8◆生まれて初めてのデート 3
すごい力。
肩をソファーに押し付けられた沙雪は、身動きすらできない。
せめて顔をそむけるだけ……それがせいいっぱいの抵抗だった。
「やっ……」
そむけた頬に感じた、アルコールの臭いがまじった湿った息。沙雪は思わず目を閉じた。
次の瞬間を、悪夢だと思いたかった。
そむけた唇の横のほうからくっついた柔らかいもの。
ぶにゅっとした、生温かい肉の感触。
不快さに思わず目をあける。
杉本の顔のドアップ。
あまりに近すぎて、妖怪じみて見える顔。
焦点をあわせられるギリギリの距離で赤っぽいニキビ肌を確認したとたん、ふいに。
その顔が不自然なスピードで視界から消えた。まるで弾かれるように。
「お客さん。困ります」
押さえつけられていた体が軽くなり……低い声に降り返った沙雪が見たのは、背の高いホールスタッフに後ろから襟首を掴まれた杉本の姿だった。
どうやらこのスタッフが、沙雪から杉本を無理やり引きはがしてくれたらしい。
「……離せよッ!」
暴れようとする杉本を、スタッフは掴んだ襟首ごと放り出すようにした。
テーブルの上のグラスをなぎ倒しながら……杉本が床に投げ出される。
ウッドデッキの床が派手な音をたて、池の上に反響した。
天蓋風の薄い布に包まれた、それぞれの席の客も、何事、と様子をうかがっているのがわかる。
「店内でのトラブルは困ります」
「……ってぇ。何すんだよ!……あっ」
杉本がそのスタッフの顔に気付いたのと、沙雪が気付いたのとほぼ同時だった。
――うそ。
それは松浦峻だった。
間違いない。
暗かったけれど。
また、立て襟のシャツに黒く長いエプロンをつけたギャルソン風の姿だったけれど。
……見間違うはずがない。
「おまえっ……! 3組の松浦だな」
松浦は冷やかな眼で杉本を上から一瞥すると、倒れている彼の腕を引っ張り上げようとした。
杉本はそれをはねのけると、バネの様に飛び起きた。
「覚えてろよ!」
杉本は吠えると、ふらつきながらも飛び石を渡って立ち去ってしまった。
沙雪はただ放心したまま――それを見送る松浦の斜め45度の顔を眺めていた。
と。
松浦がこちらを振り返った。
恐怖のあまり動悸さえ忘れていた胸が……今頃になって激しく打ち始める。
「……大丈夫ですか」
何と答えたらいいかわからないけれど。
その丁寧語が、クラスメートに使われるべき言葉ではなく。
店のスタッフからお客に対して使われる言葉づかいであることはわかる。
もしかして松浦は、同じクラスの沙雪のことなど覚えてもいないのだろうか。
その整った顔を見上げながら……沙雪はとりあえずうなづいた。
やはり、松浦に間違いない。
松浦がやってきてから、この1週間。
一度も言葉を交わさなかったけれど……沙雪は気がつけば松浦を見ていたから。
嫌らしい、とあのピンク色のネオンを思い出しながらも、気がつくと視線が吸い寄せられている。
ひんぱんに遊びに来るようになった古田がいるとき以外の松浦は。
たいていぼんやり頬杖をついて、窓の外に顔を向けていた。
その斜め45度の横顔はどこか寂しそうで。
そう、最近現国の教科書の一文に出てきた『寂寞感』のようなものが漂っていた。
いや、それは。
古田らと笑っている時も、常に漂っている気がしたのだ。
だけど。
あんまりしょっちゅう見ているせいか、沙雪と松浦の視線はしばしばぶつかった。
そのたびに沙雪は……松浦ではなく、松浦の向こうにある窓の外を見ているようなふりをしてやりすごしているのだけれど。
このところ日に3回は必ず、目が合っていたのに。
それに、古田だって松浦の横から「三次さーん、元気?」と声をかけてくることがあったのに。
松浦は沙雪に気づいていないのだろうか。
松浦は、テーブルの上で倒れたグラスを元に戻しながら、紙ナプキンを何枚か手に取ると、ふいにそれを沙雪の目の前に差し出した。
それが何の意味かわからずに、沙雪は松浦を見つめるしかない。
「……顔」
「あ……」
松浦の低い声で……沙雪は、自分の顔が涙でぐしゃぐしゃだということに気付いた。
「すいません」
自分のことを覚えているかどうかはおいといて。
松浦が店員としてふるまっているなら、沙雪も客としてふるまうべきなのだろう。
沙雪はそういって紙ナプキンを受け取ると、涙をぬぐった。
知らない間に鼻水まで垂れていたらしい。
――恥ずかしい。
沙雪はめだたないように鼻をすすった。
「……三次さんも、もう帰ったら?」
――え。
沙雪は鼻をすするのをやめて、再び松浦を見上げた。