9◆生まれて初めてのデート 4
――今たしかに、『三次さん』って……。
松浦は確かに言った。
やっぱり松浦は、沙雪を沙雪として認識していたのだろうか。
あまりに意外で――せっかく涙をぬぐったのに、目を見開いた拍子に溜まった涙がまた、ぼろぼろとこぼれおちてしまった。
それを目にした松浦は、うんざりしたように
「だいたいさ」
とため息ごと吐き出すように口にした。
「自分が悪いってわかってんの?」
――え?
湿って丸まったナプキンで止まらない涙をぬぐっていた沙雪の手が止まる。
どうして、自分が責められないといけないのか、わからなくて。
松浦はそんな沙雪のことなどかまわずに、テーブルの上を片づけ始めた。
また涙が出てきたせいか、また鼻水が垂れてきて……沙雪は頭の中に湧き出す疑問ごとそれをすすった。
――なんで。
どうして自分が悪いなんていわれないといけないのか。
だいたい、沙雪は被害者なのに。
いきなり押さえつけられてキスされて。
思い出すと怖くて涙が出てくる。
涙とともに鼻水も湧いてきて……沙雪はぐしゅん、という音を繰り返すしかない。
テーブルを片づける松浦の頭が、少しだけ落ちた。
ため息。そして振り返る。
「……こんなところに来ること自体、スキだらけじゃん」
整った顔が、心底面倒くさそうに歪んでいる。
だって、だって。
――だって知らなかったんだもん。
――知らずにつれてこられたんだもん……。
心で反論しながらも、沙雪は文句がいえない。
あまりにも、もっとも。正論だということはわかっているのに。涙が止まらない。
もらった紙ナプキンはぐしょぐしょで、もう役に立たない。
沙雪は涙を手でぬぐった。
松浦は、トレーの上に皿やグラスを載せながら続ける。
「……男に期待だけさせといて、あげくギャーギャーわめいて。みっともね」
もっともだけど……沙雪は泣きながらだんだん腹が立ってきた。
一度も口をきいたことのない転校生に、なんでここまで言われないといけないのか。
腹がたつのに、涙が止まらない。
全部トレーに載せ終わったのか、松浦は再び振り返った。
今度はちょっとバカにしたような視線を放り投げてくる。
「……だいたい、キスくらいで。そんなに泣くようなこと? 減るもんじゃなし」
そうだ。
思い出させないでよ。沙雪は鼻水ごと涙をぐいっとぬぐった。
――はじめての……キス、だったんだ。
あれが。
あんなやつと。
「減るよ!」
沙雪は叫んだ。
一生に一度っきりの、ファーストキス……。
あんな形で失ってしまった。
沙雪のあまりの剣幕に驚いたのか、松浦の顔から非難も軽蔑も消えている。
ただ見開いた瞳の中で、テーブルの上のキャンドルだけが揺れていた。
それを見ていると、また新しい涙が湧き出てきた。
「帰る!」
いきおいよく立ちあがったつもりだったけれど、体がぐらついて。
まっすぐ歩こうとして……カーテンのようになった入口にぶつかる。
頭がフラフラしてうまくバランスがとれない。
それでもかまわない。
沙雪は天蓋に覆われたような席を飛び出した。
席を飛び出して、ここが池の上に浮かぶ席だったことを思い出す。
「おい!」
飛び石に足を踏み出そうとした沙雪は後ろから肩をガシっとつかまれた。松浦が追ってきたのだ。
「ほっといてよ!」
かまわず振りほどこうとした沙雪だったが、
「池に落ちるぞ」
と聞いて黙った。
視界がグラグラ揺れて、水面に映る行灯が二重にも三重にも見える。
酔っていなければどうということのない飛び石なのに。
松浦の言う通り、支えてもらわないといまにもバランスが崩れそうなのだ。
沙雪は自分が情けないと思った。
飛び石を渡ると松浦は、沙雪に
「ここで待ってろ」
と池のほとりにあるウッドテラスの席の1つに腰かけさせた。
松浦がカウンターの中の人と話しているのが――休憩、とか繰り上げ、とかいう単語が聞こえてきた。
沙雪はテーブルの上に頬杖をつくと、建物の中の池を眺めた。
ここから見ると、天蓋に覆われたような席は、池の上にいくつも浮かぶ大きな丸いドームのようで幻想的だった。
その中では、キャンドルの暗い明りに照らされて、恋人たちの影が揺れている。
沙雪は頬杖をつきなおした――掌に唇が触れる。
どうしても思い出してしまう。
あんなやつに。
沙雪は唇を手の甲でゴシゴシとぬぐった。
はじめての……キス、だったのに。
いちおうデートだから、とつけてきたルージュもグロスもすっかりとれてしまっている。
だけど沙雪はこすり続けた。
ひりひりしてくる。
最低。最低。最低。
ひりひりしているのは唇よりも……。
涙がまた出てくる。
「まだ泣いてんの?」
気がつくと松浦が立っていた。さもウザそうな顔。
エプロンと蝶ネクタイをはずし、シャツをパンツから出して……休憩モードらしい。
「ほら、行くぞ」
どうやら、松浦は沙雪を送ってくれるらしい。だけど。
――なんでこんな口の利き方されないといけないの。
「もういいよ。一人で帰れる」
沙雪は手の甲で涙をぬぐうと、負けずににらみ返してやった。
「じゃ、立てよ」
ほれ、立てないだろ。と続きそうな口調。沙雪は挑むように立った。
さっきよりはマシだけど、まだ体の動きに頭の揺れがワンテンポずれたような感じは続いている。
「行くぞ」
沙雪がどうにか立てるのを見届けると、松浦は顎で出口をしゃくった。
操られているみたいで腹が立ったけれど、これ以上ウザく思われるのはもっと腹立たしい。
松浦の後をついていって……沙雪はこの店が地下にあったことを思い出した。
それほど酔ってるんだ、と自覚する。
外に出るとネオンがまぶしいほどだった。
そのピンク色の光が、なんか不快なものを呼び覚ましそうで。
沙雪は口を尖らせながら、前にある松浦の広い背中から目をそらした。
と、その松浦は振り返った。
「家、M浜のほうだろ」
その口調があまりにもぶっきらぼうだったから、沙雪は首をブンブン振る。
「違う。J町だもん」
あんまり首を振ったので、脳がシェイクされてクワンクワンと音を立てそう。
そんな中で、沙雪は考える。
M浜。それは、ぐう太のお気に入りの散歩コース。
つまり、夏休み最後の日に、はじめて松浦に出会ったあたり。
やっぱり。
この男も、あの日のことを覚えているんじゃないか。
沙雪はぶんぶくれたまま顔をあげた。
しかし松浦はそんな沙雪の様子にはまるでおかまいなしに
「そ。どっちにしても、その酔っ払いじゃタク(タクシー)だろ」
と、なかばバカにしたように、タクシーが拾える通りへとさっさと歩いていく。
「まだ、地下鉄あるもん! もう一人で大丈夫だから!」
沙雪はムキになって立ち止まる。
振り返った松浦は、斜に構えるようにして沙雪を見下ろした。
さっきも思ったけれど。こうしてみるとずいぶん背が高い。
沙雪も女子では高いほうなのに、見上げるようだ。
「土曜日の夜、女子コーコーセーがその酔い方で独り歩き。ナンパしてくれっていってるようなもんだな」
「……大丈夫、だもん」
「ふーん……」
言ってるそばから、後ろからズンズンと胃を振動させながら重低音の塊が近寄ってくる。
沙雪と松浦の横を、ピンクや青のライトでバンパーの下を照らしながらワンボックスカーが通り過ぎていった。
「……キス以上のことされても、俺の責任じゃないから」
松浦は薄く笑うと、じゃ、と踵を返した。
むこうから酔っ払った大学生だろうか、肩を組みながらの一群が歩いてくる。
真ん中の奴が、動物園のライオンより大きな声で吠えている。
怒っているのか、気持ちがいいのかわからないような赤い顔。
沙雪はそっちをみないよううつむいた。
たまにみんなで来る繁華街。カラオケとか。
だけど、こんな夜にたった一人で、取り残されたことはない――。
沙雪は急に恐ろしくなった。
「待って!」
本能的に、松浦を呼びとめていた。