10◆処分
月曜日。
沙雪は朝補習をさぼってしまった。
登校するなり――沙雪は教室に松浦を探してしまう。
――来てない。
わかっていたけれど、沙雪は少し力が抜けた。
進学校であるJ高校は毎朝補習が行われる。
補習と言いつつ全員必修の授業扱いであるけれど。
先週水曜からさっそく始まった2学期の補習だが、松浦はさぼって一度も来なかった。……転校生のくせに。
それどころか、朝のHRすらも、ギリギリにしか来ないという堂々たる態度なのだ。
「おはよー、サユ」
「土曜日どうだった? 初デート」
席に着いた沙雪に、アッコたちが身を乗り出してくる。
土曜日のデートの顛末は……心配してメールしてきたレイコにしか話してない。
でも、そのレイコにも杉本に『はじめてのキス』を奪われてしまった件については、話せなかった……。
あんなやつに、生まれて初めてのキスを。
好きでもないのに……。
思い出したくもないのに、思い出してしまう。
思い出すと悔しさで奥歯に力が入り……上下の唇がひきつりそうになる。
そのひきつった自らの唇の弾力ですら、嫌だ。嫌だ。嫌だ。
沙雪は唾とともに嫌悪感を飲み込むと
「……うん。こんなもんかな、ってかんじ」
とそっけなく答えた。
あれさえなければ、そんな感想で終わったはずの、初デート。
「それより今日一限目の英語、あたるかな。あたし、なんにもやってない……」
と明るく話をそらす。
これ以上、思い出したくないから。
松浦は、まだ来るようすはない。
沙雪は、アッコに英語を写させてもらいながらも、開け放たれた廊下の窓を目の端で意識する。
だけど。
そこに松浦が現れたとして。
何といえばいいのだろう。
とにかく謝らなくちゃ……いや、お礼をいわなくてはならないことはわかる。
助けてくれたことと。
(結果的にキスはされてしまったが……)
それから、あのあと。
わざわざ地下鉄の駅まで送ってくれたのに。
沙雪ときたら、ありがとう、の一言も言わなかったのだ。
それにようやく気づいたのは、翌朝、ずいぶん陽が高くなってからだ。
あの翌日、つまり日曜日、沙雪は昼近くに目が覚めた。
少しだるいのは、二日酔いというやつだろうか――カーテンから透ける太陽は、前日の記憶から感情的な部分を薄めて……冷静に思い出させた。
『待って。……駅まで送って』
沙雪の嘆願に、松浦は無言で応じてくれた。
ただ、目だけで『ほら、やっぱり』と一瞬笑った気がした。
馬鹿にされたようにも、優しいようにも見えた瞳は一瞬だった。
松浦は背を向けるとすぐに沙雪の前を歩きだした。
それは結構早足だったから、沙雪は必死でついていかなくてはならなかった。
駅までの松浦は無言だった。
いや、たった一言。
『気をつけろよ』
ポケットに手を突っ込んだまま、放り投げるように言った、ぶっきらぼうな一言。
考えてみたら。
彼がそれを言ったのは、改札のところだった。
つまり、改札まで一緒にいてくれたのだ……。
それに対して、何て答えただろうか。
まったく思い出せない。
もしかして、うなづいただけかもしれない。
わざわざ、休憩時間を使って駅まで送ってくれたのに。
あのときに、『ありがとう』と言うべきだった……。
思い出してしまうと。
恥ずかしさと、後悔と。
一気に溶け出してくる気持ちに耐え切れず、沙雪は再び夏布団の中にもぞもぞともぐりこんだ。
バカ。バカ。バカ。
このまま地底の底にもぐりこんでしまいたい。
布団の奥深くにうずくまった沙雪の耳に、キュウン、と声がした。
布団にトンネルのような隙間を作って外をのぞく。
――すると、ちょうどそこに、ぐう太の切ない目があった。
ベットの端に足をかけるようにして、こちらをのぞいているらしい。
「ぐう太、おいで」
沙雪は手を伸ばすと、ぐう太を抱き上げベッドに載せた。
なぐさめてほしかったのだ。
だが、すぐにぐう太はベッドを飛び降りてしまった。
「ぐう太ぁ、なあにぃ?」
仕方なく身を起こした沙雪に、ぐう太はすかさずリードを咥えて持ってきた。
目がキラキラしている。
「散歩?」
沙雪は伸びをした。今日もいい天気らしい。
カーテン越しに見える陽は高いものの――夏の盛りよりはその位置は低くなっているらしい。
季節は確実に秋に向かっているのだ。
海水浴客がいなくなったM浜を散歩したら、気持ちいいだろう――と思いだして、沙雪は布団を再び抱きしめる。
『家、M浜のほうだろ』
昨日の松浦の声と。あの、夏休み最後の日の防波堤の夕陽が、鮮やかに蘇る。
――松浦のヤツ。
覚えてたクセに……無視してたんだ。
そんな風に思いだすと、胸が苦しくなる。
そのくせ、甘酸っぱい切なさが胸から喉を超えて瞳の奥にまでこみあげてくる。
ぐう太はそんな沙雪の心中を知らずに、リードを咥えたまま、しっぽをパタパタ振っている。
早く行こう、と催促しているのだ。
「……今日は駄目。お父さんと行きなさい」
沙雪はそういうとまた布団にもぐりこんだ。
でも。
――わざわざ、助けてくれた。
――駅まで、送ってくれたんだ。
思い出すと体中の細胞がきゅっと縮むのがわかる。
その1つ1つが……いっせいに吐き出した気体が肺に充満したように……苦しくて。
沙雪はそっと溜息をつく。
チャイムが鳴り、同時に先生が入ってきた。
朝のHRだ。
てんでにしゃべっていた皆はあわてて席に戻った。
英語の教科書から顔をあげた沙雪は、廊下を松浦が走ってくるのをいち早く見つけた。
さすがに今日はゆっくりしすぎたのだろうか。
一足、とはいえ先生より遅いのははじめてだ。
後ろの引き戸めがけて廊下を走る松浦と、ふいに目が合った。
視線がピン、と張りつめて、沙雪の息が止まる。
しかし、それはほんの一瞬だった。
松浦は、特に表情を変えずに通り過ぎると、引き戸を開けた。
と、そのとき。
「松浦」
先生が、呼び止めた。
松浦は教室の後ろで立ち止まっているらしい。
沙雪は他の者のように興味本位で振り返ることができない。
「これが終わったら、職員室に来なさい」
「……ハイ」
松浦の返事、そして椅子を引く音。
沙雪は息をこらして、背中で聞きとっていた。
まもなく朝のHRは終わり、松浦は先生に言われたとおり素直に出て行った。
「なんだろうねー。朝から呼び出しって」
「補習来ないから注意されるんじゃない?」
沙雪は松浦の背中を見送りながら、アッコたちが噂するのを聞いていた。
しかし……それきり、1時限目がはじまっても、松浦は教室に戻ってこなかった。