おだやかな午後のできごと
「さっきは、ありがとう。すごく、助かったわ」
戴剣式はなんとか滞ることなく納め、綺紗は体を休めるために聖堂にあるロビーのソファに座った際に、了悟に、心からお礼を言いました。了悟は疲れた様子も見せず、ソファの下にひざをつけると、腕のマッサージをしてくれます。
「いえ、当然のことをしたまでです。途中まで気がつかず、申し訳ありませんでした。団長の紅をはじめ、式の予定を立てた一同、皆、あれらの剣が幼少の綺紗羅様には重すぎることに気が回らず……。あとで謝罪に参りますので、平にご容赦くださいませ」
「えー……」
かしこまった謝罪があるという報告には、少しため息がもれました。もう休ませて~、と心と体が悲鳴を上げています。すると了悟は少しにやりとして、
「“会いたくもない”とお伝えしましょうか?」
「そ、それはダメ!」
綺紗はあわてて首を横に振りました。
っていうか、今のは……リョーゴの冗談?
綺紗の頭の中に、この城に来る前までの了悟のあの憎たらしい顔で、今の言葉が再生されます。
――“会いたくもない”って伝えといてやるよ!
――そ、それはダメ!
綺紗はクスクス笑って、「ばかっ!」と、マッサージをするためにかがんでいる了悟の頭をぽかんとたたきました。
「いたたた」
「もー。ほら、手を休めないで?」
「はい」
了悟も、なんだか顔をほころばせているように見えます。
大きなガラス窓に、四時過ぎの青い空が広がっていて、
鳥が飛んでいて、
イリュージョンランドに遊びに来たお客さんの楽しそうな声が聞こえてきます。
一仕事終えた後の、ゆったりとした時間が流れていきます。
綺紗はうっとりと瞳を閉じ、
でも、やっぱり懸命にマッサージをして尽くしてくれる了悟を見ていたくなって、また開けて。
ひじまでスーツのそでをまくった了悟の腕には、太い血管が、根を張るように浮いています。右子にマッサージ法まで教えられたのでしょうか。おだやかながらも、芯には真剣さを宿した瞳で、綺紗の筋肉をもみほぐす作業に没頭しています。
そうして、くつろぐ綺紗に、気持ち良さがもたらされました。
なーんか。
こんなリョーゴはリョーゴで、かわいいじゃない……?
前みたいに戻ってほしいとは思うけど、今のリョーゴがいやなわけではないのね、私も。
むしろ……もっと、知りたい。知らなきゃと思うんだわ。
綺紗は、決していやな気持ちではありませんでした。
「さて、腕に関しましては一通りもみほぐしましたけど……」ふう、と一息。「どこか気になるところは残っていませんか? お部屋に戻りましたら、もう少し全身の疲労を取って差し上げられるのですが」
「うーん……そうねえ」
綺紗は空を仰ぎます。
「んっ! それよりお手洗いに行きたいわ! 式の間ずっと行けなかったし! がまんしてたのよ私」
一呼吸。了悟はまばたきをすると、
「それでは、お部屋に戻ってからにいたしますか?」
「へ? なんで? この聖堂にもあるでしょ? トイレくらい」
「そ……そうですね……」
?
なんだかよくわからないやりとりです。
「聖堂のトイレはこちらになります」
一応、案内してはくれますが、了悟は移動中、視線をさまよわせたり、ため息をついたり、指をもじもじと遊ばせたり。なんだか見ていて落ち着きません。
「なに? リョーゴもトイレなら、今行けば?」
式典はかなり長丁場でした。昼食を取った後、四時頃まで拘束されていました。途中、休憩はあるにはありましたが時間が短かったので、もし了悟がそのときに行きそびれていたら……。
「あ……いえ、そういうわけでは」
「そう?」
弱ったように、「はい」と了悟はほほえみます。
了悟のほうこそ、疲れてしまったのかしら? 立っているのがつらいとか?
トイレのために了悟のそばを離れた間、なんとなくさっきまでの儀式を思い返してみます。みんなに剣を授ける手伝いをしてくれたあの時感じた安心感。
(そういえば、あれに似たようなのをやってもらったことがあったわね……)
近しい記憶の中で。
(あ)
ガソリンスタンドで、うっかりガソリンをこぼしそうになってしまったときです。あの時も、了悟が後ろから支えてくれて……。
(あ!)
ガソリンスタンド。
ガソリンスタンドといえば、です!
ピコーンとひらめきました。
綺紗はトイレから急いで戻ると、窓に向かって空を眺め、そしてたまに腕時計をちらちら気にしている了悟に、
「さっきから、そわそわしてる理由、わかっちゃった!」
言ってやりました。
「タバコね! タバコが吸いたかったんでしょ」
「ギクッ」
たしかに、この聖堂にトイレはあっても、喫煙所はありません。そもそも城の中にだって喫煙所は一、二か所ぐらいしかないはずです。
「なっさけないわね~! それでも騎士なのっ?」
「……っ」
考えてみれば、今までも「トイレ」と言って関係ない方へ行ってしまっているのを見かけたことがあります。タバコ吸ってきます、とは言えないのでしょう。
ふう。
ほおをひきつらせて苦笑いする様子を見る限り、ドンピシャのようです。大正解。綺紗は、見事に読みが当たったことがうれしくて、そして、何かなつかしい了悟の心を見た気がして……
「もう、タバコなんて、百害あって一理なしっていつもいってるでしょ」
と、笑ってつつきました。
「やめたほうがいいわよ! タバコなんてねー」
「うめー……からな。一度吸っちまったら……やめんのはつらいんだよ。キサは、吸うんじゃねーぞ」
……。
綺紗は、はっとしてしまう感情をおさえこみました。
なるべく、反応しないように。
「……そっ!」
このまま、会話が続くように。
「もう。バカね。リョーゴは。体壊すわよ」
「そのへん、いちおー気を付けてる」
「騎士なんでしょ」
「ああ……。最近、走れなくなってきたって感じるぜー」
「やめれば?」
「ムリ」
「なに甘えたこと言ってるのよ」
「いやも……こればっかりは!」
「まったく……」
「その分、トレーニング量でカバーする……」
「はー。じゃあもう、とっとと吸ってらっしゃいよ」
やれやれ。
「あーあ……、いけね……。抑えていたはずなのにな……」
その言葉は、タバコに対してなのでしょうか、
綺紗に対してなのでしょうか。
はたまた、両方でしょうか。
「んじゃーちょっと……吸ってきても、いいですか」
「しょうがないわね」
「失礼します」
了悟は、ひとときも綺紗と目を合わせず、
「右子サンから、きつーいお仕置きだな……。やれやれ」
そうつぶやいて、ロビーを後にしました。
おだやかな午後のできごとでした。
了悟はそれきりもう、戻っては来ませんでした。