの方へ歩を進めるのであった。
時刻は、午後六時。
だんだんと冬が近づいてきており、太陽が沈む時間も早くなって来た。太陽がクリスタルマウンテンに沈み、地上から放たれる光が空を照らす。
一面に光が宝石のように敷き詰められ、高層ビルが一際大きく輝いていた。
見事な夜景だ。この光景だけでも、技術力の違いがありありと分かる。
マンデリンよりも高所に位置する研修所だからこそ見える絶景。周囲を覆う木々を切り開けば、最高の夜景を堪能できるお店として利用できることだろう。
「「「「「「「「……」」」」」」」
ソフィアの目の前では、マンデリンの夜景を見て硬直する人間たち。
フローラもアレンも例に違わず、呆然とした表情で目の前の光景を見下していた。信じられない光景なのだろう。
ソフィアにもその気持ちが痛いほどよく分かった。
(初めてここへ来た私もこんな感じだったのですね)
そう考えると、なかなか感慨深いものである。
「コホン。と言う訳で、少々刺激が強いかと思いまして、本日はそちらの建物にお泊り下さい」
アルフォンスの締めくくる言葉に、反論する者はいなかった。
それもそのはず、遠目に見える夜景だけでも、彼らの常識を遥かに超えるものなのだから。呆然としながらも、アルフォンスの言葉に無意識に頷くのであった。