悪魔の古城
「そろそろ、病院……左の方に、見えてくると思う。おっきい建物」
「ん、りょーかい」
そうして病院の近くに来るころには、だいぶ日が落ち、あたりは暗くなっていました。秋になって、ずいぶんと日が短くなりました。了悟はバイクのライトをつけ、夜に染まりはじめた並木道を走ってくれていました。日が落ちた後の風は涼しくて、綺紗は、了悟の体が余計あたたかく感じました。
しばらく無言の時が続きました。車も多くはありませんでした。バイクのエンジンが、綺紗の鼓膜や体を揺らしていました。何本も何本もひたすらに同じ木が並んでいるそばを走り抜けます。ここはママと車で来たときにしか見ない風景でした。とても遠くに来た感じがします。
しだいにその向こう側に、見慣れた大病院が見えてきました。
「あれか」
了悟の背中にヘルメット越しに額をくっつけて頷くと、彼はハンドルをぐっと曲げて、その病院の広い駐車場にバイクを進めました。駐車場のはじにある、駐輪場スペースまで来ると、速度をのろのろに落として、エンジンを止めます。綺紗は了悟より一足先に降りました。
「けっこう暗くなったな~。面会時間まだ大丈夫か?」
「わかんない。今何時?」
了悟がポケットから携帯を取り出し、時刻を確認してくれます。
「五時。ここまで来て、けっきょく会えなかったりしてな」
了悟がバイクに鍵をかけているあいだ、綺紗は苦労してヘルメットを脱ぐと(鼻がつっかえてもげそうになりました)、送ってもらったことと一緒にお礼を言って、ヘルメットを返しました。今まで座っていたサドルを持ち上げると、中にスペースがあってそこに入れられるようになっていました。了悟はそこにもしっかり鍵をかけます。
薄闇に包まれた病院がそびえたっています。大型マンションのように、南向きにオレンジ色の光を灯した窓がずらりと並んでいました。
(あの中にパパや、たくさんの入院患者が入院しているのね)
この間までいつも来ていたはずなのに、なぜか綺紗はまるで悪魔の古城のように見えてしまったのでした。それだけではありません。なんだか、窓の中に、黒い影がびっしり詰まって、うごめいて見えました。
(あれ……は……?)
「そういやさ、おまえのおやじって、どんな人なの?」
了悟がそんなことをたずねてきたので、不安が少しだけ散っていきます。
「すーっごく明るくて優しい人だよ。大学の教授で、それにけっこうかっこいいのよ?」
綺紗は、これは別に親バカならぬ娘バカではないと冷静に思っていました。三十五歳にして、大学の教授になったことは、パパの親戚もママの親戚もいつも自慢していることだったし、大学が春休みに入ってしまう二月のバレンタインの日には生徒が何人かで楽しそうに家までたずねてきたこともあったのです。
「ふーん。俺、おやじさんは初めて見るな」
「そうだったわよね! じゃあ、今日紹介できるわね」
「部屋の外で待ってようかな~。おやじってのは、娘につく悪い虫を払うのが仕事だからな」
綺紗は、プッとふきだしました。
「もう、大丈夫よー! 私がうまいこと紹介してあげるから!」
「どうだかなあ……怖い怖い」
了悟の弱った顔に、綺紗はくすくすと笑いました。
それからはなんとなく声をひそめて、了悟と病院の裏側に回ります。なんだか足音が響く感じがしました。正門はこの時間になるともう開いていないようです。
「了悟がこっちに転校してきてからも、しばらくはパパ、まだうちにいたのよ? るりちゃんのパパのことはよく知らないけど、でもぜったい、うちのパパのほうがすっごく優しいんだから。それに、ギターだってうまいのよ」
「へええ。そりゃ楽しみだ」
綺紗の父親は昔からずっとバンド活動をしていて、大学では軽音サークルの顧問でした。パパのファンは、大学の講義でパパを好きになってくれた人と、長い音楽活動で仲良くなった人と二種類いたようでした。パパは人気者で、綺紗の自慢でした。
裏に来ると、小さな自動ドアがあたたかい光をもらしていました。受付のお姉さんもいます。綺紗はほっとして、了悟に続いて中に入りました。
「面会の方ですか?」
こちらを物めずらしげにじろじろと見る、ちょっと冷たそうな受付のお姉さんに動じず、了悟はキッパリと答えます。
「そうです」
「それではこちらをご記入ください」
そう言って受けとったのは、ここに来るとママがいつも書いている紙でした。了悟がもらって、綺紗に渡してくれました。ママはこんな内容を書いていたのかと思いながら、綺紗は自分の名前やパパの名前などを記入します。むずかしい漢字でわからない場所は了悟にたずねたら(おそらく適当に)うめてくれました。その紙を受けとった受付のお姉さんは、
「お二人は未成年ということですね……。本当は、困るんですよ。未成年の方のみの面会は」
と、顔をしかめます。綺紗と了悟の心に緊張が走りました。しかし彼女は紙をどこかの棚にしまうなど作業をしながら、
「看護師が一人同行させていただきます」
と、条件付きではありますが、おみまいのOKを出してくれました。未成年者が親といっしょでない場合はそういうしくみになっているようです。ほっとして綺紗たちは素直にうなずき、看護師さんがいっしょに来ることを了解しました。
「それでは、簡単にボディチェックをさせていただきます」
これも綺紗は慣れていることでした。綺紗は肩からかけていた長いベルトのかばんをあずけ、了悟はズボンのベルトを抜かれました。
しばらくすると、担当してくれる女の看護師さんが現れて、「こちらです」とエレベーターに案内してくれました。
「どうやってここまで来たの? お父さんのおみまい、えらいね」
エレベーターの中で、看護師のお姉さんは親しげに声をかけてくれました。お姉さんは受付の人とちがって、若くて背の低い、ほんわりと優しそうな雰囲気の人でした。おそらく了悟と綺紗を兄妹だとかんちがいしているのでしょう。
「送ってもらったんです」
この人に、バイクで、と綺紗はちょっと得意な気持ちになって付け足そうとしたら、
「そう! お母さんに、お母さんに車で送ってもらいまして、はは……」
了悟にヘンな嘘をつかれました。お姉さんは「そう」とにこにこ言ってそれ以上詳しく聞いてくることはありませんでしたが……。
(なんなのよ、今の嘘は)
しかたなく合わせましたが、意味のわからない嘘です。後で聞かなくては、と綺紗は了悟を横目で見ました。わけもなく笑うように歯を見せていて、ちょっと挙動不審です。
それからすっと静かになって、綺紗はなんとなく上を向き、階の数字を追いました。二……三……。五階です、という涼やかなアナウンスに少し鼓動が速くなります。いよいよパパと面会です。了悟の顔が、緊張するのも見えました。
綺紗のパパの部屋は完全に個室です。だから他の人とちがって面会室で会わなくてもいいらしいことを前に聞いたことがありました。綺紗と了悟は、看護師さんに案内されるまま、白い光に照らされた廊下をひたひたと歩いて進んでいきます。綺紗は勝手に来てしまったことをパパに怒られないかとか、ママに言わないままこんなところまで来てしまったことを思い、今さらながら不安になりました。それに、パパに会ったらまずなんて言おうか、という悩みが頭の中をぐるぐる回りはじめます。パパに会った時の自分の姿をうまく思い描けなくて、まるで頭の中が汗をかいたような感じになりました。
いくつもの病室を通りすぎた時、看護師さんの足が止まりました。
コン、コン。とてもゆっくりと、ノックします。
「一色さん、お子さんたちがおみまいにいらっしゃいましたよ。開けますね」
いよいよです。
中から、ゴソッと動く音がしました。
ええい、もう、なるようになる!
そんな開き直った気持ちで、綺紗は看護師さんがドアを開けるのをじっと待ちました。開くドア。いや、待て待て……と、綺紗はここが二重扉になっていることを思い出します。そしてもう一枚のドアが開き――
最初に見えたのはベッドでした。病室によくある、白いベッドです。
それから電源の入っていないテレビ。
パパ?
パパは、いました。患者服を着て、ベッドの上に上半身を起こして座っていました。
綺紗の足が、ぱたっと止まりました。
顔から、笑みが消えました。
「パパ……」
かすれた声が、空気を小さくふるわせます。
「なんで……」
綺紗の大きく見開かれた目に映ったパパの姿。
視点の定まらない、ぼんやりとした目。血の気のない白い顔。うすい皮を通して形のわかる頬骨……
そこにいるのは、綺紗の知っているパパではありませんでした。
茶色に染めていた髪は根元が黒くなり、ボサボサにのびていて、手入れしていないことは明らかです。
そして何より、綺紗がパパの視界に入っても、なにも反応してくれないのです。
「パパ? ねえ、私よ。キサよ」
「……」
看護師さんが、心配そうにこっちを見ていましたが、綺紗はとりつくろう余裕なんてありませんでした。
「パパ……私、会いに来たの。最近、来れなかったでしょう? そしたら、リョーゴがね、いっしょに来てくれて。それで……」
「……」
声をかけてみても、なんの反応もありません。前髪のすきまから、目は開いているのはわかるのに、まるで心をどこかになくしてしまったかのように、なにもない目でこちらをみているようでした。
どうして。
「パパ……どうしたの?」
どうして?
「ほら、この人、リョーゴ。前に話したでしょう? いっつも校門で昼寝している中学生よ!」
綺紗は、了悟のそでをひっぱって、パパの正面に移動しました。
「ここまで私を連れてきてくれたの。バイク乗ったのよ私。リョーゴと二人乗りしてきたの! ガソリン入れるのも手伝っちゃった。コンビニ寄ったりして、楽しかったわ……。リョーゴって、ほらよくうちでご飯食べてる男の子の話ししたでしょ、あのリョーゴよ。お姉ちゃんと二人暮らしだから、たまにお姉ちゃんも呼んでご飯だべたりして……ね……前、話したことあったでしょ。その人だよ、ほら、リョーゴだよ……。今日、パパに紹介できるな、って……」
パパは、表情を変えずに、綺紗を見ていました。というより、顔がたまたまこっちを向いていて、目を閉じるのも気力がわかないという理由だけなのかもしれません。
じっと、人形のようになんの感情も見せずに。
どうして? なんで黙ってるの?
前のパパなら……
前のパパなら、私を見て、来てくれて嬉しいって、抱きしめてくれたのに、
前のパパなら、きっと、勝手に来ちゃダメだろって、ママを心配させちゃダメじゃないかって優しく叱ってくれたのに、
前のパパなら、誰だこの男は、綺紗とどういう関係なんだ、って、子供みたいに……
いつだってオシャレで、きらきらかっこいいパパ。
どうして、どうしてなにも言ってくれなくなっちゃったの。
ヘンだよ。コワいよ。
「パパ……。どうしたの、なんでそんなになっちゃったの……」
ぼそりとつぶやきました。
「お嬢さん、落ち付いて」
「キサ……」
看護師さんと了悟が、厳しい声色になりました。
ふと、窓が目に入ります。闇が、こちらを反射しています。
私と、人形みたいなパパ。
この窓には、普通の病院にはない柵があります。鉄格子。まるで牢獄のようにみえます。
そう、ここは、風邪をこじらせた人がくるような病院ではありません。
ベルトを没収されたのも、看護師さんが見張りにつくのも、
ここが、精神病院だからなのです。
綺紗のパパのように、心が壊れてしまった人のための。
「パパ! 目を覚ましてよ! 私を見てよ! 前みたいに……!」
「お嬢さん、だめよ。はい、もうおしまいね。面会は、おしまい」
「キサ、やめろ。帰るぞ」
さっきまでおっとりしていた看護師さんが、強い力で綺紗の腕をつかみました。せっぱつまった深刻な目をしていました。綺紗は叫びました。「パパ!」それでも、パパは無反応のままです。
「いやよ! 帰らない! 私、こんなのいや!」
「帰るんだ!」
了悟は、パパに詰め寄ろうとする綺紗の脇に手を回して、抱きかかえるようにして病室のドアへと押しました。
「やめてよ! パパ、パパ目を覚まして! 一人にしないで! いやよ、どうすればいいの私! いや、いやよ……!」
私がこんなに叫んで、こんなにみんなが騒いでるのに。
パパは、動かない。なにも、しゃべらない。
絶望的な表情を浮かべる、ただの人形のようになってしまった。
パパが大学で研究したり講義をしたり、音楽活動をする、あの日々は、終わってしまった。パパが私をイリュージョンランドに連れて行ってくれることは、もうないのかもしれない。
了悟が、押すのをやめました。綺紗の前に膝をついて、両肩をつかんで、のどからしぼりだすような、泣くような声で言いました。
「帰ろう、キサ……?」
綺紗は涙が後から後から止まらなくなって、了悟に身を任せるようにして病室から出ました。
何も悪いことなんてしてないのに、牢屋に閉じ込められたパパ。私のことも、わかってくれなくなっちゃった。
廊下に出ると、何事かと集まってきた二、三人の他の患者さんがいました。
「みなさん、大丈夫ですから。ご心配なく。自分のお部屋に戻ってくださいね」
そう言ってみんなを下げる看護師さんはもう人のよさそうな笑顔に戻っていましたが、綺紗の腕をつかむ力は強いままでした。
廊下で、泣きじゃくる綺紗に、了悟はなにも言いませんでした。看護師さんも、なにか言いたそうでしたが、結局無言で、背中をさすってくれていました。そうして綺紗の泣き声だけを響かせてエレベーターに乗りました。
帰り際、了悟が診察室に呼ばれていきました。呼ばれた理由など考える余裕は綺紗にはありません。ただただ、ついにパパがあんな状態になってしまったことを受け入れることに必死でした。これからもずっと、パパは心から笑ってくれることはないのかな、と、そう思うと、心が強い力に押しつぶされてひしゃげた感じがします。胃がのどまでせりあがってくるように気持ちが悪くなりました。
しばらく待って、了悟が診察室から出てきました。「お世話かけまして本当に……」「すばやく対応してくださって……」と、中の人に何度も頭を下げています。
「キサ」
了悟のことを、綺紗は涙をためてじっと見つめます。
綺紗の前に立った了悟もまた、悲しい気持ちに満ちていました。
了悟は、たった今、看護師さんに言われてきました。綺紗が言った、「前みたいに戻って」「こんなの嫌」という言葉は、心を病んでしまった人にとってかなりのタブーだと。実は、そんなことは了悟だってわかっていました。だからこそ、綺紗がパニックになったあの時、看護師さんとほぼ同じタイミングで止めに入れたのです。けれど。
「帰ろうな」
綺紗にそれを言って責めることなど、どうしてできましょう。