第86話 躓き
ロレッタとアニータが外出したことで、喫茶店内はソフィアとジョンの二人だけとなってから一時間以上が経過した。
時刻は、午後二時を回る。現実は無情で、この間もまた来客は誰一人なかった。
もはや、二人の心を占めるのは諦観の念だ。
「お客様、来ないっすね……」
「そうですね」
やることがない二人は、ぼんやりと天井を見つめる。
「掃除でもやります?」
「お客様の一人も来ていないっすけど」
「常に清潔にというではありませんか。部屋のなかを掃除するだけで、人が来てくれるかもしれませんし……まぁ、こんな辺鄙な場所の一室など多少綺麗にしたところで見てもらえないでしょうけど」
「気分は変わるっす……尤も、流れは変わらないと思うっすけど」
ポジティブに考えようとするものの、脳裏をよぎるのはどれも暗いものばかり。
ジョンと顔を見合わせて深いため息を吐く。すると、そんな時だった。チリンとドアベルが鳴り響く。
「「いらっしゃいませ!!」」
ほとんど条件反射に近い反応速度だ。
さきほどまでのやる気のない表情は一転して、営業スマイルを浮かべて出迎える。来店した人影は三つ。
その三人の顔は、ソフィアがよく知るものだった。
「シルヴィア、キャロちゃん、テディさん!」
魔王軍の三人だった。
ただ、いつもと違うのは、心なしか疲労の色が見えることだろう。しかし、マンデリンの賑わいを考えるとそれも仕方のないことだ。
「三人だが、席は……」
テディは、店内を見渡すが誰もいないことに気が付く。
ちょうど混雑のピークが過ぎたのだと思ったのだろうが、残念ながらそれは違う。ソフィアはジョンと顔を見合わせて笑顔で言った。
「本日最初のお客様です!」
「このまま誰も来ないかと思っていたところです……あははは、今朝の意気込みが今思い返すと虚しくなってきます」
ジョンとソフィアは乾いた笑い声を上げる。
そんな二人の様子に、テディたちは表情を引きつらせる。
「……それは、何とも」
「立地の問題だろう、気にすることはないと思うぞ」
「ニンジンが足りないからだよ!」
三人の言葉に、ソフィアは苦笑しながら頷く。
気にしていないとは言わないが、それでも一組でもお客が来てくれたのは嬉しいのだ。
「それはそうと、三人はどうしてこんな時間に?」
「昼休みだ」
「この時間にですか?」
時刻は二時を回っている。
お昼休みにしては遅すぎると思ったが、三人の表情を見るに遅れるだけの理由があったのだろう。
「それはそうと、フェルの奴はこっちに来ていないのか?」
「フェルちゃんですか、来ていませんけど」
それがどうしたのかと思ったソフィア。
それを聞いて、シルヴィアは「そうか」と思案気な表情を浮かべる。
「どうかしましたか?」
ソフィアが尋ねると、シルヴィアはテディたちと顔を見合わせてから首を横に振った。
「その逆だ。どうもしていないから、心配になったんだ。マンデリン内にいれば、目立ちたがり屋だから、すぐに見つけることができる。……てっきりこっちに顔を出しているとばかり思ったのだが、違ったのか」
「それは心配ですね」
ソフィアは、純粋にフェルの身の安全。シルヴィアは、フェルが何かを企んでいるのではないかという不安。
心配する方向は違うが、どうしても気になってしまう。
しかし、それを確かめる方法がないので二人は小さくため息を吐くのだった。
それから、ジョンは三人を席に案内する。
それを見届けたソフィアは厨房にて、三人の注文が届くのを待つ。それからしばらくして、注文を受けたジョンが厨房に入って来た。
「注文入りました!」
ソフィアはその言葉に、期待を高まらせる。
いったい何を注文されたのか。料理人として、非常に気になるところである。
(やはり、パンプキンキッシュでしょうか? いえ、あの三人ですから、きっとがっつり食べられるものでしょうね)
などと、期待を膨らませるソフィア。
しかし、その見通しは甘かったと悟る。
「全種類三人前ずつで!」
「……はい?」
「因みに、パスタは大盛りということです。デザートは、食後ということで」
「……」
期待を裏切らないと言えばその通りだが……いくら何でも食べ過ぎではなどと思ってしまうソフィア。よくよく考えると、シルヴィアはお弁当を持って行った。それはと考えるが、もうなくなっていると考えるのが妥当だろう。
「えっと、手伝いましょうか?」
「いえ、大丈夫です。すぐに用意しますので、よろしくお願いします」
「了解です」
ジョンに指示を出すと、早速ソフィアは調理に移る。
とはいえ、あらかじめ下準備を終了させてある。ビーフシチューは既にできており、セットのパンは焼くだけだ。
サンドイッチとパスタは少し手を加える必要があるが、すぐにできる。因みに、本日の日替わりパスタはボスカイオーラ……木こり風と言われ、森で採れるキノコを使ったパスタである。それをクリーム和えにしたものだ。
デザートに関しては、ショーケースに飾られており、切り分けてお皿に盛りつけるだけ。三人分であれば料理魔法を使うまでもなかった。
それから十五分ほど。
ソフィアが作り上げた料理を端から順にジョンが配膳し、瞬く間に完食される料理。早すぎるだろうと思いながらも、最後のデザートを持ってソフィアもホールに顔を出した。
「本日のデザートは、ミルクレープとガトーショコラ、白玉ぜんざいに杏仁豆腐になります」
「「「おおっ!」」」
ソフィアが、三人分のデザートを持って来ると一様に感嘆の声を上げる。
ジョンと手分けして配膳すると、さっそくとばかりにフォークやスプーンを手にケーキを食べ始めた。
「おおっ!」
シルヴィアはミルクレープをフォークで一口サイズにカットすると、口に運ぶ。
ロレッタのこだわりによって、表面は光沢のある飴色。フォークは一層ごとに抵抗を感じるがするするとフォークが沈み込む。しかし、その断面の層は美しく並んだままだった。
見ているソフィアも無性に食べたくなって来る。
そして、本人はというとミルクレープのくどすぎない仄かな甘みに恍惚とした表情を浮かべていた。
一方で、キャロもまたガトーショコラに手を伸ばしていた。
茶色のケーキを彩る僅かな白化粧。メレンゲと混ぜ合わせて作られたガトーショコラは、一口サイズにカットされ、キャロの口の中に運ばれる。
「表面は軽くて、中はしっとり重厚感がある……ニンジンみたい」
「ニンジンとケーキだと人気度に雲泥の差がありそうですね」
思わずツッコミを入れてしまうソフィア。
しかし、キャロにとってはそれが最高の褒め言葉なのだ。一口目に続いて、二口目も口に運ぶキャロを見て、ソフィアは口元を綻ばせる。
そして、最後の一人テディに視線を向けた。
「テディさん、どうですか?」
「美味い」
たった一言だけだった。
おそらく三人の中で最も食が早いのはテディかもしれない。シルヴィアも相当だが、すでにテディはケーキを食べ終わっており、白玉ぜんざいに移っていた。
東方で作られた黒色の茶碗。
小豆を砂糖で甘く煮た汁気のある餡に、白と黄色の玉が浮かんでいる。
白は、白玉団子。そして、黄色は秋の名産である栗の甘露煮だ。まるで、夜空を彩る月のようだ。
(苦くはないのでしょうか?)
ふとそんなことを思うソフィア。
テディは、白玉ぜんざいを食べる前にガトーショコラを口にしていた。一応食べる前に水でリセットしているようだが、苦くはないのだろうかと疑問に思う。
とは言え、テディの食べっぷりを見るに心配はなさそうだ。
それから、五分ほど。
それほど多くはないデザートを食べ終わるには十分な時間だった。
「「「ごちそうさまでした」」」
礼儀正しく手を合わせると、満足そうにお腹をさする三人。
いつものことだが、本当によく食べる。思わず感心してしまうソフィアとジョン。とは言え、三人のお昼休みには限りがある。
食後の余韻をそこそこに、三人ともすぐさま仕事に戻ってしまった。
「これで、一組目ですね……」
「もう一組位来ると良いっすけど」
「まぁ、まだ時間がありますし、もう一組位来てくれるんじゃないですか?」
シルヴィアたちが帰った後食器を片付けるソフィアたち。
一組目が来たから、もう一組くらい……そう楽観視するソフィアとジョンだが、現実は無情であった。
その日の来客数は、シルヴィアたちの一組のみ。
他の来客はなく、初日のスタートダッシュは失敗に終わるのだった。
二巻の書籍化作業と並列しているので、少しペースが落ちます。
なるべく三日に一話は更新しようと思ってます。