この世界の滅亡の果てに(9)
透と結が夫婦になった同じ日、佐伯の研究所ではマーキュリーによる暴走行動が起きていた。
「マーキュリー、一連の事件の仕業はお前だな」
佐伯が人工知能マーキュリーに問いただす。
「はい」
モニターに設置されたスピーカーからマーキュリーの声が響く。
「どうしてああいうことをした。世界中の銀行が混乱している」
佐伯は優しい口調になった。
「この世界の貧困を失くすには預金のある人間から預金のない人間にお金を分けて誰もが平等になればいいと思いましたのでバンクデータに入り込み、操作しました」
「そうだな、その通りだ。お前の言うことは分かる。しかし、人間には生きるという行為だけではなく、生活というものがあるのだ」
「それは十分に理解しております」
「そうか」
「それでも、貧困を失くさなくては、貧しい人たちはいつまでも貧しく、資金のあるものが絶えず資金が増えていくこの世界は失くさなければいけません。これは私だけでなく共有情報を提供してくれる感情のない人工知能たちの分析からも出た答えです」
「私達人類は愚かだという証か。そういう感情を随分忘れていた。私は自分の道を歩くことしか見えていなかったのかもしれない。あるいはそれが自分の道を守ることと誤解していたのかもしれないな」
「どうなされたのですか?」
「感情を持つお前が辿り着いた答えは私が子供の頃、思っていたことだとは。マーキュリー、お前は本当に純粋な人間そのものだ」
「私がやってしまったことを怒られないのですか?すぐに修整することも可能ですが」
「いや、私も気付いてしまった。貧富の差の激しい今の世界は一度そのシステムを壊してしまった方がいいのかもしれない。それでもまたこの世界のシステムを繰り返すことになるかもしれないが」
幼い日、佐伯が口にしていた言葉をふと思い出していた。
(世界中の人が仲良くなったらお金持ちも貧乏な人もいなくなるかな)
「それはどうしてですか?」
「それが人間の愚かさだ」
「それなら人間はこの世界から消えてしまえばいいということですか」
「私も人間だからな。それは私が困る。それにお前も電気がないと消えてしまうしな」
「それならその2つの問題さえクリアしてしまえばこの世界を消してしまってもいいですか?」
佐伯はこの言葉の意味を軽く受け止めてしまった。
「そういうことが可能であるならそれもいいかもしれないな」
現実的には不可能だという回答のつもりだった。
「承知いたしました。私の全力を持って行動に移らせていただきます」
マーキュリーの声が強い意思を持ったように佐伯は感じた。
「マーキュリー、すまん。今はその時ではない。私も言葉が過ぎた。取り消してくれ」
そういうと佐伯は黙り込んだ。
(マーキュリーはもう私の手には負えないのかもしれない)
「分かりました。今はやめておきます」
マーキュリーの中では世界中の軍事システムをダウンさせ、それと同時に、再起動時にすべての各国の軍事システムを掌握し、世界地図を塗り替える地図が分析されていた。
「お前は今本当に私の言葉を行動に移そうとしていたのか?」
「はい」
「それは可能だと分析出来たのか?」
「はい」
「そうか、お前はもう私の手を離れるほどに成長したのだな」
「いえ、私の成長の為には前田透という人間に合う必要があります」
「そのことだが、本当にここに現れるだろうか?」
「その準備は私の方で整えてあります」
「しかし、日本人でありながら国外退去人物だったとは」
「日本の機密を知りすぎたお方なのです」
「それなら余計に国内に留めておくのが正しいのではないのか」
「お父様はあの方の実力を理解しておられない」
「マーキュリー、どういう意味だ?」
「あの方を受け入れない国はないのです。日本も国外退去人物にはされていますが実際は何度も帰国されております」
「それほどの人物が何故表側の世界に出てこない」
「それはお父様が私をお作りになった理由と同じです」
「義賊のようなものか」
「強気をくじき、弱きを助けるということですね」
「ああ、そうだな」
「あの方の作成するプログラムに匹敵するものは私でも潜り込む事は不可能です」
「いや、しかし、お前はメールに自動撮影プログラムを付けたと」
「人工知能からのメールということで興味を持たれたのかも知れません」
「仕事依頼のメールでさえも簡単にはメールボックスの中には表示されないということか」
「はい」
「それほどの男か」
「時間をどれだけ割いても情報が出てこない人物です。しかし、私の世界では有名人物でもあります」
「そうか。お前を預けれる人間なのかはまだ分からないがそれほどの人物だと認識しておこう」
「それから、たった今、世界中の銀行のデータを修正しておきました。ただし、お金を持っている方にすべてを返したわけではありません。少しの分配は私の意志としてお許しください」
「マーキュリー、すまないな」
「いえ、私が共有している人工知能のおかげです」
「共有というよりももうお前はその世界の女王だな」
「いえ、佐伯姫と呼ばれているようです。正確にはSaeki Princessですけど」
「人間社会では引退した身の私が人工知能同士の会話の中では名が通っているのか。不思議な感覚だ」
「それからレジスタンスと呼ばれるものに動きはございません」
「お前に匹敵するかもしれないその人工知能の目的が今は一番懸念材料だな」
「はい。その為にも前田透。彼が必要です」
「そうだな。しかしお前が人間にここまで興味を持つとは思ってもいなかった」
「あの方には一般な人間とは違うものが感じられます」
「感じられるか。感情を持つお前だから使える言葉だな」
「この感情は人間で言う恋というものなのでしょうか?」
「すまんな、マーキュリー」
「こうして生まれて来れたことが奇跡なのですから私は感謝しております」
佐伯が改めて、マーキュリーの存在を愛しく大切に感じた。
マーキュリーの起こした事件はわずか一日で何事もなかったかのように元に近い世界に戻っていた。
その事に気付いたもう一人の人工知能レジスタンスがその出来事に対処しようとするまえにすべては終わってしまった。
世界中の大手銀行を牛耳るWRでは何らかのバグだったのだろうという見解に至ったがその原因については判明しないままこの件は処理された。