第87話 フェルの世界
更新が遅れて申し訳ありません。
想像以上に、新生活が忙しいものでして……。
その日の夕方。
シルヴィアたち一組しか来客がなかったが、常に肩ひじ張っていたためか思った以上に疲労していたようだ。
コックコートから私服に着替えると、そのまま帰路に着く。
特に寄り道をすることなく帰宅したソフィアは、そのままリビングに向かった。
「……えっと、これはどういうことなのでしょうか?」
顔に困惑の表情を浮かべるソフィア。
思わず、リビングから出ると扉を確認してしまう。
(ここは、リビングであっている……はずですよね?)
何度も確認するが、ここはリビングだ。
しかし、ソフィアの目の前に映るのは大自然。季節はずれな青々しい草原とそこに咲き誇るひまわりの花。
おかしい、おかしいのだ。
ここはシルヴィア邸の部屋の一つであり、小川が流れているなどあり得ない。
いや、そもそも部屋の大きさよりも遥かにこちらの方が大きいのだ。そして、何よりも疑問に思うのは、夕方にも関わらず太陽が中天に座していることだろう。
ソフィアは一度玄関に戻り、靴を持って来てから草原の中を歩き始めた。
「……こんなことができる人物は一人だけですよね」
大自然のパノラマを味わいながらも、深々とため息を吐くソフィア。
その脳裏には、黒翼をはためかせる黒髪の少女が思い浮かぶ。こんなことができるのは、彼女をおいて他にいない。
しばらく歩いていると、ソフィアの視界に趣のあるログハウスが目に入った。いかにもフェルが好みそうな外装だ。
絶対にあそこにいるという確信を抱き、ソフィアはそちらに向かって歩き始めた。すると……
――ドシン! ドシン! ドシン!
「へ?」
ソフィアの目の前を大型爬虫類が横切った。
全長は五十メートルほどだろうか。巨木のような四肢に、巨大な翼。まるでワイバーンのようではないか。だが、悲しいことにその大型爬虫類から感じる風格は、ソフィアの知るワイバーンとは文字通り次元が違った。
具体的には、千ワイバーンくらいだろうか。
そのあまりの威容に、ソフィアはその場で腰を抜かしてしまいそうになる。だが、それよりも大きな驚愕が、ソフィアにそれを許さない。
「一、二、三、四……あはははは、なんかいっぱいいますね」
千ワイバーンクラスの魔物が、ソフィアの視界には大量に映っているではないか。
これは夢なのか、いや夢に違いない。現実逃避していると、魔物のなかの一体がソフィアに視線を向けた。
矮小な小娘を獲物だと思っているのだろうか。一体の大型爬虫類がソフィアに近づいてくる。
(あっ、これ死にましたね……)
ソフィアは直感的に理解してしまった。
どれだけ頑張っても、目の前の強大な存在の前では逃げることさえできず、ただ食べられるだけなのだと。
そのことが分かっているからこそ、その場に腰を下ろしてしまう。
逃げることはしない。
自分の迂闊さに後悔を抱きながら、来るべき瞬間を待つ。
「……?」
しかし、いつになっても食べられることはなかった。そのことに疑問を抱きながら、薄眼で目の前の魔物を見た。
綺麗な爬虫類だ。
最初に見たドラゴンらしき生物と似ているが、二十メートルほどと小さくスリムなフォルムだ。そして、ソフィアの目を奪うのはその白銀色の鱗である。
白銀色の爬虫類は、ソフィアに顔を近づけたままじっと見つめている。匂いを嗅いでいる。そして、次の瞬間……
――プイッ
まるで不味そうとでも言っているような仕草だ。
いや、実際にそう思っているのだろう。一人と一体の間に言葉の会話はなかったが、ソフィアにはそれが伝わってしまった。
そして、それが分かったからこそ、先ほどとは一転してソフィアは勢いよく立ち上がると抗議の声を上げた。
「流石にそれは失礼ではありませんか!? よく見て下さい、お肉が柔らかくて美味しそうですよ!」
「……フッ」
ソフィアの抗議は虚しく、白銀色の爬虫類は鼻で笑った。
まるで「脂肪の塊だろう」とでも言っているように。そして、それを証明するようにその視線はソフィアの腹部に向いていた。
そして、近くに生えている草を食べ始める。
どうやら、この爬虫類は草食もしくは雑食のようだ。
最近少し体重が増えたと思っているソフィアは、その視線や行為に思わずうめき声を上げてしまった。
(な、なんでしょうこのワイバーンもどきは……いえ、ワイバーンよりも格が上なのは分かりますけど、非常にムカつきます)
相手は強大な存在。
だが、なんというかソフィアには身近な存在のように感じてしまう。さらに抗議の声を続けようとするが、ワイバーンもどきはソフィアに興味を失ったのか、背を向けてどこかへと飛んで行ってしまった。
その後ろ姿は、悔しいが綺麗としか表現できないものだった。
「はぁ……とりあえず、フェルちゃんを探しましょうか」
どうやらここにいる魔物は、ソフィアに危害を加えるつもりがないのだろう。いや、そもそもあまりに小さすぎて存在を把握していないようにも感じる。気にしても仕方がないと、ソフィアはフェルがいそうなログハウスへと向かった。
「あっ、猫です……普通の猫です!」
ログハウスの前には、気持ちよさそうに日向ぼっこをしている真っ白な毛並みの猫の姿があった。
ただ、一点だけ普通の猫のように見えないのは、なんとも偉そうなところだろうか。
猫サイズの椅子に踏ん反り返って、なんともふてぶてしい雰囲気が漂っている。
「何と言いますか、このお腹……親近感が湧きますね」
ソフィアは、猫の丸々としたお腹を見て表情を緩める。
そして、触ってみようかとお腹に手を伸ばすと、不意に……
「気安く触んなよ。あと、これは脂肪じゃなくて筋肉だからな。そこんとこ覚えとけ」
「……」
きっときのせいだろう。
猫が喋るなど。尻尾で叩かれた手を擦りながら、そんなことを思うソフィア。だが、その猫は「にゃ~」と一鳴きすると、椅子から飛び降りて草原へと歩いて行った。
やはり普通の猫だったようだ。
言葉を話すはずもないし、どこにでもいそうな肥満体系の白猫だ。ソフィアはそう思うことにした。
「トノ、ここにあった私のお菓子知らない?」
すると、中から聞き覚えのある声が響く。
フェルの声だ。やはりこのログハウスの中にいたのだろう。魔王祭で見かけないと聞いていたが、ここにいたのか。
ソフィアが白猫の後ろ姿から、扉の方に視線を移すと、フェルが勢いよく出て来た。
「げっ、お姉さん!?」
開口一番に、淑女にあるまじき言葉が出て来るフェル。
おそらく、この場にソフィアが現れること自体が、フェルにとっては想定外だったのだろう。
「……フェルちゃん。説明、してくれますよね?」
ソフィアは、真顔でフェルに問いかけた。
その目は笑っておらず、アクアマリンよりも深い青をしていた。その瞳を見て、フェルは冷や汗を額に浮かべながら、姿勢を正すと勢いよく手を額の前で伸ばす。
「イ、イエス、マム!」
フェルに拒否権はなく、ソフィアはフェルに続いてログハウスの中へと入って行った。
「それで、いったい何を企んでいるんですか?」
椅子に腰かけると、開口一番に目的を尋ねる。
この空間についてや、先ほどの銀色の爬虫類……認めたくないがドラゴンについて、などなど聞きたいことは山ほどある。
だが、それについては今さら聞いても意味のないことだろう。
それよりも、フェルが魔王祭というお祭りでじっとしているはずがないのだ。このような閉鎖的な空間で、こそこそと何かをしている。それだけで、何かを企んでいるのは間違いないと考えられるからだ。
「……ううん、特に何も。ただ、久しぶりにペットの様子を見ようかなって」
「嘘ですね」
「少しくらい迷ってもいいんじゃないの!?」
「なら、私の目を見て話してください。視線が泳いでいるので、隠し事をしているのは明確ですよ」
「うっ」
フェルはソフィアの追求に言葉を詰まらせる。
まるで尋問官のような気分だ。とはいえ、この世界にフェルのような人物ばかりが生きているのであれば、きっと彼らの仕事は楽になるだろうが。
ソフィアの視線に、フェルは追及から逃れられないと悟ったのだろう。
席から立ち上がると、隣の部屋に向かっていく。それを見たソフィアは、その後ろに続いて部屋に入った。
「学校の課題をやっていたんだよ。ただ、絵が大きいからこっちでちゃちゃっと……」
「これは……」
ソフィアは言葉を失い、魅入ってしまう。
部屋の半分以上を占める巨大な絵画。その光景に既視感を覚えていると、不意にモデルがマンデリンなのだと気づいた。
しかし、その全体は夜の黒とランタンのオレンジ色の光で飾られており、モダンな雰囲気はどこにもない。
ファンタスティックな光景に一転していた。
建物自体も、変化しており中央に立ち並ぶビルは、お城を中心とした尖塔に変貌している。一枚の絵としてのクオリティは、間違いなく後世に残るほど。
「フェルちゃん、もしかして……」
数瞬の間、絵に視線を奪われていたソフィアだが、フェルにジト目を向ける。
ソフィアは、フェルが大規模に世界を編纂する際の準備を覚えている。必ずと言って良いほど、絵を描くのだ。
それがなくともできるそうだが、それだとイメージが定着しきらないらしい。
では、何故こんな絵がここにあるのか。
ソフィアはすぐにそれを理解した。そして、見抜かれたことに気が付いたのか、フェルは足を交差させて明後日の方向を向くと下手な口笛を吹く。
「な、なんのことかな。私はただ、学校の課題を……」
「嘘ですよね」
「……お姉さんの信用のなさが辛い」
ソフィアにバッサリと切り捨てられたフェルは、落ち込んだ様子だ。
「信用していますよ。フェルちゃんなら、絶対になにかよからぬことを企んでいると」
しかし、ソフィアはフェルを信用していない訳ではない。シルヴィアや、この国の住人も同じだ。
――フェルがお祭りでじっとしている訳がないと。
それは共通認識に近い。
フェルという歩く災害を知っていれば、誰もがそう思ってしまう。それを聞いたフェルは、がっくりと肩を落とす。そして、「いくらなんでも、それは酷い」と文句を言うが、日ごろの行いの結果だ。
この後、扉を開けっ放しにしていたため、シルヴィアも部屋に入ってきた。この絵を見た瞬間、フェルに雷が落ちたのは語るまでもないだろう。