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姫と騎士と、終わる世界  作者: 友浦
6/24

姫の目覚める日、騎士は姫を守る

 花火も終わってしまい、キラキラとした夜景はもう、静かな水面のようです。

「さすがにもう帰らないとな!」

 了悟はそう言ってもたれていた柵から身を離すと、短くなったタバコを地面へぽいと捨てました。

「あ、だめでしょ! ちゃんと灰皿に捨てなきゃ!」

「こまけーなぁ、キサは」

 綺紗に言われて、やれやれと腰をかがめて拾うと、小銭入れのような形の携帯灰皿をポケットから取り出してしまいます。

「あんたねぇ、携帯灰皿持ち歩いてるなら、最初からそうしなさいよ」

「だって一応、俺は不良だし……」

「どういう理由よそれっ」

 まったく。綺紗はため息をつきました。

「それに私が目の前でそんなことをされて、注意しないわけがないでしょ」

 人差し指を立てて、びしっと了悟の目の前に突き立てます。もし眼鏡をかけていたら、くいっとふちを上げていたことでしょう。そんな綺紗に、

「まあそう……だから、なんだけどな」

 なぜだか了悟は涼しい顔で笑っています。たまによくわからないことを言うものです。もう綺紗は気にせずに、歩き始めました。

「は~あ。帰ったら、ママにしかられるかしら……」

「ま、俺の携帯番号知ってるし、かかってくると思ったけどなあ」

「あっ! もしかしてママ、まだ出かけたまま……帰ってないのかしら?」

 それならそのうちに帰ってしまえば心配かけさせないし、しかられないわね!

「おまえ意外と優等生じゃねーなー」

「う、うるさいのっ! いーから行くわよ!」

 カハハハ、と笑いながら原付を押して歩く了悟の背中を、綺紗もあわててぽかぽか叩きながら押しました。

 幸い……とみていいものかはわかりませんが、警察に見つかるまでの間、原付バイクはかなりの距離を走っていたようだったので、原付を降りて押してゆっくり歩いても、十五分ぐらいで綺紗の家につくことができました。家の窓を見るとすべての電気が消えています。

「やっ……た! ママ、まだ帰ってないみたい……?」

 家全体が、夜空にとけこむように真っ暗です。

 あれ……。

 なんだか、妙な感じがしました。妙というより、嫌な感じです。家の窓の中で、暗い影がゆらゆらと動いたような感じがしました。もしも家に手が生えていたら、こちらに伸ばしているような――。何本もの手が――……

(なんか……さっきから、変な感じがする……。どうしちゃったんだんだろう)

「おー。それはよかった。でも、ちょっと今日は遅すぎたなあ。ごめんな」

「う、ううん、私のワガママ聞いてもらってたんだし、悪いのは私」

 いや、たぶんママにうしろめたいこと考えたからよね、と綺紗は頭から嫌な感じをふりはらいました。

「いやいや、ここは年長者の俺の責任にさせてくれ。病院勝手に連れて行ってるし……。うん、その旨ちょっと謝って帰るわ。ここ、いていい?」

「え、いいけど……病院行ったこと言うの?」

 隠そうと思えば、隠せるだろうけど……。そんな考えは、もちろん卑怯だとは思いましたが――

「原付のことまでは、ちょっと……言えない。でも、姉ちゃんが送っていってくれたことにでもして、病院行って父さんに会わせてきたことは、言う。さすがに」

 やっぱりそれが正しいんだろうな……と綺紗は覚悟して頷きました。「わかったわ」

「じゃ、バイクだけ自分ンちに置いてくるから。すぐ戻る」

 そう言って了悟は、とりあえずぱーっと自分の家に戻っていきます。綺紗は花壇の下の合鍵を取って、鍵穴に差し込んでぐっと回しました。

 あれっ?

 手ごたえがありません。どうやら空いているようです。

 ママ……でかけるとき鍵をかけ忘れたのかな。

 ……大丈夫かな。まさか、ど、(どろ)(ぼう)とか。このまま了悟が戻って来るまで待っていようか、などとそんなことを思いましたが、そうこうしている間にママが帰ってきちゃったらもったいないと、 “意外と優等生じゃない”根性で思いなおしました。()(だん)の下に鍵を戻し、心を決めて、家の中に入っていきます。

外から見たのと同じとおり、家の中は真っ暗です。

 あーやだやだ、と急いで玄関の電気をつけます。自分のまわりだけぼんやり明るくなりました。少しだけほっとします。

 スゥ……

 なにか、息のもれる音がしました。

 なに? 今の。聞き間違い……よね?

 さっき泥棒が入ったんじゃないかなんて考えたから、空耳が聞こえたんだわ、きっと。と、思いなおし――でも、たしかにさっき鍵が開いてたことが(のう)()をよぎります。

 スゥ……ス……

 また聞こえました! 今度は確かにはっきりとです!

「なんだろ……」

 足ががくがく震えてきました。

 ママ……お願いだから、早く帰ってきて……! 了悟……!

 綺紗はこのまま引き下がって一回外に出ようかと考えました。そこでママでも了悟でもいいから「変な音が聞こえたの」って、話を聞いてもらいたいと思いました。もう、“遅くに帰ったことがバレてしまうかもしれない”などというごまかしはどうでもよくなっていました。

 しかし、今は怖がるモードに入ってしまっているだけなのかもしれません。あと少しがんばれば、リビングの電気に手が届きます。ドアは開いているし。電気をつけて――なにかあったら、たとえば誰か知らない人がいたら、逆方向に、全力で後ろに逃げればいいのです。玄関を出て、ふり向かずに了悟の家に走ればいい……。

 綺紗は体をそのままに、ぐっと手だけをのばしました。かろうじて、スイッチに手が触れる距離でリビングの扉の前に立ちます。

 心を落ち着かせます。

 誰かいたら後ろに猛ダッシュ。

 誰かいたら後ろに猛ダッシュ。

 誰かいたら後ろに猛ダッシュ……。

 えいっ!

 スイッチを入れました。パカパカッ、と点滅して天井の電気がつき、広いリビング全体が明るく照らされます。

 絨毯に、長ソファ、大型テレビ、立体サウンドプレイヤー。いつも見ているとおりの風景です。ふだんならちょっと怖い、壁にかかっている牛の剥製の飾り物も、ああいつもとおんなじだわってホッとする安心材料になるくらいで……

 知らない人なんか、もちろんいませんでした。

 なんだ。やっぱりね。

 綺紗は急にバカバカしくなって、ずんずんリビングを進みました。この気分のまま、奥の台所の電気も点けようと思ったのです。

けれども。

 リビングの灯りが、ほんのり台所をも照らしていました。

 見たくない……けれど、でも、大丈夫に決まってる。その安心を確かなものにするために、綺紗は近づいていきました。

 けれども。

 台所の料理台と、その横に立つ冷蔵庫との隙間。料理台のガスコンロの下あたりまでの高さに、

 なんだかよくないものが見えていました。

 “よくないもの”。白いあれは、どうみても人の足なのでした。

 泥棒? むしろ、警察の()(たく)(そう)(さく)……? またはもしかしたら、霊的なものの可能性もある。あの病院から、死者のよくない霊を連れて帰ってきてしまったのかも……。

 ぞわぞわぞわ。

 そして、そんな言葉が似合うような、黒い影が揺れました。白い足の他に、黒いなにかがいる……? その影は、闇に紛れるようにしてかけぬけていきます。

 なに……あの影……?

 綺紗を、先ほども感じでいた“嫌な感じ”が襲っていました。

 しかし、影について考える間もないうちに、

 バタン。

 という音とともに、白い足の主が、糸の切れた操り人形のように上半身を倒し、前屈したように体を折りました。暗くてよく見えませんが、顔はこちらを向いています。泥棒や警察がいるとしたら、家の者が帰ってきたというのに、のんきにこんなことをしているはずがありません。ということは……。悪魔の城のような病院が脳裏をよぎります。

 綺紗は動かず、しばらくじっと見つめあっていました。闇に隠れた誰かが今にも飛び出して襲ってくるんじゃないかと思うと、震えるばかりで動けませんでした。しかし、向こうに(しゅ)(どう)(けん)を奪われて結局負けるなら、少しでもあがいたほうがいい。

 とりあえず。

 手元の台所のスイッチに手をかけました。

 逃げる心がまえはできていました。

 パカパカ、と電気がつきます。

「と……! どうしたの……っ! いったい、やだ、うそでしょ――」

 綺紗は悲鳴をあげました。そこには、 そこには……

「ママ……」

 白い足と、こちらを向いた顔。目は開いています。ママだとすぐにわかりました。髪を後ろに全部束(たば)ねて結っているのも、オレンジ色のエプロンも、その下に着た紺色の細いボーダーの半そでも、たしかに見慣れたママの姿です。

 真っ暗な、こんなところで、なにを……

 しかし彼女はママでしたが、いつものママではありませんでした。

 綺紗はすぐにピンと来ました。

 ママが、パパと同じ目をしているのです。まん丸く開かれた目は、しかし、どこも見てはいません。

 うつろで、生気がなくて、どこか夢の中を彷徨うような目です。

 正常では、ありません。

「どうし……どうしよぅ……!」

「キサ! どうした!」

 玄関の方から、バタバタとした音とともに、聞きなれた声が飛び込みました。

 ありったけの不安に心をせかしながら、綺紗のそばに駆けつけてくれる人といえば。

「了悟?!」

「悲鳴が……キサの……! いったい、どうした!?」

「ああ了悟!! 大変なの! ママが、ママが……!」

 心配顔の了悟に、ほっとしたのと、安心している場合じゃないのとで、言葉が宙をさ迷います。

「おちついて、何があったか、説明」

了悟は自分の息を整えるのもそこそこに、綺紗の両肩をそっと包むようにつかみ、噛んでふくむようにそう言って現実に引き戻します。綺紗は手ばなしそうになる意識を必死につなぎとめ、言葉をしぼりだしました。

「ママがね、倒れていて……!」

「えっ?」

 そこで初めて綺紗の向こうに横たわるママを見つけたのでしょう。了悟の顔に驚愕の色が浮かびました。

「様子がおかしいの、パパみたいなの……」

「おまえの……父さんに……?」

 ちょ、ちょっとどいてろ! と、綺紗を軽く押してママのほうに進む了悟。肌を白くした、人形のようにまるで動かなくなったママの前にしゃがみこみ、手を取ったり肩をたたいたりしてなにかつぶやいています。

「反応もない……。これは……マズイな」

 了悟は震える手を後ろに回してポケットから携帯電話を取り出すと、短い番号を入力し、すぐ話し始めます。

「救急車お願いします。あの、ちょっとヤバイ状態なんで、すぐ来てください。場所は……」

 てきぱきと、次から次へと簡潔に。

「はい……はい……、商店街の奥の二丁目の、そのスーパーの手前の……はい、すみません。できるだけ急いで……。はい、よろしくお願いします」

 電話が終わるや否や、画面を切ってポケットにしまうと、よいしょっとママの半身を起します。ママの首ががくんがくん揺れていることにも気を遣いながら、一度中腰になると体勢を整え、ママを抱えて立ち上がります。ママはやせても太ってもいないとはいえ大人です。最低でも五十キロはあります。しかし了悟は、立ち上がった時の勢いを殺さずに抱えたまま、リビングのソファまで移動させます。そのあと、さりげなくソファのそばの、はさみやとがった鉛筆、ペンなどの入った鉛筆立てを遠くの棚まで移動させました。そのあとはソファの下に腰を下ろし、ママの様態に目を光らせています。

 綺紗はただ見ていることしかできませんでした。


 救急車のまぶしい赤い光とサイレンが、綺紗をまるでテレビの中にいるような気分にさせました。

 救急車が到着するや否や、救急隊員が家の中まで迎えに来てくれました。ママは担架に寝かされて、救急車の中に吸いこまれていきます。ママを追いかけるようにして一緒に外に出た綺紗はぼうぜんとする中でも、必死に病院についていこうとしました。ママが病院に行ってしまったら、そのあとはもう、一人ぼっちです。パパもママも病院に入院してしまって、そのあとはどうしたらいいのでしょう。しかし、

「おじょうさん、どうか、そのお兄さんといっしょに家にいてね。おねがい」

 と、ママを救急車に乗せるのを手伝ったあと降りてきた看護師さんは、綺紗がいっしょに来ることをきつく断ります。パニックになっていた綺紗にはわかりませんでしたが、彼女は、夕方にパパのおみまいに行った綺紗を病室まで案内してくれたお姉さんでした。

「いやです! おいてかないで! おいてかないで!!」

 反射的に、綺紗は必死に叫びました。

「ごめんね……」

「ママまでいなくなったら、私、どうしていいのかわからない! 私も行く! ママのそばにいる!!」

 救急車はママを乗せた時のまま、まだ開いていました。綺紗は、扉を閉められないように体をわりこませ、しがみつきました。看護師さんが困っているのを感じましたが、それでも離れられるわけがありません。綺紗がじっと動かないでいると、

「キサ」

 聞き慣れた、ゆっくりした声に、後ろから呼びかけられました。

「なに……なに……!」

 今にも力づくで離れさせられそうで、ふり向くことさえ不安でしたが、そのほっする声にすがるように、自然と首が動きます。

 ふりかえった視線の先には、了悟が。綺紗の家の前、街灯や、救急車の赤い光に照らされながら、了悟が立っていました。彼はその華奢な体を動かずにどっしりと、こちらを見据えて待っていました。

 一瞬、了悟のもとに走っていって抱きつきたい気持ちが、綺紗の体中をかけめぐりました。でも、そんなことをしたら、救急車はママを病院へと連れていってしまうでしょう。綺紗が、どうしていいのかわからなくなっていると、了悟は一度、ゆっくりとうなずくのでした。それは、そのまま救急車に乗りこめ、という合図でないことはすぐにわかりました。絶望感が、綺紗をおそいます。今にも泣き叫びたい気持ちの綺紗に、了悟は、優しく言いました。

「俺が、絶対にいっしょにいるから。離れない。約束するから。だから、……こっちおいで」

 その口調は静かでしたが、救急車の赤い光や、ざわつくような非日常の不安を押しのけて、綺紗の頭に響き渡ります。

 綺紗の手が、救急車を離れました。

 後ろで、ばたんと扉が閉まり、けたたましい音の尾をのばすようにして、救急車が去って行きます。

 そこには綺紗と、了悟だけが残りました。

 綺紗は、了悟にかけより、ちょうど了悟の胸のあたりに、額をおしつけました。そして泣きました。了悟の手が、ぽんと頭にのせられます。

 あたりは静寂のままでした。


 それから綺紗は、了悟に連れられ家に入りました。なぜか了悟は迷わず台所に行きます。綺紗も急いでついていきました。

 了悟にうながされるままテーブルに着いてから、ほとんど自分が何をしていたかわからない時間が流れました。長かったようで、短いような時間。ふと、夢からさめたような気分になったのは、目の前にことん、と皿を置かれた時でした。

挿絵(By みてみん)

「とりあえず、食っとけ」

 キッチンは、香ばしい香りがただよっていました。どうやらチャーハンを、了悟が作ってくれたみたいです。

「食べられないわ……」

「じゃ、ラップかけとくから。その気になったら、食えな」

「……」

 綺紗は、テーブルにつっぷしたまま、チャーハンを見つめました。おなかはへっていましたし、了悟がせっかく自分のためにここに残って作ってくれたものでしたが、どうしても食べる気になりませんでした。なんだか、胃も気持ち悪い感じがします。

 無言の綺紗に、了悟は軽くうなずくと、学ランを腕まくりし、てきぱきと慣れた手つきでフライパンやしゃもじを片づけはじめました。ごはんを全部出した(すい)(はん)()はもう水につけてあるようで、いっしょに洗いはじめます。

(ああ、リョーゴって、ほんとにお姉さんと二人暮らしなんだな)

 じんわりとした驚きが胸にしみました。綺紗のイメージにある中学生男子とは、およそかけはなれた了悟のその手際のよさに、親のいない生活をあらためて見た気がしたのです。

(ママ……)

 ママの調子がおかしいことは、最近気づいていました。でも、まさか、急にこんなことになってしまうなんて……。

学校から帰って、家を出て行くとき、ちゃんとあいさつしていればもっと早く気づけたかもしれない。そしたら、なにか変わったかもしれない。ということはもしかしたら、私のせいなんじゃないか。

(ごめんなさいママ)

 涙が、ほほを伝って、カーディガンに包まれた両腕に吸いこまれていきます。

 台所がいつもより薄暗い感じがします。隣のリビングが真っ暗だからでしょう。ママはめったに使わない台所の洗い場専用の小さいライトが点いていたりするのも……。なんだかいつもの家とちがうようで、おちつかない感じでした。

(ママに会いたい……)

 あとからあとから、涙があふれて止まりません。

 神様、神様、お願いします。

 ママまで、とらないでください。

 もう、〝普通〟をうらやましく思うことは、やめたから――


 窓の外で、コロコロと虫が鳴いています。綺紗は目を開けました。どうやら、眠ってしまったようです。体がぐったりします。どれくらい眠っていたのでしょうか。

 体を起こすと、ソファの上でした。ふと明るい台所のほうに目を向けると、了悟がテーブルにつっぷして、学生服のままで寝ています。

(リョーゴ……)

 どうしてリョーゴがここに? ママは?

 ……

 ……すぐに思い出します。ママは救急車で病院に運ばれていってしまったのです。

 今この家には、綺紗と、了悟しかいません。

(これから、どう……なっちゃうのかしら)

 綺紗は抱えきれないほどの不安をおさえて、よろっと立ち上がりました。トイレに行きたくなっていました。きっと同じように疲れているだろう了悟を起こさないように少し気をつけながら、移動します。少し寝たことで、心もだいぶ落ち着いてきました。寝る前は、自分のことしか考えられませんでしたが、今は了悟がどれだけ自分を気遣ってくれたか……と、深い感謝の気持ちでいっぱいになっていました。思えば今だって、いつの間にか寝てしまった綺紗をソファに運んでくれたのも了悟です。

 台所からの光を頼りに暗いリビングを抜け、廊下を曲がったところのトイレで用を足し、また同じ廊下を通ります。

 戻ったら、了悟の作ってくれたチャーハンを食べようと思いました。ひとたびそう思うと、ひどくおなかがすいていることにも気がつきました。あのまま机につっぷして寝ている了悟を一度起こして、先にお風呂に入ってもらおう。その間にご飯を食べて、了悟も自分もちゃんと寝られるような寝じたくを整えておこう。そう考えて、畳じきの仏間のふすまのそばを通った時です。

 誰かがふすまからのぞいていました。

 綺紗は、ぴたりと足を止めました。

 止めたというより、あまりのことに動くことができませんでした。

 黒い能面のようなのっぺりとした顔が、こっちを見ていました。

 闇に隠れるためのような、全身そのまま黒一色。手足はすらりと長く大人の体つきです。

(え……?)

 まるで質量をもった影が、こっちを見ています。

 見ているとわかるのは、顔が能面のようにのっぺりとしているとはいえ、凹凸はあり、表情があるからです。

 さっきから、なにか黒い影がいたような気がすると思っていました。家に入る前、いやな感じがしたこと。意識のないママに驚いたとき、なにか黒い影がかけぬけていったこと。それに、精神病院でもなんだか胸さわぎを覚えていました。でも、それは心が作り出した見まちがいかなにかだと思い、あまり気にとめていませんでした。

 でも、ここに、目の前に、こうもはっきりと現れたら――……。

 それは笑っていました。

「……!! なんかいる!」

 綺紗は床にはりついた足を無理やりひきはがし、無我夢中で走りだしました。台所に向かって。

「どうしたんだ、綺紗!!」

 驚いた声とともに、眠気も見せず、了悟がすぐにリビングのドアの前まで駆けつけてくれました。

「リョーゴ、なんかいる。なんかいるわ……!」

「なんか……? ネズミか?」

 了悟は涙目で取り乱す綺紗を片手でぎゅっと抱きしめてかばいながら、もう半身を前に乗り出すようにして、一歩一歩慎重に進みます。綺紗は、さっきのが動物などではないことは直感でわかっていました。あれは、動物というより、

「ちがうの、なんかね……人の影みたいな……」

 明らかに人に近いものでした。

「まさか……!! いや、そんなことは……」

 人の影、と聞いた瞬間、了悟は驚きのあまり飛び上がりました。見てもいないのに。

「なに……? なんなの? ……リョーゴはなにか、知ってるの?」

「もしかして、……なんていうのか、真っ黒い人間みたいなやつか?  まさか、おい、まさかホントに……?」

 まさにそれでした。

「なんで……知ってるの!」

 了悟は「キサ、冗談で言ってるわけじゃないんだよな……」とこわばった顔で笑いかけます。

「冗談なんかじゃないわ! 意味わかんないこと言ってるのはそっちよ!」

「どうする……いや、まだそうと決まったわけじゃない……でも確かめに行くのも……やはり危険だ……」

 綺紗に言い聞かせるというより、大切なことを自分自身に確認するように何度もつぶやいています。綺紗が見たものがネズミなどではないと分かった今、もう、自分の体の後ろに綺紗を隠すようにして、じりじりと静かに下がっていき、ドアに触れた瞬間えいやっとリビングに飛びこんで逃げました。ソファになだれこみ、了悟に半分おもいきり踏みつぶされるような形になった綺紗は、悲鳴を上げます。

「いたいっ……!」

「あぅ、わりっ! ……ああ、エライことになった。あーどうしよ」

 了悟はあわててどきますが、綺紗を気づかうのもそこそこに、立ち上がって落ち着きなく、部屋の中を行ったり来たりしています。あまり見ない了悟のその動揺に、綺紗までますます不安でたまらなくなってきました。

「あれは、なんなの?」

「あれは……。このままだと危険な状況だ。……キサ、誕生日って、四月一日だったよな」

「え? ええ、まあ、そうだけど……」

 なんで今このときにそんなことを尋ねるのかしら、と綺紗が疑問に思う間もなく、

「西暦二〇××四月一日の早生まれ、九歳の小学四年生。血液型はO型」

「そ、そうよ……?」

 いくらそこそこ付き合いのある人のことだからって、こんなにすらすらと?

了悟は何事かを頭の中で計算しているようでしたが、

「ありえない!」

 はじけるように大きく肩を落とし、せっぱつまったようなため息をついています。巻き毛の頭に手をやって、わしゃわしゃとかいています。

「十六歳までまだあと六年半ある! それに、十六歳になったところで――すぐに発現するほうがめずらしいって……」

 まずは姉ちゃんに連絡……いや……これは(かん)(しょく)を抜け出すチャンス……、などと何事かをブツブツつぶやき、そして。

「もうやるしかない。キサ、ちょっと、いいか」

 了悟はどういうわけか決意を込めた力で、震える体を押さえつけるようにして立っているように見えました。

「な……なに? なんなの……?」

「これから、ちょっとした儀式を始める。ほんとは、もっと準備して、全部話してからきちんとした方法で執り行うんだが……わりぃな、今回ばかりは事情が違う」

「どういう……ことなの?」

「説明はあとだ。もう、時間がない。あいつが、いつまであそこにじっとしていてくれるか」

 了悟は綺紗をリビングの中央に移動させると、電気を消しました。暗い部屋には、廊下からオレンジ色の光が差し込むだけです。

「俺の言葉に続いて、ゆっくり発音して」

「え、ええ……」

「たのむ。今は何も考えず、俺の言うとおりにしてくれ。時間がないんだ。な、キサ。俺のこと、信じて」

 了悟は、自分が無理を言っているのをわかっているようでした。パパの様態にうちひしがれ、ママが救急車で運ばれたと思ったら、わけのわからない生き物が家の中にいて、さらに説明もなしに、儀式? を始めるというのです。しかし……

「わかったわ」

 綺紗にはこれから何が起きるのかまるでわかりませんでしたが、了悟のことは信頼していましたので、迷う必要はありませんでした。

「ゆっくりでいいから、集中して。これから言うことの、後につづけて繰り返すこと。途中で、言い間違えたり、やめたりしない。いいか」

 綺紗は、黙ってうなずきます。了悟を信じると決めた今、疑問を頭から消し去ります。了悟は、心を落ち着かせるようにして深呼吸すると、綺紗の目の前で片膝をついて、まるで映画に出てくる中世の騎士のようにかしづき、片手を自らの胸に当て、「永遠の忠誠を誓います」とつぶやき、そしてもう片側の手で綺紗の手をとると、綺紗に「まねしろ」と合図するような目でこう言いました。

「よろしい。汝の右手、我が剣となり、左手、我が盾となれ」

「よろしい……。な……なんじの右手、わがけんとなり……左手、わが、たてとなれ……」

 なれない日本語に、綺紗はとまどいながらも、続けて真似するほかありません。なんだか、時代がひとつ違うような儀式です。

 そのときでした。黒い影が了悟の後ろの、ドアの透明なガラス越しにぬーっと現れました。綺紗は悲鳴を上げようになりましたが、

「命!」しかし了悟は真剣な目で、それを制します。「我が(かて)となり……」

「命……わがっ……かてと……なり……っ」

 綺紗はぐっとこらえ、言われたままを必死に繰り返します。するとなんと、綺紗を中心とした足元には謎めいた、()(ほう)(じん)のような金の文様が描かれました。なにこれ!? 魔法!? 綺紗の驚きとは対照的に、了悟は確信を得たように、力強く続けます。

「魂! 我が灯となれ!」

 さっきの黒い影が、人間とまったく同じ手つきで、ドアノブに手をかけ、かちゃりと回し、迷うことなく引いて開けます。もう、了悟の真後ろです。

「魂……! 我が……! 灯となれ!」

 綺紗が唱え終わると同時に、了悟が綺紗の手の甲に静かに口づけをします。まるでガラスを扱うかのように、そっと。お姫様に口づけする本物の騎士のようです。そうした瞬間、あたりはまばゆい黄金の光に包まれました。立っているのがやっとのほどのなにか見えない力が、下からおしよせてきます。

 目をあけると、了悟が、綺紗が倒れぬように肩を回して支えていてくれました。

「!?」

 その肩には、(じゅう)(りょう)(かん)のある、大きな剣がかつがれていました。刃と柄の間に、たてがみの様な毛がふわふわとあり、その中に大きな宝玉が埋め込まれ、光っています。口元を押さえて息をのむ綺紗に、了悟はおだやかな目で「ああ、もう声は出してもいいんだ」と言って、ゆっくり綺紗の頭をなぜます。突然現れた大剣が、意外にも学ランに似合っていました。

「さ、さっきの、影は!? なに、その、剣……」

「もう大丈夫。消したよ」

 たしかに、その姿はどこにもありません。了悟は「この剣は……」と説明しかけて、

「あれがキサの母さんの魂の入った黒影だったらよかったんだが……確率的にはかなり高いはずなのに、違ったみたいだ。まあ、その分、誰かの精神は助かったけどな」

「ママ?!」

 魂……?

「これは、逆に幸運だ。チャンスだ。綺紗の持って生まれている力が、予想以上に早く発現した。――もしかしたら、綺紗の父さんも母さんも、助けられるかもしれない」

「それって、どういうこと?! パパとママに、なにか関係があるの!?」

「ああ。ほぼ確定だ。あのな、これだけ言っておく。おまえのパパとママは、ただの病気じゃない。おまえが頑張れば、助けられる」

「そう……なの?」

「でも今は、早くここから離れないと。もっとあいつらが来たらまずい」

 了悟は眉間にしわをよせて、なにか考えているような目をしたあと、「出るぞ」と言って綺紗の背を押しました。

「出るって、外へ!?」

「そうだ。もうだいぶ夜だけどな……緊急事態なんだ」

 了悟は綺紗にはつとめて優しく言いながら、あわただしく携帯電話を取り出して電話をかけています。玄関まで移動する間、綺紗は何度も後ろをふり返り、了悟がいることを確かめました。大きな剣を担ぐ姿にはとまどいますが、黒い影はもうどこにもいませんでした。

 パパ、ママ……。

 わけわかんない。でも、助けられるの? 私が?

「もしもし……姉ちゃん? 大変なことになった。そうか、もう、話いってるか。ああ、佐助さんと合流すればいいんだな」

 了悟の話し相手は、どうやら二人暮らししているお姉さんのようです。

「ああ。キサの力が発現した。発現可能予定日より六年と半年早い」

 また“力が発現した”ということを言っています。綺紗が考えを巡らせるより早く、

「俺、契約したから」

 そう伝えて、すぐに切りました。

「急ぐぞ。このまままた原付で走って、佐助さんと合流するんだ。まずは俺の家に行く」

「わ、わかったわ」

 とにかく今は、わけがわからずとも了悟の言葉にうなずき、言われるがままに進むしかありません。

 了悟は扉を完全には開けず、そっとあたりをうかがうように顔だけ出し、剣を握りしめてきょろきょろとよく確認していました。おそらく、さっきの黒い影が襲ってこないことを確認しているのでしょう。そうして、大丈夫だ、というようになんどかうなずくと、綺紗の手を引いて、鍵もかけずに家を出ました。二人はそれこそ泥棒のようにひっそりと、闇に身を隠して、夜道を、音もなく走りました。電信柱をいくつかこえ、もう閉店していて暗いスーパーの前を通り過ぎ、小さな田んぼのあぜ道を抜けます。あたりは夜の匂いが立ちこめていました。時刻はもう、十時ぐらいでしょうか。大きな剣を担いだ学生服の中学生と、小学生の女の子がこんな時間に全速力で走っているのは、さぞかし異様な光景だろうと綺紗は思いました。

 人気も街灯もなく真っ暗闇で何も見えない広い田んぼになってきたところで、ぼろぼろのアパートが見えてきました。お姉さんと二人で暮らしているという、了悟の家です。綺紗も何度か遊びに行ったことがあります。もとは白かったであろう壁はヒビが入って灰色に薄汚れて、肝試しにうってつけのアパートです。しかし今日はそこには入らず、了悟は駐輪場に停めてある、原付バイクにかけよりました。ポケットから鍵を取り出し、がちゃがちゃと回していると――

 ブロロロロロ……

 後ろから車がきました。いかめしい大型トラックです。綺紗と了悟は、ヘッドライトにまぶしく照らされます。暗闇に慣れた目にその光があまりにまぶしいので、綺紗は手で目を覆いました。了悟も鍵を回す手を止め、顔の前でてのひらをかざしています。大きな剣も、光を反射させてきらりと光ります。もしかしたら騒ぎになるかもしれません。

 やはりその大きなトラックは綺紗と了悟の前でくると、急ブレーキをかけるようにつんのめって停まりました。ガーッと窓が開きます。

 まずは、腕まくりした筋肉質な太い腕が出てきました。そして上半身を乗り出します。坊主頭にタオルを巻きつけていて、口元には若いしわとタバコ、あごには無精ひげ――

「悪りぃな。遅くなった」

 怖そうないでたちですが、優しくて知的な笑みを浮かべる彼は――

「「佐助さん!」」

 綺紗も了悟もほっとして同時に叫びました。この人は、了悟のお姉さんの恋人の佐助。綺紗も了悟もよく知っている人です。年齢も三十歳に近い彼は、かなりの頻度で了悟とお姉さんの住むアパートに来ているので、そういう場合には了悟が「邪魔者だと追い出された」などと語り、綺紗の家に遊びに来てはよく夕食を食べていきました。まあ、後でわざわざ綺紗の家まで彼が迎えに来てくれるので、了悟の追い出されたという主張は大げさな話だとわかりますが――。綺紗も、了悟を迎えに来てもらったときに、佐助とはよく話をしたことがありました。

「ああ、佐助さん、聞いてちょうだい。私、なにかヘンなことにまきこまれているみたいなの……。パパとママも……。了悟が詳しいことを知っているらしいのだけれど、とにかく今は逃げるしかなくて――! もしよかったら、逃げるのを手伝ってほしいの……」

 佐助は、黙ってじっとその言葉を聞いてくれます。綺紗が少し安心して、さらにきちんと説明しようと口を開いた時でした。

「失礼いたします、よっ」

「え?」

 佐助は太い足を折って一度ひざまずくと、片手を自分の胸に、もう片方の手は綺紗の手をとって、そっと口づけをしました。あごの毛がちくっとします。

 ま、まさか、この人まで……。

「永遠の忠誠を誓います」

 するとやはり、暗い地面に大きく、魔法陣が光で描かれます。さきほど、了悟がしたこととまったく同じ行動です。おびえる綺紗の瞳をじっと見つめ返すその目はもう、決して何かの真似事ではなさそうな真剣さが漂っていました。

 魔法陣の外から、「キサ! さっきの呪文を唱えるんだ!」という了悟の声がかかります。

 了悟の声に、綺紗は反射的に、口が動きました。

「よ……ろしい。汝の右手、我が剣となり、左手、我が盾となれ――。命、我が糧となり、魂、我が灯となれ――!」

 そして、魔法陣からの大きな光に包まれた次の瞬間には――

「ふ~む。日本刀か。悪くないな」

 抜き身の、細くともどっしりと存在感のある日本刀を掲げた佐助さんが立っていました。

「私……なにが起きているのか……ホントに信じられない……」

 佐助は、怖がらせてごめんな、とごつごつした手をやさしくぽんと綺紗の頭に置くと、

「リョーゴ」

「……はい」

 了悟に背中を向けたまま呼びかけます。

「できるか?」

 少し間があって、

「――やりますよ。キサを……よろしく頼みます」

 了悟の体も、佐助の体も、黄金色に光っています。二人とも、綺紗とはまるで違う世界を生きているように見えました。了悟の顔――佐助の肩越しに見えたその顔は、今までに見たことがないようなものでした。綺紗のわからないところでなにかを決意し、なにかをあきらめて受け入れているような――

「お嬢さんはこちらへどうぞ」

 佐助は、日本刀をどこかにしまって、トラックの助手席のドアを開けて、気取ったように丁寧に一礼してみせます。

「了悟……は?」

「俺はやることがあんだ。平気だよ」

 助手席に乗りこんだ綺紗を、了悟は口笛を吹くように、軽く笑って大きな剣を担いで見上げますが。

 悪い予感が、胸をよぎります。

「あの……」

「すまねぇな、お嬢さん」

 バタン、とトラックを揺らしながら綺紗と同じく運転席に乗りこんだ佐助は言いました。

 ――今日からあんたは、ただの小学生じゃない。

「え?」

「いや、俺の口から説明するようなことじゃないか。もうすぐ、いやでも知らされることになる」

 トラックは、了悟を乗せないまま発車します。トラックは自動車と違って、ゴーという音や、振動が大きいことを知りました。景色も、なんだか二階から見下ろすような高さから見えます。今日は原付バイクにも乗ったし、トラックにも乗って、新しい体験が多い日です。あっという間に、田んぼを抜けました。

 今やトラックの走る道路は、大通り。綺紗が了悟と病院に向かったあの大きな通りです。しかし今は深夜とはいえ、人もいなければ車もいませんでした。このトラックが一台、ぽつんと走っているだけです。

「ちょっとみなさんにどいてもらったからな。お姫様のお通りだーってナ。ま、町で交戦になっても、人は気付きやしないんだ。さっきの契約には、意識していない人には、見えない幻覚がかかっている」

 佐助は荒々しく猛スピードでトラックを運転しながら説明してくれますが。

聞きたいことは山ほどありました。

 私が、ただの小学生じゃなくなったって、どういうこと。

 どうしてリョーゴや佐助さんがなにか知ってるの。

 そして……

「あいつと代わってやりたい気持ちは山々だ」

 綺紗の一番の不安に気が付いたように、佐助が静かに言いました。

「君にとってあいつが大切だって、知ってるんだが……」

 そう。

 トラックに乗らなかったリョーゴは、いったい、なにをしているの。

「残念ながら、こいつの運転の仕方はまだ教えちゃいねえんだ! 原付はバッチリだがな!」

 そこでふと気づきます。

 了悟に原付の乗り方教えたの、あ、あ、あなたね?!

 その時、綺紗は大きく横にゆすられました。シートベルトが起動し、綺紗を守ります。なにが起きたのかと、窓ガラス越しにのぞけば――あの黒い影が、わらわらと集まってきては、トラックにはねのけられていました。しかし、

「!」

 窓ガラスに、黒い手が張り付きました。綺紗の顔の目の前。集まってきた暗い影の集団の中から、トラックでふりきれなかった一匹が、外側からドアの取っ手を引っ張り、ドアを開けようとします。

「やだっ――! 来る……来るよ……」

「キサ、ロックはかけてあるな!?」

 ドアを開けるレバーのつまみを確認したら、鍵がかかっていることを示す赤色になっていました。

「う、うん……! でも……」

 ドアが開かないとわかると影は、どん、どんと、力を込めて窓ガラスを叩き割ろうとしてきます。ドアの取っ手をためし、鍵がかかっていることを確かめてからの物理戦。まるで車という道具を熟知しているかのような人間らしい手順でした。さらに、顔の凹凸をよく見ると、にんまりとくったくのない笑顔をうかべていることにも気がつきました。

 影は、ひじから拳までを振り子のようにして、重い打撃をくりかえします。

「いやーっ!!」

 窓ガラスが、一撃一撃受けるたびにこちらに迫りくるように振動し、今にも割れる――と思った瞬間でした。窓の外にふわっとオレンジ色の閃光がきらめきました。影が悲しそうな表情に変わり、悲鳴を上げてきらきらと光を残し消滅していきます。

「なに!?」

 綺紗は窓ガラスに額をくっつけて外をうかがいます。少し下には小さなバイクが一台走っていました。

「りょ、了悟、もしかして……?」

「ああ、そうだ」

 運転に集中していた佐助の表情に、一瞬ちがう色がさしこみます。

「外でヤツらとやりあってる。おまえさんをランドに連れていける可能性を上げるためなら――」

 佐助の言葉を、外からブレーキの音と、なにかとなにかがぶつかるにぶい音がさえぎりました。そしてもう聞こえてくるのは、綺紗の乗っているトラックのエンジン音だけになりました。

 今のはもしかして――

 了悟が倒れた……音?

「大丈夫、あいつはあれくらいじゃ死なないよ」

 死ぬ?

 死ぬって?

 リョーゴが……?

 だから……、なに、してるの……。いいかげん、教えて!!

 佐助は綺紗に「大丈夫だ、あいつなら――大丈夫」と言い聞かせながらも、終始、暗く沈んだ表情でした。


 トラックが停まりました。綺紗は外に影がいるかもしれないことも気がかりでしたが、やはり了悟のことが気になって、窓にはりついて後ろを見ていました。停まるなり真っ先にロックを解除してドアを開けます。降りるとき異様な高さに一瞬クラリとしましたが、助手席に来てくれた佐助に手を取ってもらってジャンプして着地。お礼も言っている余裕なく、後ろに走ろうとしましたが――。

「えっ……」

 降りた瞬間、ここがどこなのかを知りました。

「ここって……イリュージョンランド?」

 イリュージョンランド。正式には神聖幻想国(イリュージョンランド)。世界各地にある巨大テーマパークです。その、広い門前に降ろされていました。イリュージョンランドは、中世ヨーロッパをテーマにしてあるだけあって、敷地は西洋風のとがった柵に囲まれ、大きな門は柵と同じ鉄製で、両開きの観音扉(かんのんとびら)になっています。それにしても……こんなところまでトラックが侵入できたでしょうか。いや、そもそもこんな時間には車でも徒歩でもここまで来られないでしょう。でも、もうそんなこと気にしているような状況でもなさそうです。どういうわけか門の前には、数人の騎士が待ち構えていました。この騎士は、前にイリュージョンランドに来た時にパーク内で見かけたことがありました。もう営業時間は終わったはずなのですが。

「お嬢さん、いや、ここからはきちんと、()(しゃ)()様と呼ばせていただこう」

 戸惑う綺紗のそばに寄った佐助が、そう言って再び片ひざをつきました。目の高さを合わせるように。そのしぐさに、綺紗は、これまで向けられたことのない空気を感じました。小さい子に対するものよりも、もっと、目上の人に敬意を払うような感じがしたのです。

「きしゃらさま……?」

「ああ。あなたは、綺紗羅姫。この星の救世主となる方なんだ」

 まじめな顔で、そのまま深く一礼する佐助。綺紗は、さっぱり意味がわかりません。

「そ、それより、リョーゴはっ……!」

 はっとしてふりかえると、後方に小さく影が見えました。襲いかかってきたあの影ではありません。傷を抑えるようにして前に屈みながら、よろりよろりと弱々しく、ふらつきながら歩き――

 どしゃっ……カランカラン。

 力尽きたようにうつぶせに倒れこみます。投げだされた大きな剣が転がり、けたたましい音をたてました。

「りょ、リョーゴ……! 大丈夫!? リョーゴ!」

 綺紗は()()()(ちゅう)で駆け寄りました。

 ひどいものでした。綺紗が座って抱きかかえた時に見えた了悟の顔は、殴られたように赤くはれていました。着ている学生服も土まるけで、ひざやひじあたりはボロボロに破れています。外に見える顔だけでなく、全身に傷を負っているようでした。

「リョーゴ!!」

 あの黒い影たちに集団でボコボコにされたのと――それと、おそらく原付バイクで転んだのでしょう。ズボンをめくると、打撲以外にも、ひどいすり傷のようなものがあり、血がにじんでいました。

ぜえぜえと肩で息する了悟のそばに、いつの間にか佐助が立っていました。(ぼう)()(あたま)に巻いたタオルを風にバタバタ言わせ、まるで海岸の岩がしゃべったかのような厳しさを感じさせる声で、言い放ちました。

「了悟、お前……もうひと頑張りできるな」

 綺紗の両腕に抱いた了悟が、ぴくっと身を硬くするのがわかりました。

「っは、……はい」

 しかし――

「ありがとう……ございます。恩に……着ます」

 了悟は、よろけながらも、手元に転がった剣を取り、杖のようにそれを支えにして立ち上がります。

「ま、お姫様のエスコーターが俺じゃああれだしな……」

 ぽりぽりと、ほおをかきながらつぶやく佐助に最後だけ肩を借りて、立ち上がった了悟は、剣をどこかへしまい、ズボンで手をぬぐった後、

「では、参りましょうか。姫様」

 そう言って、あまりのことに何もできず座りこんだままの綺紗に向かい、軽く屈んで手を差し伸べました。そのしぐさはいつものような、綺紗をおどけてからかったものだと思いましたが――どこか、(せん)(れん)された本物の従者のようで、痛みなどもう消し去ったかのような、またもや見たことのない顔つきでした。

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